NO.3(2003年3月)


科学的概念としての創造
 ―Mere Creation―

渡辺 久義   

唯物論的科学への挑戦

 一九九六年十一月十四日から十七日にかけて、米ロスアンゼルス、バイオラ大学において、歴史上記念すべき文字通り画期的な学術会議が開かれた。それは自然科学の方法を物理的な自然力の枠組みに閉じ込めることを拒否し、創造という観点を自然研究の中に持ちこむことによって、科学の方法として当然のこととされてきた唯物論の拘束を打破しようという共通の目的を持った科学者たちの集まりであった。その彼らの旗印ともいうべきものが「インテリジェント・デザイン」であった。そして彼らの矛先が向けられたのは何よりもまず、ネオ・ダーウィニズムを含めたダーウィニズム、すなわち偶然の変化と自然選択という物的原理で生命の歴史や生命体の仕組みをすべて説明できるとする理論に対してであった。
 この会議には、当初の予想を越えて二百人の科学者や学者が集まったといわれ、その分野は生命科学、地球科学、天体物理学、科学史・科学哲学、数学、情報科学などで、そのほとんどが初対面の人たちであったという。私はこれをMere Creation: Science, Faith and Intelligent Design という、そのときの講義をもとに編まれた論文集の「まえがき」(一参加者による)に拠って書いているのだが、この運動がその後いかに大きなものになりつつあるかは、インターネットによる刻々の情報を見ているだけでわかる(Yahoo USAなど でIntelligent Design Theoryを検索すれば、Discovery Institute というサイトが出てくるが、これが最も中心的な組織のようであり、他にARN(Access Research Network)、Originsなどがある。Mere Creation のホームページもご覧になるとよい)。
 この現象は何を意味するのか。これは科学者共同体の内部から起こった唯物論的科学のいわば帝国主義に対する反逆として、きわめて大きな意味を持つものである。生命や進化の事実を物質原理だけで説明することはできないということは、科学者一般人を問わず、直観としておそらく大多数の者が感じていることである。ところがそれが唯物論的科学の専制というべきものによって長い間押さえ込まれてきたのである。今起こっている「インテリジェント・デザイン」運動は、その長年のルサンチマン(怨恨)が一挙に噴き出してきたものとも言えるのである。そしてこれは、多くの論者が指摘している通り、きわめて大きな射程を持った、単なる科学を超えて文化そのものに及ぶ運動であることは間違いない。本当の意味での文化大革命というべきであろう。
 論文集Mere Creationのmereとは「単なる」という意味ではなく、創造の要諦(essentials)というような意味だとこの本の編者ウィリアム・デムスキー(William Dembski数学者)は断っている。この論文集に寄稿している二十人ばかりの「インテリジェント・デザイン」支持者の全員の意見が完全に一致するのでなく微妙な差があるのは、この本の「あとがき」に言われている通りであろうけれども、デムスキーはこの理論(かつ運動)を代表する人物であるから、しばらく彼の「序文」に従ってこの理論の要点を紹介してみよう。

自然界は自己完結的でない

 まずデムスキーが異を唱えるのは科学に限らず、すべての近代人の問いの前提をなすnaturalismに対してである。Naturalism(自然主義)というのはほとんどすべての論者が共通して用いている言葉だから、その意味をよく理解しておかなければならない。それは物理的自然が実在の基底をなすと考えるいわゆる近代科学の前提であって、「唯物論」と言い換えてもよいものである。

 西洋文化の内部では、自然主義がすべての真剣な問いに対して不戦勝ちの立場を占めてきた。聖書研究から法律、教育、科学、そして芸術にいたるまで、問いはすべて自然が自己充足的なものであるという想定のもとでのみ提出されることが許されている。…我々は神が存在していないように振舞うこと、そしてその了解で物事を進めることを要求されている。自然主義は神が存在しないことを確認するのでなく、神が存在する必要がないことを確認するものである。神が死んだのでなく神が欠席しているのである。そして神が欠席しているがゆえに、知的誠実さは我々が彼を呼び出すことなしに仕事を進めることを要求する(むろん宗教的衝動を鎮める必要のある場合を除いて)。これが認められた知恵である。そしてそれは紛れもない害毒である。
 ではどうやって自然主義に打ち勝つか。自然主義は一つのイデオロギーである。その鍵となる信条は自然の自己完結性というものである。西洋文化の内部では、その最も猛々しい形が科学的自然主義として知られているものである。科学的自然主義は自然の自己完結性を、方向を持たない科学の自然法則の中に見出す。従って科学的自然主義は、我々が宇宙を全くこのような法則の観点から理解するように仕向ける。そして特筆すべきは、人間は宇宙の一部なのであるから、我々が何ものであるか、何をすべきかということも、結局は自然主義的観点から理解されなければならなくなる。

 自著を持ち出すのは恐縮であるが、これは私が近著『善く生きる』で展開している議論と一致する。自然主義すなわち唯物論の最大の難点は、自己完結性ということ、従って宇宙現実に方向性が生じないということ、すなわち空回りということである。
 では超自然すなわち神が自然世界に関与している、すなわち自然世界とつながりあっている証拠はあるのか。もしそれが「経験論的に検出可能」でなければ、科学は科学として成り立たないことになる。それが可能であると主張するのが「インテリジェント・デザイン理論」である。

 もし我々があらかじめ、科学は方向性を持たない自然的原因に限定されねばならないと取り決めるならば、科学は必然的にこの世界への神の関与を研究することはできなくなるだろう。しかしもし我々が、科学に知性あるものの働き(intelligent causes)を研究することを認めるならば(それはすでに科学捜査や人工知能などの多くの特殊な科学でなされている)、そのとき世界への神の関与は、それが知性あるものの働きの際立った特徴を明らかに示すかぎりにおいて、科学研究の合法的な領域となるのである。…科学は自然的原因を研究するが、神を導入することは超自然的原因を呼び込むことだというのは、誤った対比の仕方である。正しい対比は、一方に方向性を持たない自然的原因、他方に知性あるものの働き、というものでなければならない。知性あるものの働きは、方向性のない自然的原因がなすことのできないことをなすことができる。方向性のない自然的原因は、アルファベットの書かれた板切れを盤上に投げ出すことはできるが、それらを意味のある単語やセンテンスに並べることはできない。意味のある配列を得るためには知性あるものの働きを必要とする。一つの知性あるものが自然の内部で働いたか外側から働いたか(すなわちそれが自然的であるか超自然的であるか)は、知性あるものの手が働いたかどうかの問題とは別の問題である。例えばシェークスピアのソネットは、シェークスピアが実際に生きていたのか、宇宙のエイリアンがシェークスピアのペンを動かしたのか、あるいは天使が魔法によってそのソネットを出現させたのか、といったこととは関係なしに、知性あるものの働きによるものであることを、我々は確信をもって推論することができる。

 つまりインテリジェント・デザイン派の立場は、自然的原因によっては出現不可能なデザインの事実を指摘するものであって、それが神によるか悪魔によるか幽霊によるかは、実証的科学であるかぎり問わないということであろう。ただ、自然世界がそれだけで完結したものでなく、超自然世界へ向かって開かれたものであることを、科学的事実として認めようではないかという主張であると考えてよい。この点も私の前記著書で述べたことと哲学的に一致する。私の「人間学」の立場は、人間存在というものを自己完結的なものでなく神秘(神、超自然)へ向かって開かれたものであることを確認せよということ、それは決してごまかしや逃げの態度ではなく、かえって最も科学的な態度だということである。

哲学の貧困の問題

 ところで、デザイン論者がさまざまの分野の専門家でありながら一つの運動を展開しているのは、哲学を共有するからである。日本の学者には残念ながらこれがないと言わねばならない。ノーベル賞(自然科学部門の)というのも一つの学問水準の目安になりうるとするならば、人口比からいえば、日本人はアメリカ人の半分、イギリス人の倍は取っていなければならない。ところが現実ははるかそれに及ばない。これは哲学的思考が弱いということ、つまりものを根本から考える訓練を軽視するということに関係していると私は思う。たとえば私が今回の題に使った「創造」などという言葉を聞けば、「とんでもない」と言うか「何のことかサッパリわからない」と言う日本の科学者はかなり多いであろう。思考の活性化を図らない文化は衰退するほかないのである。
 もちろん欧米にも、デザイン論者を頭から軽蔑するだけの学者はいる。しかし、ここで少し横道にそれるが、今入手したばかりのデムスキーの新著No Free Lunchのジャケットに載っているマイケル・リュ―ス(Michael Ruse)の寸評を紹介したいと思う。この人はドーキンズなどと並んで代表的なダーウィニズムの宣伝家であり、デザイン論者の不倶戴天の敵のはずである。そのリュースがこう言っているのである――「私はウィリアム・デムスキーの取っている立場に強く反対する。しかし彼の議論は確かに強力であり、我々のうちで彼の結論を受け入れない人々は彼の本を読み、我々自身の見解と反論を用意すべきであると思う。彼は無視されるべきではない。」敵ながらあっぱれと言うべきであろう。こういう風土が学問を活性化するのである。宗教や信仰とつながってくる以上それは問題外である、というのでは学問は進歩しない。Naturalismの縛りを解くことによって、どれだけ多くの、また大きな展望が開けてくるかを考えてみるべきなのである。
 デムスキーの「序文」からさらに引用してみる。

 デザイン論者のダーウィニズム批判の強みは、この説の穴を見つける能力にあるのではない。穴は確かにあり、それらがこの説にとって深刻な困難を作り出している。しかしデザイン論者の批判が興味ある新鮮なものになるのは、彼らが次のような疑問を提起するときである――何ゆえにダーウィニズムは、科学的理論としてあれほど不十分にしか支持されていないのに、学術体制社会の十分な支持を保持しつづけているのか? その多くのあまりにも明らかな欠陥にもかかわらず、ダーウィニズムを支えつづけているものは何なのか? なぜデザインを導入する代替案が一方的裁定によって締め出されるのか? なぜ科学は方向を持たない自然的過程に訴えることによってのみ説明しなければならないのか? 誰が科学のルールを決めたというのか? 我々が真理にいたるのを助けるかわりに、ある種の問題を問いながらそのことによって真理にいたることを積極的に妨げるような科学的正当性のきまりでもあるのか? 
 我々がここで相手にしているのは、科学的事実の率直な確定とか科学理論の確認といった問題ではない。むしろ競合する世界観、相容れない形而上学〔哲学〕体系を相手にしているのである。創造=進化論争において我々は、そもそも議論や証拠の吟味をする前に、いかなる生物学的起源の理論が論争の場で許されるかという問題を作り出しこれを決定する自然主義的形而上学を相手にしているのである。この形而上学はあまりにも深く浸透し強力であるので、それはそれに代わる見解を議論の場から締め出すだけでなく、自分が批判されることさえ許すことができないのである。

共感する人たちへ

 新しい文化を創造する起動力となるような、このような理論=運動が日本の科学者の間から起こってこなかったことを、国を愛する者として私は残念に思う。では後追いは仕方ないとして、せめてこの関連の文献の翻訳が出ているかと思ったが、それもマイケル・ベーエの『ダーウィンのブラックボックス』(青土社)以外はないようである(もしご存知の読者があったらご教示願いたい)。ドーキンズの本などを先を争って訳す人たちも、デザイン派の本などには恐らく冷淡であろう。とすれば他人を当てにはできない。この運動に共感される方々(そういう人は多いはずである)にお願いしてやっていただくしかないであろう。もしそうなれば私自身もできる限りの協力はしたいと思う。

『世界思想』No.329(2003年3月号)

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