NO.21(2004年9月)


続・地球は特権的惑星
――我々のような惑星は本当にただ一つか――

渡辺 久義   

地球は沢山ある?

 ゴンザレス、リチャーズ共著『特権的惑星』(Gonzalez & Richards, The Privileged Planet)の内容について前回に述べたことはその骨子であって、もちろん意を満たすことはできない。この本の巻末でも、いくつか反論を想定してそれに答えるという試みをしているが、ある読者の方から前稿について寄せられた興味ある疑問について、ここで考えてみたい。
 それはあらましこういうことである。(統計)物理学には「すべての現に存在する系はもっともありそうな(most probable)系である」という原則があって、地球がデザインされたものにせよ、そうでないにせよ、地球に似た、あるいは同じ惑星はこの宇宙に多数存在すると考えるべきだと思うがどうか、ということである。
 これは幾つかの面白い問題を含んだ質問である。見たこともないような系(複数の要素の相互関連・作用システム)が忽然とあらわれ単独で存在する、というようなことは我々の日常の経験に照らしてもないことである。
 たとえば我々人間も一つの系であるが、人間という存在はこの世界に忽然と現れたものではない。基本的に形の同じ脊椎動物がまず存在し、さらにもっと近い哺乳動物がいろいろ現れ、その延長上に、もっともありそうな形態をとって人間が現れたのである。植物しかない、あるいは棘皮動物しかない世界に、人間がいきなり出現するというようなことは自然界では起こらない。これがこの原則の一例になるであろう。つまり神は創造はするが奇術師ではないということである。
 しかしこの原則は、人間が生物界でユニークな(ただ一つしかない)種であるという事実を妨げるものではない。人間は類似のシステム(親類)を数限りなくもち、その意味では孤立していないが、ホモサピエンスとしては比類のない孤立したものである(サルとほぼ同じ形態をもつがサルの一種ではない)。
 しかしこの原則は、我々の惑星についてどこまで言えるのだろうか。「系」というのを太陽系に限定するとして、「我々の太陽系が現に存在する以上、これによく似た他の太陽系が沢山あるはずだ」と我々は当然のように言う。そこから先は「だから地球のような惑星は沢山あるはずだ」と言うか、または「だがこれだけ生命のために条件の整った惑星はここだけかもしれない」と言うかどちらかである。

宇宙で例外的な地球

 ところが実は、当然のように想定した「宇宙にはよく似た他の太陽系が沢山あるはずだ」という前提から躓かなければならないようである。まず我々は恒星(太陽)にはもちろん、木星や土星のようなガス惑星には住めないのだから、住めるのは地球のような岩石でできた惑星でなければならない。そんなものは宇宙にいくらでもあるだろうと言うかもしれない。しかし、その惑星には水と空気がなければならない。太陽との距離が適正で温度が適当でなければならない。地表が鉄やニッケルであってはならない。そういった誰にでもわかる基本的なことから、もっと細かい生命のための条件をすべて数え上げると、クリアしなければならない条件は数限りなくある。地軸の傾きを安定させるためにちょうどこの大きさの月を必要とする、ということもあるらしい。しかも太陽系全体の絶妙な配置が、地球を保護し生命を可能にしているのだという。

 我々は、月と巨大惑星が地球の居住適合性のために働く役割について論じてきた。木星と土星〔のような巨大惑星〕は、過剰な彗星の爆撃から太陽系の内側を保護するために、おそらく最も重要な防御盾となっている。さらにこれは将来の研究課題となるべきことだが、他の土の惑星も同様に、地球の居住適合性を維持するのに役割を果たしてきたものと推定される。第一に、太陽系の内側の他の惑星の存在そのものが、これらの惑星にぶつかった物体がもはやそのあたりにないという単純な理由で、地球に当たる小惑星や彗星の数を減らしている。…かくて地球に最も近く大きさもほぼ同じ金星は、太陽系の内側で最大の防御盾を提供している。火星は金星よりもう少し遠いが、主たる小惑星帯により近いことから、我々地球のために小惑星や彗星の衝突を受けてくれたことはほとんど確実である。月もその表面積は地球の表面積のたった7パーセントであるが、地球防護の働きが小さくなかったことは、あのあばた面を見ればわかるであろう。…
 最近まで理解する人も少なかったが、地球が孤児でないことはよいことである。月と他の惑星は、地球の居住適合性と、その居住者の宇宙観測と法則発見の能力を増大させている。我々は、いかに我々の太陽系の配置が希なものであるかだけでなく、生命と科学的発見のために驚くほど精妙なものであることを、今ようやく理解し始めたばかりである。最近の惑星科学の傾向を考えると、おそらく我々は、地球とその直接的環境を、恒星と惑星が形成される際にはどこでも生じなければならないお決まりの系としてではなく、協力して不思議な小さなオアシスを作り出す、微調整され相互依存する系として、見なければならなくなるだろう。

 「不思議なオアシス」と言っているように、ともかくも我々の宇宙空間が総じて圧倒的に生命にとって敵対的な環境であること、我々の住む地球が例外的であって決して標準ではないことだけは、事実として認めなければならないようである。ここで言っているのは危険物の衝突のことであるが、紫外線や太陽風を避ける装置なども、地球には備わっていなければならない。

奇跡的な太陽系の配置

 しかも「系」をさらに大きくとって、太陽(系)と我々の銀河系の関係に目を移しても、やはり奇跡的としか言いようのない配置が見えてくるようである。

 明らかに、天の川銀河の他の領域と近くの宇宙の他の領域は、全般的に見て、我々の現在の位置とは全く異なっている。銀河系という地所の貴重なほんのわずかの区画しか、観察のための価値は別にしても、我々のような複雑な生命体を許容することはできないのである。我々の家は、玄関から宇宙の果てと宇宙時間の始まりをはるかに見渡すことのできる、かなり快適な場所にある。しかも後に述べるように、宇宙の歴史のすべての時代が、我々の生きている今の時点のようなものではないのである。

 我々の住むこの地球を例外的なものにしている要因の一つに、この最後のところに書かれている「宇宙時間の中の我々の場所」(このタイトルの一章がある)というものがあるのだという。これによって我々の地球の特殊性はさらに強化される。

 …しかし「宇宙居住可能時代」(Cosmic Habitable Age)はもっと狭いかもしれない。なぜなら、その定義要因は違った意味での時間に依るかもしれず、銀河によって違うかもしれないからである。その結果として、多くの銀河はその歴史のほとんどの期間、居住可能な惑星をもたないかもしれない。例えば、あまり恒星を形成しない低質量銀河は、あと50から100億年の間、地球サイズの惑星を作るだけの十分な重い元素を蓄えないかもしれない。その時までに、寿命の長い放射性同位体は薄まって、その惑星のプレート・テクトニックス(地殻構造変動)を支えることができなくなるだろう。いくつかの小さな銀河はすでに星の形成をやめてしまっているかもしれない。もしそうなら、少なくともこの天の川銀河と同じ大きさをもち、ちょうどよい星形成の歴史をもつ銀河だけが、「宇宙居住可能時代」をもつのかもしれない。おそらく我々は、それが我々の存在と両立する唯一の時代だという意味において、宇宙の歴史のまさにこの時点に生きていなければならないのである。(強調原文)

 この最後の文章は、ポール・デイヴィスの『神の心』の結びの文章、「我々は実にここにいるべく意図されているのである」を思い出させる。宗教的な表現が許されるなら、今我々は、まさに神の顔が大写しになって我々の前に現れてきた時代に生きている、と言うこともできるだろう。私はまた、月に着陸した「アポロ十一号」の飛行士の一人が語った「目の前の月の石が〈私を採取して調べてくれ〉と言っているように感じた」という体験談を思い出す。今、宇宙そのものが人間に向かってそれを要請していると言えないだろうか。
 この本の趣旨に沿ってここまで考えてきて、最初の物理的原則「すべての存在する系は類似の系をもつ」に戻って考えると、我々の太陽系の場合、「類似」の及ぶのは、恒星の周りを惑星が回る、というところまでのようである。これは人間と魚(共に脊椎動物)の類似に相当すると言えないだろうか。現に宇宙的観点からすれば、地球を作るということは人間を作るということであって、地球と人間は一つのものと考えてよいのである。
 しかしそれにしても、この広大な宇宙に、高等生物の住む惑星がこの地球だけだと言われると、納得しがたいものを感ずる。この点、疑問を寄せられた読者の考えに私も同意できる。ただ、この本の著者たちがこの地球のようなものは他にありそうもないという結論を出すのは、自然主義的に自然には生じない、ということである。地球(あるいは人間)のようにデザインされた(としか考えられない)ものが他にあるかないか、ということになれば話は全く別である。そのように考えるならば、私は他にもあるのではないかと考えたくなる。その根拠は、芸術家で――デザイナーは芸術家であろう――ただ一作しかない芸術家というものはかつて聞いたことがなく、それは不自然なことだからである。しかしこれは少なくとも科学的思考を逸脱する。

謙虚なる者の自信

 ところで、「デザインなどというものはありえない。宇宙がこれだけ広ければ、たまたまデザインされたかのようにみえる惑星が一つや二つあってもおかしくなく、たまたま我々はそこにいるだけだ」と言い張る人のために、この本はこんなふうに言っている。いかにも冷静な精神のバランスを感じさせる記述なので引用しておきたい。
 まず先立ってこんな比喩が語られていた。――敵の捕虜となり柱にくくられて、至近距離から十人の射撃の名手によって銃殺されることになった男がいた。銃が一斉に轟き火を噴いたが、殺されるはずだった男は自分が生きていることに気づいた。彼は自分の運命をどう解釈すべきだろうか。これを射撃の名手全員のミスによる幸運な偶然と解釈するのが正しいか、それとも上からの命令か射撃手の合意によって、故意にはずされたものと解釈するのが正しいのか。解釈である以上どちらも対等であるのだが、どちらが常識的かという問題である。自然界についてもこの常識は機能しなければならないと言うのである。

 あの銃殺を生き延びた将校のことを思い出してほしい。もし彼が「まあ思うところ、この広い世界のいたるところで同時に進行している同じような銃殺刑が何百万とあるだろう。それだけ多くの試みがあるのであれば、射撃の名手のグループが全員的をはずす場合も当然あるだろう。私はその幸運にあずかっただけだ」という結論を出したとしたら、どれだけ人が納得するだろうか。誰もこれを受け入れる者はいないだろう。なぜなら第一に、そのように場当たり的に「試み」の数を増やして利用してよいというものではない。第二に、出来事に対するそのような反応は、現実に対する我々の判断能力を傷つけるものである。その銃殺を生き延びた者が主張さえすれば、知的計画(インテリジェント・デザイン)の証拠がどんなに明白だろうと、彼はいつでも自分の人生のあらゆる経験を偶然のせいにすることができる。実を言えば、デザインと考えられるものの証拠をいかに積み重ねても、それは現実にデザインされたという証拠にはならない。しかしもし科学というものが、有形的世界の、単に最上の自然主義的あるいは非人称的な説明を求めることでなく、有形的世界からえた現実の証拠に基づいて最上の説明を求めることだとするなら、あらゆる種類の証拠を人の目から見えなくさせるような原理を採用することは、無責任だと言わねばならない。(強調原文)

 著者自身が強調したこの傍点の部分に注目してほしい。これがデザイン派の科学者に共通する謙虚なる者の自信というべきものである。デザイン(意図的、計画的)としか考えられない要素をいかに積み重ねても、それはデザインそのもの、あるいはデザイナーそのものの存在の証拠にはならない。しかしそれは自ずから、そういうものの存在を指し示さざるをえないのである。それはいわば、一枚の白い紙を周辺から塗りつぶしていくようなものである。そうしていくうちに、ぼんやりと文字か図柄らしきものが真ん中に浮かび出る。それをどう読むかは自由だが、常識を働かせようではないかということである。

『世界思想』No.347(2004年9月号)

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