NO.17(2004年5月) 


自然主義という呪縛を脱せよ
――再び「自己組織化」説について――

渡辺 久義   

ダーウィニズムに変わらず

 前号に書いた「自己組織化」理論批判について、この理論はすぐれた研究者のいる認知された有望な理論で、これを無下に退けるのはおかしいのではないか、という批判をある読者からいただいた。ただ、その批判を下さった方の前提になっているのは、物理常数のような、あらかじめ(神によって)デザインされた全体的条件があって、その条件下で素材が組み立てられていったと仮定すれば、純粋に物理的な観点から生命や進化を説明することもできるのではないか、ということであった。
 もしそういう前提が「自己組織化」説に暗に含まれているのならば、これはインテリジェント・デザイン理論と、結局、同じことになるのであって、反対する理由は全くない。ところが(将来は知らず今のところ)「自己組織化」説が完全に否定しているのが、その前提なのである。いわゆる「自然主義」(唯物論と言い換えてもよいが観点が少し違う――この語がより多く用いられる)にあくまでも忠誠を尽くす理論であって、その点、ダーウィニズムと変わるところはない。
 ただ違うところは、ダーウィニズムが「自然選択」といって、進化の主導権が環境にあるとし、かつ偶然任せとみるのに対して、自己組織化説は、進化(複雑化)する主体の内部にその要因があるとするのである。ダーウィニズムの場合と同じく、それがいわば最初の考え方の約束である。インターネットから得られるいくつかの説明を見ても、この理論がそういう約束から出発するものであることがよくわかる。これはサッカーのような競技の約束(手を使わない、方形の枠内でする、など)と同じである。
 ハイリゲン(F. Heylighen)の説明ではこうなっている――

 自己組織化とは基本的に、環境の効果が最小限のものであるような、つまり新しい複雑な構造が、主としてそのシステム自体の中で、そのシステムを通じて起こる進化の過程である。進化論の項目で言ったように、自己組織化も、他の環境によって推進される進化の過程と同じく、変異と自然選択の過程を基盤にして理解することができる。

 自然界を貫く一つのルールがあるのではないかという予想を立て、そのルールがどこまで通用するか探究してみようというのは、学問的態度として認められる。しかし、そのルール自体が、生命も物理原理によって説明できるという前提(自然主義)によって呪縛されたものであること、それを呪縛とも感じないということは、学問的態度として問題だと言わなければならない。

自分が自分を作れるか

 微調整された物理常数をはじめ、マイケル・デントンの指摘するような、生命のためにあらかじめお膳立てされたとしか解釈できない物理的諸条件を、この理論がことさら無視するのは問わないとしても、自己組織化説を代弁する(と考えられる)スチュアート・カウフマンの次のような問いかけをどう考えるか――「生命世界はどうやって自らを作り上げ、宇宙はどうやって自らを作り上げるのだろう?」(Investigations 4頁)。 
 いったい、宇宙が自分で自分を作るなどということが、我々の理性で考えられるだろうか。何によらず「自分が自分を作る」ということは考えられないことである。例えば我々は、我々自身を自分で計画し自分で作ったのではない。ところがこの理論によれば、宇宙と生命世界だけは、例外的にそれができることにしようというのである。宇宙に自己というものがあったとして、その自己に無の状態があり、それがあるとき自分で爆発を起こし、一番簡単な水素という素材から作り始めて生命を作り、それが全く自力で自己自身をより高い生命(意識)状態へと高めていった、などということがあるだろうか。
 もしそういうことが可能であるとしたら、そういうことを可能にするような何らかの条件や動機が最初にあったのだろう、と考えるのが普通だろう。しかし自己組織化説はそういった外からの要因を一切否定する。純粋に物理系の内部の問題として考えるのである。当然、目的論的観点も排除する。予定説に見えるかもしれないが、そうではないのだから誤解しないでほしい、とハイリゲンは念を押している。そのくせ、物理系に一種の「意識の瞬間」が生ずるのだなどと言っている論文もある(Matti Pitk穫en)。こういう無理な考え方がまかり通るのは、自然主義に呪縛された学者の世界以外にないだろう。

理論のぐらつき

 カウフマンはInvestigations(2000)の中で、コンピューターの驚異的な能力について述べた後でこう言っている――「しかし、この二十世紀後半の技術による機械は、自分で自分を組み立てたのではなかった。我々がそれを作ったのである。これに対して、生命世界は誰がデザインしたのでも作ったのでもない。生命世界は、自律的発動者の発現と継続する共進化(emergence and persistent coevolution of autonomous agents)によって作り出されたものだ」(3頁)。これでは教条マルクス主義理論のようでわけがわからない。むろんこれは検証された事実を述べているのではなく、そういうものとして生命世界を考えようということで、理論が先にあるからである。それにしても、当然のようにデザイン性を否定し、こういう空虚なことを言わねばならない人の苦渋は察するに余りある。それは自分で掘った穴に落ち込んでもがいているようなものである。カウフマンの文章が、終始、苦しさを表明するものであるわけがそこにある。
 ついでに言えば、カウフマンの第一著はOrigins of Orderであった。第二著は前号に紹介したAt Home in the Universe であった。最初の著は題名にそれがあり、第二著でも、前号に書いたように、order(秩序)という語が鍵概念としてとめどなく繰り返される。私はorderは生命でも生命情報でもないと言った。生命は確かに無秩序でも混沌でもない。けれども秩序が生ずることが生命創造へつながるというのは、小進化(種内改良)がある以上、大進化もあるはずだというダーウィニズムの論理よりもっと飛躍している。果たして彼の第三著Investigations では、この言葉がほとんど全く姿を消してしまった。人の思想は進歩するのだから、それはやむを得ないとも言える。けれども前著の鍵概念であったものが次著で全く捨てられてしまうというのは、著者の理論が最初からぐらついている証拠である。それは常に彼の文章に表れている。

学問的に無責任

 こういった学問的無責任は、「自己組織化」進化論者に共通するもののようである。インターネットの一つのサイトに「自己組織化系FAQ(よくある質問)」というのがある。その中に「物は自己組織化することができるのですか?」という質問があり、その答えとして「はい、外から押し付けられた(壁や機械や力によって)のでない形態を取るどんなシステムでも、自己組織化すると言うことができます」と言っている。なぜそんなに自信をもって断言できるのかというと、それは現に宇宙自然界が自己組織化によって生じ、自己組織化によって現在の形になったはずだからである。ダーウィニズムと同じく、理論からくる帰結が先行するのである。そうでなければならないからである。
 前にも紹介したことのあるディーン・オーバーマン(Dean Overman)の『偶然と自己組織化への反論』(A Case Against Accident and Self-Organization)は、「秩序」(order)ということについてこう述べている。

 自己組織化シナリオの問題は、秩序と複雑性の間の区別をしないこと、また無生物の中に十分な情報を生じさせるもっともらしい方法をもっていないことにある。…平衡状態から遠く離れたシステムは自発的に秩序を生み出すかもしれないが、生命構造に要求される情報内容の複雑性を生みはしない。…生き物の基本的な特徴は特殊化された複雑性ということであって、単純な繰り返す秩序ではないということを我々は知った。DNA配列は、伝達文の文字列と同じく、高度に不規則で反復性がない。これに対して結晶体は、単純な周期的に反復する秩序をもつが、その構造を特殊化するのに要求される指令というものはほとんどない。イリヤ・プリゴジンやA・G・ケアンズ-スミスの理論は、結晶体の秩序のようなシステムに要求される単純な指令と、DNAに含まれる膨大な量の指令の間の莫大な懸隔を無視しているのである。

 「特殊化された複雑性」(specified complexity)とここで言っているのは、ある未知のものの配列がインテリジェント・デザインであるか、それとも単なる自然現象として成ったものであるかを見分ける基準となるものである。これをウィリアム・デムスキーが「複雑性-特殊性基準」(complexity-specification criterion)と呼んで明確化していることは、昨年五月号で図(説明のフィルター)とともに紹介したところである。
 DNA配列がいわゆる自然現象で生ずるものでないことは、シェークスピアのテクストが自然現象で生ずるものでないのと全く同じことであるのに、これをあくまで自然現象として見ようとする人々がいるのである。それを幸運なランダム現象と見るのがダーウィニストであり、自力到達現象と見るのが「自己組織化」信奉者である。ともに「自然主義者」、すなわち、既知の物理力(必然=物理法則と偶然)しか我々のこの宇宙には働いていないという固い信念の持ち主たちである。

超自然を認めるべき

 ここで我々は廻りめぐって同じ問題に立ち戻ってくる。すなわち我々はどうしても「自然」のほかに「超自然」を認めなければならないのである。超自然という言葉がすでに「自然主義」の影響で、妖怪変化の類を指すようなものになっているかもしれない。けれどもそういう偏見を払拭した上で、自然(natural)に対して超自然(supernatural)と言うのが一番よいと私は思う(詩人のT・S・エリオットも全く同じことを言っている)。超自然という要因を認めた上でこの世界を再解釈してみること、そのことによって我々の世界はわかりにくくなるのか、わかりやすくなるのか。争点は一にかかってここにあると言える。
 自然主義者は、そういうものを認めれば世界はわかりにくくなる、それどころか我々の築いてきた知的世界が崩壊することになると言うのであろう。しかしそれは全くの間違いである。我々の世界が未知なるもの、超越的次元につながっているからといって、我々の世界が明確さを減ずることも崩れ去ることもない。ただその未知なるものを取り出して見せることはできないのである。その代わりに、その未知なるものの超知能による作品は歴然として存在する。その超知能による創作の手の跡を取り出して見せるのが、マイケル・ベーエのようなインテリジェント・デザイン派の科学者たちである。
 仮に、作品だけは完全に残っているが、作者の名前も伝記的事実も全くわからないという芸術家がいたとして、それはその芸術家そのものを否定しなければならないような事態であろうか。しかもヒュー・ロスが言っているように、作品からこの未知の芸術家の個性まで推測できる(provide some evidence of what that Person is like)というのに。
 逆に、超自然を認めないことによって、人はどれだけ苦しい弁解をし、つじつまを合わせ、開き直り、そして何より学問の命である言葉を、ほとんど故意に曖昧にしなければならないか。私はここ二、三回にわたって科学者の言葉遣いに注目してきた。その言葉の苦しさが如実に表われている好例が、カウフマンではないかと思う。私はこの科学者の真摯さを疑うことができないだけに、自然主義という哲学の犠牲者のように彼が見えてくるのである。
 悪趣味とは思われたくないが、『研究』(Investigations)の一部を引用しよう。Autonomous Agents(「自律的発動者」というような意味になるが、この言葉自体、不明瞭である)と題する章の冒頭である。超自然を拒否する科学者の神話と考えてよかろう。

 何らかの創造の泉が、一つの初期の惑星の散乱する日の光のなかで身をしなやかにして、神々に何かを囁いた。神々は囁き返し、神秘が生を得た。発動力が産み出された(Agency was spawned)。それとともに宇宙の性質が変わった。なぜなら物質、エネルギー、情報、そして何かそれ以上のものの新しい結合が手を伸ばして、それ自身のために世界を操作することができたからだ。利己的にか? しかり。しかしどうして物質、エネルギー、情報、そして何かそれ以外の奇跡的なものが利己的になるのだろう。その奇跡から生命世界が生じた。そしてそこから、他の生命世界が、宇宙にばらまかれた種子と庭が生じたと、我々は推測しなければならない。…
 再び私の仮の解答を出してみよう。今はまずい解答だが、またそこへ戻るつもりだ――自律的発動者は、繁殖することができ、一つあるいはそれ以上の熱力学的仕事のサイクルをやってのけることのできる自動触媒システム(autocatalytic system)でなければならない。

『世界思想』No.343(2004年5月号) 

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