NO.38(2006年2月)


生命科学は魂を抜いて成立するか(1)
――遺伝学者セルモンティに学ぶ――

渡辺 久義

ダーウィンを忘れろ

 何ヶ月か前、テレビの園芸関係の番組で坂東英二さんが、何かをいじりながら軽く、「花は人間のために咲いているわけではありませんよ」と言ったのを小耳に挟んだことがある。別 に面白くもないギャグなので、「当たり前のことを言うな」というように、誰からの何の反応もなく番組が進んだことを覚えている。これに強く反応したのは私だけだったかもしれない。「いいえ、花は人間のために咲いているのですよ」と私は言いたかった。
 「花はすべて自分のために生きているのであって、人間のために咲くのではない、そんな勝手な人間中心主義は許されない」という見方が常識になっているとすれば、それはダーウィニズム(あるいは「コペルニクス原理」)の浸透力がいかに強いか、いかに我々の無意識を強く支配しているかを示すものである。ダーウィニズムは、たとえ自然と人間の意図された調和のように見えるものがあっても、それはそう見えるだけであって、実態はそうではないのだから騙されてはいけない、と教える。従って、花が自分のために咲いてくれているように思う人があっても、その人はそう思う自分を抑圧し、まして口に出したりはしないようにする。非科学的だと笑われるからである。
 こういう歪められた反応が我々の無意識から払拭され、正しい反応に置き換わるには、相当の教育と時間を要するものと考えなければならない。ダーウィニズムという唯物論科学の罪業の深さが、この何気ないギャグによく現れている。しかし、ダーウィニズム克服の兆候もわずかとはいえ現れつつあるのだから、案外早く変化がやってくるかもしれない。ただ現在のところは、私のように言う者は、反科学だといって糾弾されることになっている。
 しかし科学者の中には、詩人的な自由な想像力が、科学者としての洞察の深さであることを証明してみせている人たちがいる。『なぜ蝿は馬でないか?』(Why Is a Fly Not a Horse? 2005)を書いたイタリアの遺伝学者ジュゼッペ・セルモンティ(Giuseppe Sermonti)がその一人である。
 およそ生命というものを究明するのに、デザインとか芸術的創造という観点を抜きにして何がわかるのか、生命科学者に問いただしてみたい。かりに数量 化できないからという言い分があるとしても、ともかくも問いを正しい軌道に乗せなければならないのである。数量 化が科学のすべてではない。セルモンティのこの本はそういうことを訴えているように思える。
 この本はイタリア語の原題をDimenticare Darwinという。「ダーウィンを忘れろ」という意味である。人の無意識にまで食い込んでいるものを忘れるのは困難かもしれない。しかし、ともかくそれを白紙に戻さなければ始まらない、と著者は言っているようである。

自然選択はおそらく、種の生き残りを説明するメカニズムとしては、これに訴えることも可能だろう。しかし自然選択が生命を創造する、生命の本質、形態、種類を創造するといった主張は、我々を唖然とさせるのみである。自然選択は消していくだけである。それを生命の起源のメカニズムとして考えるというのは、「消失」によって「出現」を説明するようなものである。毎年、いくつかの地上の言語は消失してくが、そのことが新しい言語の出現を説明するであろうか? 第三千年紀は、二十世紀という時代の、進化についての突拍子もない推論を、分子生物学の著名な創始者たちが耽ることのできたビッグ・ジョークとして振り返るであろうと予測される。分子生物学の創始者たちの採りいれたネオ・ダーウィニズムとは、あたかもホメロスの『イリアス』のテキストが、単なる偶然によって、一度に一文字ずつ付け加わることによって、何らかのより低い数行の「有機体」から現れてきたと言っているようなものである。(下線引用者)

 セルモンティの鋭い観点から素人の我々にわかってくるのは、ネオ・ダーウィニズムが間違った前提から出発しているために、うまく生命の現実を説明できず、今度はうまく説明できないことをそのままにして、もっぱらDNAの世界――自立(現実遊離)した機械的な理論の世界――に閉じこもるようになっていったという事情である。

  進化を説明するものとして目を向けた分子のメカニズム(DNAテキストの変異)が、すべて基本的に劣化か保守の傾向をもつものであることを示したので、今度はもう一つの事実を強調したい。現代の分子進化論はいくつかのメカニズム――生命体の形態やその歴史といった事実をほとんど度外視するメカニズム――をつなぎ合わせたものである。生物学の分子革命はまさに、自然観察を軽視し形態を軽蔑することによって成立したのである。すべては偶然によって起こるという前提がある以上は、進化はどんな道筋をでも取ることができたはずで、我々が知っているものとは全く異なった生物でも存在し得たことになるから、生命の出現とその複雑化への道筋の現実の物語は、ネオ・ダーウィニズムにとって毛筋ほどの興味もないのである。

 この延長線上に、ドーキンズのあの、人間などは遺伝子の乗り物で、遺伝子だけが唯一正当な確かな存在だという極論があるのが分かるであろう。すべてこういったこと――遺伝子を組み合わせてどんな怪物でも作れるはずだという奇説もその一つ――は、この宇宙は偶然的存在であり目的もデザインもありえないとする唯物論の滑稽な帰結である

心なしに体は存在しない

 それではセルモンティ自身は、生命に対してどのようなアプローチをするのであろうか。彼の基本的な立場は「心がなければ体は存在しない」という一章の題に表明されている。

 「魂」という言葉を進化の議論の中で口にするのは、この上ない違反行為である。ひとたび進化が科学的テーマとなってからは、魂というものの出番はなくなった。出番がないのは、進化論がいろんな事象やその起源を、形而上学を持ち出さないで説明しようと試みるからである。魂(soul)は風や息を意味するが、超越的な次元から降りてくるものである。ところが魂について語ることをすべて排除するのは、一般 の人々に対し、彼らに興味あることだけを除いて進化を語ることになる。すると進化論学者にとっては、一般 の人々の興味は全く問題にならないことになる。

 学者がこういう常識から出発せず、あたかも一般 人が愚かな興味しかもたないかのように振舞うならば、学問は自壊すると考えるべきである。一般 人の常識は、DNAという物質が生命の根源であるとも考えなければ、物質が自分で自分を意味のある配列に並べたとも考えない。またその暗号を読んで何かを組み立てるというような作業が、知性を持たぬ 物力で行われるとも考えない。そこには「魂」とか、神の手とか、生命の神秘的な力といった、何らかの目に見えぬ 力を想定するのが普通であろう。生命現象はこの世界で日常的に起こっているのだから超越的な力など関与していない、というネオ・ダーウィニストの「常識」は一般 人の常識ではない。心に呼応して物が働き、アイデアがあって形あるものが創られるのである。
  「私はあなたがすでに知っていることしか、あなたに言う(命ずる)ことができない」とは、この本の一章のタイトルであるが、これがDNA解読から始まる一連の生命体組み立て過程や、胚発生過程において起こっていることだとセルモンティは言う。DNA一極集中かつ万能という考えをとるネオ・ダーウィニズムとは対極にある考え方である。

 あらゆる生き物は、自分の内部に一つの世界を生成する能力をもっている。そしてそれが生成した世界をいつも持ち運んでいる。我々が「情報」と呼ぶものは、その世界を呼び起こすためのヒント、あるいはヒントの複合体にすぎない。そして同じヒントが違った世界へ導くことがあるのは、その世界が記号との関係において確固とした自律性をもっているからである。……DNAで書かれたテキストと生命体の関係は、本に書かれた言葉と現実世界の関係と実質的に同じである。この本を読むことが可能なのは、それが描いている世界がすでに存在し、何らかの画像的刺激によって、その風景をずっと形作りつつあったいずれかの分水界へと、分化する用意ができているからにすぎない。すべてのことがすでに言われ、すでに書かれているのであって、本の意味はただ、眠っていた記憶を呼び覚ますことにあるのである。

 要するに、すでにイメージあるいはアイデアとして存在するものが、DNAとその環境との相互作用、授受作用によって、共鳴を起こしながら徐々に顕在化していくということであろう。これは間違いなく芸術家の創造過程である。DNAが一方的にすべてを決めるのでなく「ヒントにすぎない」というのは、そこに完成品の設計図が微に入り細に入って(ディジタルで)描かれているのではないということである。それは一つのものが一方向的独裁で何かを創りだすのでなく、イメージあるいはアイデアを中心として、ヒントを発するものとヒントを受けるものの授受作用によって、フィードバックを繰り返しながら、アイデアが形になっていくと考えてよいのだろう。
 わが国の柴谷篤弘や池田清彦といった人たちの唱える「構造主義生物学」というものも、ほぼそういった捉え方だと考えてよいだろう。(柴谷氏の名前はセルモンティのこの本にも出てくる。柴谷氏には『構造主義生物学』、池田氏には『さよならダーウィニズム』という著書がある。)
 そういうところから、下等動物から人間に至るまで、遺伝子DNAには大して違いがなかったという、明らかになってきた意外な事実も理解できる。遺伝子が人間を創るのでなく、人間の遺伝子を中心として作られる人間という種の「場」が、個々の人間を創っていくのだとすれば、人間だからといって必ずしも長大な遺伝子情報は要らないことになる。人間の遺伝子数は、最近の新聞情報では2万2千(セルモンティは2万5千から3万の間といっている)、線虫のようなものでも1万9千なのだそうである。

なぜ蝿が馬でないかは不明

 ところでこの本の書名が(英語版では)「なぜ蝿は馬でないか?」となっていて、表紙には馬の鼻に蝿がとまっている絵が描かれているのには特別 の意味がある。これも実はある章のタイトルであり、それはこう始まっている――

 科学者は神学者の持たない特権を享受している。どんな質問に対しても、たとえそれが彼の理論の中心問題であっても、「すみません、私には分かりません」と答えても彼は許される。実はこれが、「なぜ蝿は馬でないか」という質問に対する唯一の正直な答えである。我々は、花を白ではなく赤にするものは何か、小人症の人が大きくならないのはなぜか、対麻痺症患者や地中海貧血患者の何が問題なのか、といったことについては完全に分かっている。しかし種の神秘についてはお手上げで、昔からわかっていたことから我々の知識は進歩していない。すなわち、仔猫が仔猫として生まれるのはその母が雄猫と交尾をした雌猫であったためだとか、トンボはトンボの卵からトンボの幼生として出現するといったことである。
 我々はこの質問に対する答えを、科学がそれを出そうとして求めてきた観点からは出すことができない――種の内部での違いを満足できるように説明してきたのと同じ観点、すなわち染色体とか遺伝子とかDNAによっては、出すことができないのである。もし我々が、種の一つ一つの起源の根底にある問題を、分子の観点から解こうとするなら、今のところ答えは出てこないことを認めなければならない。しかも我々が何度も、いよいよこれで最後の扉にたどり着いた、この向こうには答えが待っているだろうと考えたにもかかわらず、答えはないのである。

 ここで言われているのは、馬や蝿や人間の、個人差を説明するものはDNAの中に見つかるが(DNA鑑定に利用される)、馬を馬たらしめ、蝿を蝿たらしめ、人間を人間たらしめる決定因子のようなものを、物的な形ではどこにも見出せないということである。それは「イデア」として、しかし現実に存在するものと考えざるをえないであろう。以前私は、「私という存在はアイデンティティをもって確実に存在するが、私はどこかに場所を占めて存在するのではない。さりとて自由に浮遊しているのでもない、どこかこの肉体のあたりにいるのである」と書いたことがある。人間の「イデア」もそれと同じことであろう。

『世界思想』No.364(2006年2月号)

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