NO.20(2004年8月)


地球は特権的惑星
――今ここにあることの意味を示唆する天文学――

渡辺 久義   

コペルニクス原理

 本連載の今年三月号の結びに、私は「宇宙はたった一人のあなたや私を生み出すべく、何億年もかけて準備してきたのである」と書いた。こういう言い方をTセンチメンタル″と思った人は多分あるだろう。今までの常識で言えば、こういう言い方は「宗教的」ということになる。実は私はそれに続けて、親鸞の有名な「弥陀のごこう五劫し思ゆい惟の願をよくよく按ずれば、ひとえに親鸞いちにん一人がためなりけり」という言葉を引用しようと思った。この「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願」を「百三十七億年をかけた宇宙創造計画」と置き換えれば、現代科学の到達した認識を言い表すことになるであろう。実はこれはセンチメンタルでも宗教的でもないのである。
 そのことを如実に感じさせるのが、前回に言及したゴンザレス、リチャーズ共著『特権的惑星―いかに宇宙の中での我々の位置が発見のためにデザインされているか』 (G. Gonzalez & J. W. Richards, The Privileged Planet: How Our Place in the Cosmos Is Designed for Discovery, 2004)である。この本は何回かにわたって紹介したマイケル・デントンのNature's Destiny の延長上にあるものと考えてよいが、天文学(あるいは宇宙物理学)の現時点での到達点を教えてくれると同時に、それがこの地上での我々の存在の意味につながるものであるという事実に、おそらく大多数の人々が虚を突かれるであろう。
 いつもながら素人の力不足はご海容を願いたいが、この本の主旨は理解できるつもりである。「特権的惑星」というタイトルは、我々の地球が全宇宙で(単に銀河系だけでなく)、唯一、高等生命の存在している惑星だということが、ほぼ百パーセントに近い確かさで言えるという事実を指している。この本はそのことの綿密で厳密な論証であり、今後出てくる天文学(宇宙物理学)の証拠はその確率を更に高めていくはずだ、「誰か賭けに応ずる人はいますか(Any takers?)」と言っているほどだから、よほどの確かさであるらしい。
 なぜ我々の住む惑星だけが全宇宙で、唯一、生命の存在できる条件をもつのか。そのことは一つの驚異であるが、そういう大胆な結論の裏には、その推論を可能にするここ数年ないし十数年の天文学の飛躍的な発達とデータの増大があるらしく、それもかなりの精度をもつものらしい。比較的最近まで、そこまで自信をもって推論することはできなかったようである。
 我々は普通、これだけ厖大な数の星をもつ銀河と、銀河そのものの厖大な集団があれば、この宇宙に地球のような条件をもつ惑星はかならず幾つかはあるだろうと考える。そういう想像と思い込みが、素人のみならず専門家をも最近まで支配していたのだという。著者たちはそれをCopernican Principle(コペルニクス原理)と呼んでいる。それは「地球が宇宙の中心などではない、従って地球が特別な存在ではない、つまり地球のような惑星はいくらでもあるはずだ」という昔からある根強い信念のことだという。
  この「コペルニクス原理」があるために、宇宙の他の場所に地球人のような文明をもつものが存在する確率(「ドレイク方程式」といって銀河系に限った確率計算式がある。それを改良したものを著者たちは提案している)がきわめて小さい数値にしかならないのに、これを大きく見積もろうとする傾向が専門家の中にもあって、真実から目をそらしてきたのだという。この原理が学界の公的な常識でもあった。そうなるとこれは生物学界の公的ダーウィニズムと同じことであって、理論が先行し理論に合わないものは排除されることになる。ダーウィニズムは「コペルニクス原理」に包摂されると言ってよいだろう。どちらも「人間が特別の存在などではない、そんなふうに考えるのは科学者の考え方ではない」という教説である。

地球外文明探査計画

 この「コペルニクス原理」に立って組織されたのがSETI(地球外文明探査計画)であり、それを先導したのが今は亡きカール・セーガンであるが、セーガン自身のETの存在可能性の見積もりも実は決して大きな数字ではないのである。もちろんETの存在を証明する電波のようなものを確認したというような話は聞かない。
 現時点での天文学の到達度には、天文学者自身が驚いているようなふしがある。天文学者の興奮ぶりが次のような文章から伝わってくる。

 二十世紀に入った頃、天文学者たちは、天の川の真の性質も、渦巻星雲も、恒星のエネルギー源も、元素や宇宙の起源も知らなかった。天の川が存在するすべてで、その内部に渦巻星雲が小さな物体として存在するのか? 重力が恒星に力を与えているのか、それとも何か新しいエネルギーの元が考えられねばならないのか? すべての化学元素が恒星内部で作られたのか? 宇宙は静的で永遠なのか、それともそれは動的に変化しつつあり有限なのか? なぜ夜空は暗いのか? 
 今日、我々はこれらすべての質問に対して、かなり確かな(ときには、およそということもあるが)答えを手にしている。今、天文学をやる者はきっと魅入られてしまうであろう。天体物理学の重要な新しい実験の報告なしに、ただの一ヶ月も過ぎることはない。

 ところで、この広大な(しかし無限ではない)宇宙に文明をもった高等生物が住んでいるのがここだけだとすると、それを単なる事実――科学的事実――として受け止めるのが、我々の自然な態度でも正しい態度でもないであろう。我々はその意味を考えなければならない。あるいはその意図を考えなければならない。この事実を、偶然によってそうなったとか無意味なものとか考えることはできないからである。もし我々のような惑星がこの宇宙にザラに存在するなら、その意味を考えたりする必要はないかもしれない。意味を考えることは科学の埒外にある。だから科学は意味を考えなくてもいいように、地球のような惑星がここだけであってほしくないのである。それが「コペルニクス原理」である。その点についてこの本は次のように言っている。

 (SETIにかかわっている)スティーヴン・ディックは、意図せずしてコペルニクス原理の中心的願望を要約している――すなわち、我々の注意を定義上デザインされたものでない物質的宇宙に限定すること。しかし、もし宇宙がデザインされたものであったとしたらどうなのか。もしその中での我々の場所と、知恵の進んだ観察者としての我々にとっての都合のよさが、目的を暗示しているとしたらどうなのか。もし科学というものが、我々の前にある経験的証拠について、こだわりを捨てて一心に考えることであるとしたら、それがある前提に収まりきらないからといって、この証拠を無視するのが科学的なのだろうか。そしてもし我々がその証拠を無視しないことを選んだとしたら、それをどう考えたらいいのか。別の言い方をすれば、もし宇宙が目的のために存在しているとしたら、どうすればそれが分かるのか。

  宇宙観測に最適の位置

 このような立場に立つ著者たちは、驚異的に広範囲の宇宙観測が可能になった現今の天文学そのものに視線を移してみる。さらに(物理学を宇宙的普遍性へ向かって発展させた)天文学がそもそもなぜこの地上で可能であったかに目を移す。もちろんこれは人間の知能が高いからに違いない。しかし考えてみれば、いかに知能が高くても、たとえば天空が常に雲に覆われていて観察が不可能ならば、せっかくの知能も持ち腐れではないか。ところが地球では幸運にもそういうことがないのである。
 そこで彼らは、観察地点を地球以外のあらゆる場所に移し変えてみる。ひょっとしたらもっとよい場所があるのかもしれない。しかし彼らの結論は、総合的に見て(個々の条件でなく)この地表ほどの恵まれた絶好の観測基地は、この宇宙のどこにもないという事実であった。実はそのことの論証がこの本の主眼である。「いかに宇宙の中で我々の位置が発見のためにデザインされているか」というサブタイトルがそれである。それは偶然ではありない、生命に適した場所がこの地球一つしかないのが偶然ではありえないように、宇宙観察に適した場所がここだけしかないということも偶然ではない、デザインされたとしか考えられないということである。
 誰もが当たり前のことだと思っている、太陽と月の見かけの大きさがほぼ同じで、日蝕時に(天文学者にとって重要な)コロナが観測できるということも奇跡的なこと、つまり宇宙のどこにもそういう場所は存在しないのだという。また本誌で読者の方が指摘されたことがある(二〇〇三、七月号)、銀河系の中での一見辺鄙と見える我々の位置、これも宇宙観測のためにはここしかないという位置であるという。
 生命が生きるために恵まれていることと、観測のために恵まれていることとは一応別である。生きるのには快適だが観測には全く不便ということもあるからである。ところが我々の地球にはそれら二つの条件が揃って存在している。これはどういうことを意味するのか。そこには何か深い意味があって、我々はその意味を悟るように、今この時期あたかも熟れた果実が人の手を求めるように、促されているのではなかろうか。この本の著者たちはそう考えようとしている。これらの科学者が同時に哲学者であることに、私は感嘆を禁じえない。

比喩による説明

 こんな比喩が使われている。――ある男性が愛する妻を喜ばせようとして、聖ヴァレンタインの日、妻が通勤で歩くコースの目立つ場所すべてに(無署名の)「愛のカード」をひそかに貼っておいた。当然彼女は喜んで、そのことを自慢げに同僚に話した。するとその同僚は馬鹿にするように言った、「今日は聖ヴァレンタインの日なのだから、町中どこへ行ってもそんなカードが貼ってあると思うわ。」そう言われて妻はにわかに不安になり頭を抱えてしまった。しかし、それが夫のやったことか否かを確かめるためには、通勤コース以外の場所を歩いてみればよいのである。果たして彼女の歩くコース以外のどこにもカードは見当たらなかった。かくして夫の愛が確認された。
 もし我々のこの地球が、宇宙で唯一生きるために恵まれた、従って高等生物の住む唯一の場所であるとしても、宇宙の他の場所と比較するために観測ができなければ、そのことの有り難さ――文字通り存在し難さ――がわからないであろう。この地球が住むのに適すると同時に観測のために適しているということには、きわめて深い意味があると考えなければならないだろう。
 もう一つ私なりの比喩で言えば、それは世界で唯一の富豪の息子が、世界中の貧民の子供たちを見下ろせる高台に住むようなものである。もし観測に有利な高台に住んでいなければ、彼は世界中の子供が自分と同じ暮らしをしていると思うだろう。それは明らかに彼にとって不幸なことである。
 我々の惑星が、居住適合性という点でも観測適合性という点でも、実に多くの奇跡的な条件の複合の上に成り立っているということを、この本は次のように述べている。

 我々は宇宙の中での例外的な場所を占めているのみならず、宇宙の歴史の中での特別の時期に生きているのである。我々と我々の環境が文字通り宇宙の物理的中心ではないのだが、我々は別のもっと深い意味において特別の存在なのである。ある意味で我々は宇宙の「中心」に居心地よく納まっている――つまらない空間的な意味においてでなく、居住適合性と観測適合性という点において。この事実はコペルニクス原理によって助長された期待には、全く反するものである。… 
 居住適合性に関して言えば、我々の存在はさまざまのローカルな変数的要因に依存している――地球を安定させる大きな月、プレート・テクトニックス(地殻構造)、込み入った生物・非生物のフィードバック、温室効果、適正な恒星のまわりに注意深く配置された円軌道、早い時期に元素をもたらし消失する小惑星と彗星、外側に位置して我々を頻繁に襲う彗星の爆撃から守る巨大惑星たち。それはまた、適正な時期に形成された大きな渦巻銀河の銀河居住適合ゾーン(Galactic Habitable Zone)の中に注意深く置かれた一つの太陽系に依存している。それはまた、より早い時期に超新星たちが爆発して我々の血管を流れる鉄と生命の基本となる炭素を供給してくれることを前提とする。さらには、現在そのような超新星が近辺に希であることを要請する。最後にそれは、絶妙に微調整された物理法則とパラメーターと初期条件に依存している。

親鸞一人がため

 「生かされている」はもちろん、「かけがえのない」とか「一期一会」とか「今ここの絶対性」といった宗教的ニュアンスをもった言葉が、天文学によって根拠を与えられる。宇宙はまさに「親鸞一人(いちにん)がため」に作られたものだったのである。

『世界思想』No.346(2004年8月号)

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