「インテリジェント・デザイン」の科学的実証
渡辺 久義
有無を言わさぬ実証
自分自身を含めてこの生命世界を見渡したとき、目的と意図をもってデザインされたとみなすことのできないものを見出すことは難しいだろう。たとえ邪悪な目的と意図と思われるものであろうとデザインには違いない。私事で恐縮だが、先頃私は老母の火葬に立ち会うことになった。骨揚のとき火葬場の職員が臨床講義のように、人間の骨格がいかに巧妙に合理的に作られているかという造化の不思議を長々と説明してくれた。骨格といえば人間の身体でも、最も反デザイン論的にダーウィニズムで説明がしやすい部分であろう。その骨格でさえ常識的にみれば、デザインされたものと解釈されるのである。
ところがデザインというものが自然界には存在しないのだと言い、どんな巧妙なデザインとみえるものも、実は原初の生命体の連綿たるコピーの過程で生じた偶然の変異を自然環境が選択した結果に過ぎないのだ、というような理論が有無を言わさず一人勝ちのように支配しているところでは、やはり有無を言わさぬデザインの実証でもって、これに対抗するよりほかはないだろう。
生化学を専門とするマイケル・ベーエが、その著『ダーウィンのブラックボックス』でやってみせたのは、まさにそのような有無を言わさぬインテリジェント・デザインの実証であったと言えるだろう。生命体の構成単位である細胞自体が恐ろしく複雑に考案された装置であることが次第に明らかになっている。しかしこれがすべて目的も意図もない物理力(の組み合わせ)によって自然に「出来チャッタ」のだと、他を圧倒する大声で言いふらされているのだとすれば、それに反論するためには、これ以上に還元できぬというデザインの最小単位を取り出してみせなければならない。ベーエはそれに成功してこれを「還元不能の複雑性」と呼んだ。例えば、生化学のレベルから見た原生動物などの繊毛の仕組みがその一例であると言う。血液凝固の仕組みについても同じことが言えるらしい。
還元不能の複雑性
その仕組みをわかりやすくするためにベーエが好んで用いるのは、家庭で使われる板にバネのついた簡単なネズミ捕り器である。これは図で示す必要もないであろう。ネズミ捕り器は次の五つの部品からなる。(1)土台となる木製の板、(2)ネズミをはさむ(コの字型の)金属のハンマー、(3)仕掛けたときにハンマーを押さえるバネ、(4)わずかに触れるとバネのはずれる引き金、(5)引き金とハンマーをつなぐ金属棒。
この五つの部品のうちどの一つが欠けても罠として機能しない。すなわちこれ以上に還元(簡素化)することのできない複雑な構造物、「還元不能の複雑性」の一例である。自然界にはこのような構造物が満ち溢れているが、これはそれ以前の、より原始的な構造物を改良しながら徐々に出来上がったものではない。このネズミ捕り器の、より原始的な形は存在し得ないからである。すなわち、ハンマーだけでも少しはネズミが捕れ、これにバネをつければもう少しネズミが捕れる、といったものではないのである。
デザインというものはあり得ない、自然界に意思が働くことはありえない、とする自然主義の立場をとれば、こういったものの存在を説明することはできない。その代表的なものはダーウィン説だが、ダーウィン自身は『種の起源』でこう言っているのである、「多くの、連続的な、わずかの修正によって形成されたのではない複雑な器官が存在することが立証されるとしたら、私の説は完全に崩れ去るだろう。」
「多くの、連続的な、わずかの修正」によって徐々に形成される器官もあるだろう。けれどもベーエの取り出してみせる「還元不能の複雑な」装置は明らかにそのようなものではない。「還元不能の複雑な」装置の代表的な、最も昔からよく議論の対象になってきたものは脊椎動物の眼であろう。眼は多くの要素(部品とそれぞれの部品の機能)が複雑に絡まり合い協力し合って初めて機能を果たす精密機械のような装置である。そのうちのどの要素が欠けても不全であっても全く機能を果たすことができない。しかしダーウィニストは、二〇パーセントの眼とか六〇パーセントの眼とかいうものが、それなりに機能を果たながら存在できるかのように言う。これは信じがたいことだが、かりに大きく譲歩して水掛け論だと言っておいてもよい。けれどもベーエの指摘する「還元不能の複雑性」はもっと単純で、しかも分子レベルの装置であるから、反論はむつかしいのである。
ネズミ捕り器のようなものは完成品が最初からあるか、全く何もないかのいずれかである。それは目的意識をもって作られたものである。そういうものが自然に「発生」したと強弁するためには、どうしても自然そのものに何らかの意思のようなものを認めなければならなくなるだろう。しかしそうしたとたんに自然主義の前提は崩れるのである。ウルトラ・ダーウィニストのドーキンズのような人は別として、自然主義(唯物論)を取る進化論者はしたがって、常におのれの立場を危うくするような仮定をひそかに取り込まねばならないという、煮え切らない矛盾した立場を取ることになる。
必然と偶然とデザイン
そこでデザイン論者ははっきりと、自然界に働く要因として必然(すなわち法則性)と偶然のほかに「デザイン」を認めようではないかと提唱するのである。これは、そのような煮えきらぬ曖昧さを、科学の名において払拭すべきだという科学的態度からくるものだと言ってよいのである。ちょうど物理学者がエネルギーという概念を設けて、込み入った問題をわかりやすくしたのと同じなのである。だから、デザインを認めることを科学を後退させるものであるかのように批判する人々に対して、彼らは全く逆に科学を進歩させているのだと主張するのである。
この点に関して「デザイン理論」を綿密に理論的に根拠付けようとしているのはデムスキーである。彼もベーエのように問題をわかりやすくするために、カール・セーガンの小説に基づく、よく知られた映画「コンタクト」(私は見ていない)を例にとって説明する。これは地球外生物との接触を題材にしたアメリカのSETI(地球外知性探査計画)の宣伝映画である。現実のSETIにはまだそういうことは起こっていないのだが、映画の中のSETIは、ETすなわち地球外知性との接触に成功したことになっている。
ではどうやって映画「コンタクト」の科学者たちはETの存在を突き止めたのか。それは彼らが、コンピュータのように0と1を使って表記されうる宇宙からの信号が、ある意味のあるパタンをなしていることに気づいたからであった。それは2から101までの素数(1とその数自身以外では割れない数)を表すようなパタンに配列されていた(その図は煩を避けてここに再録しない)。こういうことは偶然には起こりえない。何者か知性をもった者が意図的に発した信号としか考えられないのである。
しかし、もしこの信号が単に
110111011111
であったとすれば、それは地球外知性の存在の証明にはならない。確かにそこには2、3、5と最初の三つの素数が並んでいるが(0は区切りを表すと解釈する)、これは偶然にも起こりうる範囲だからである。しかしこれが2から101まで続いているとすれば、もはやこれを偶然とか自然のなせる業とか言いくるめることはできない。疑う余地のない「インテリジェント・デザイン」である。
説明のフィルター
デザインとデザインでないものを見分けるはっきりした基準があることを、デムスキーは明らかにしている。彼はそれを「複雑性‐特定性基準」(complexity-specification
criterion)と呼ぶ。複雑にしてかつ特定的であるかどうかをみる基準ということである。
要するに、この複雑性‐特定性基準は三つのことを確定することによってデザインであることを見定める。すなわちcontingency(偶発性=生起する必然性がないこと、強制されていないこと)、complexity(複雑性)、specification(特定化=特定されうる狙いをもつこと)である。ある出来事、対象物、あるいは構造を説明することを求められたとき、我々はこういう決定をしなければならない――これは「必然」か「偶然」か、それとも「デザイン」によるものか。複雑性‐特定性基準によれば、この質問に答えることは三つのより単純な質問に答えることである――それは偶発的であるか? 複雑であるか? 特定的であるか? したがってこの複雑性‐特定性基準は三つの関所をもつ流れ作業図によって表すことができる。私はこの図を説明のフィルターと呼んでいる。
ある事柄がこれら三つの関所(decision
nodes)を通過すれば、それはデザインと認めることができる。(「デザイン」とは前号で言ったことを繰り返すが、設計、計画、意図、目的といった概念すべてを含んでいる。)図の三つ目の関所(特定されうる狙いをもつか)が必要なのは、複雑なだけではデザインにはならないからである。たとえば、0と1を何百個もランダムに並べた配列は複雑であるが、特定の意図をもったパタンではない。逆に複雑性(図の二つ目の関所)のチェックが必要なのは、特定のパタンがあっても複雑でなければデザインとは認められないからである。たとえば、000111000111…と繰り返す信号が送られてきたとしても、これは(デザインの可能性もあるが)自然現象として容易に起こりうるパタンであるからデザインとは認められない。
この「フィルター」は要するに、自由意志をもって働いているものがあるかどうかを見分けるためのものである。DNAの塩基配列は単なる物質の羅列ではない、物質を使った情報である。明らかにそれは、映画のSETIが突き止めた宇宙のインテリジェンスと同じく、自由意志をもって自然界に関与しているインテリジェンスの存在を指し示すものである。科学である以上これを一足飛びに「神」とは言わない。それは悪魔であるかもしれない。神から創造を任されたデミウルゴスかもしれない。しかしintelligent
agency――「知性をもつ能動主体」とでも訳すべきであろう――という言葉をデムスキーや他のデザイン論者が使うとき、それが指し示すものは、神すなわち我々人間をも含めた自然界に働く神の働き以外にないのである。
自然主義では説明不能
ところが唯一学界で公認されている自然主義(naturalism)は、わざわざ自らを拘束してそれを認めようとしないのである。デムスキーは次のように言っている。
さて自然主義とは何かを考えてみよう。自然主義の内部では自然が究極の現実である。したがって自然界で何かが起こるときはいつでも、その起こったことの原因になるものは自然界の外側にはありえないのである。だからある出来事が自然の中で起こったときには、それは自然界の何か他の出来事がその原因であるか、それともそれを決定する他の出来事なしに自発的に起こったのか、どちらかである。この前者の方は通常「必然性」と呼ばれ、後者は「偶然性」と呼ばれる。自然主義者にとっては、偶然と必然が原因性の基本的な様態である。それらが一つになって「自然的原因」と呼ばれるものを構成する。したがって自然主義はintelligent
agency(知性的能動主体 をも自然的原因に置き換えて説明しようとするのである。
自然的原因は一体どれくらいうまくintelligent agency を説明してきたであろうか。認知科学者は完全な還元などといったものに成功したことはない。intelligent
agencyを自然的原因に完全に還元すれば、それは人間の振舞いや意思や感情をすべて神経的過程に置き換えて説明することになるが、そのような説明がうまくいったことはないのである。
『世界思想』No.331(2003年5月号)
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