生命科学は魂を抜いて成立するか(2)
――哲学を避けられぬ現代科学者――
渡辺 久義
prime realityが存在する
無神論者が有神論を論駁する理屈の一つに、「神が世界を創ったというのならその神は誰が創ったのだ」というのがある。こういった質問には終わりがないので無限後退(infinite
regress)と呼ばれる。これは有神論の弱点と言えないことはない。しかし仮に無神論者(唯物論者)の主張を受け入れて、最初に(根源に)単なる物質あるいはエネルギーがあったとしても、(物質の根源であったはずの)そのエネルギーの根源は何なのかということになり、無限後退は避けられないであろう。我々は究極の真理というものを知ることはできない。しかし有効な仮説というものは立てることができ、また立てなければならない。
インテリジェント・デザインのような唯物論を否定する科学のパラダイムは、最初に(根源に)生命あるいは心があった(ある)とする。その生命あるいは心――経験によって確信できるように見えないが存在するもの――が宗教の説く神(根源者)そのものであるか否かは、その先の問題である。しかしともかくも仮説的なprime
realityとして、根源的な、すなわち我々の生命や心の根源である、生命あるいは心が存在すると考える。
我々は科学者であろうとなかろうと、最初に(根源に)何を仮定するかという哲学的選択を強いられる。科学者は唯物論を選択しなければならない、というような主張には何の根拠もない。ID理論は自らを主張する前に、そのような科学の迷妄に注意を喚起するのである。ともかくも我々は、prime
realityを物質に取るか、生命(心)に取るかという、形而上学的・存在論的選択をしなければならない。
このprime realityという言葉は、スティーヴン・マイヤー(Stephen
Meyer)博士(現在Discovery Institute所長)がテレビ討論の中で、「神を創ったのは誰だ」と食い下がるダーウィニストの相手に対して「prime
realityというものがなければならない」と言っていたのを借りて使っている。このprime
realityという言い方には、始原的現実、根源的現実の両方が含まれる。
つまり時間的に最初にあったもの、時間を捨象し、世界を共時的にとらえたときの根源にあるもの、の二つの意味を含んでいる。後者を基底と呼んでもよい。我々の生きる世界(と我々自身)は、それがそこに根ざす何らかの基底をもつと想定しなければならない。そしてこの時間的始原と共時的(構造的)基底を、一つのものとして捉える観点がなければならない。
Prime realityは我々にとって、とりあえず物質か生命(心)かの二者択一として現れるが、今日、科学者はこれまでの惰性のままに、当然のように唯物論に立って仕事をすることはできない。科学者も哲学者と同じく、意識的に選択をするように強いられている。そんなむつかしい哲学的なことは自分には関係がない、などと言って済ますことはできない。それを曖昧にしたままで、科学、特に生命や進化に関する問題に取り組もうとしても、砂上に楼閣を築くようなものである。それは科学者の仕事にかかわるばかりでなく、学生の科学教育においても避けて通
れない問題である。
私が昨年、IDについて産経新聞のインタビューを受けたとき(九月二六日付東日本版)、記者から「ID教育は日本でも必要か」と問われて、それは「(どちらが正しいかということよりも)思考訓練として必要だ」と答えたのは、以上のような意味においてである。インターネットや新聞で、私のこの応答をあざけったり、私のような科学者でない者が科学の領域にしゃしゃり出るのはやめるべきだ、などと批判するのは見当違いである。
宣伝で恐縮だが、私が『善く生きる』(世界日報社、二〇〇二)という本で一貫して述べたのもそれである。Prime
realityという表現が、時間的に最初にあったもの、構造的(共時的)に基底をなすもの、を同時にあらわすように、precede(先立つ)にも両方の意味が含まれる。それで私はこの本で、わざと英語を用いて、二つの可能な選択肢があると言った。The
eye precedes seeing(眼が見ることに先立つ――唯物論的選択)か、Seeing
precedes the eye(見ることが眼に先立つ――ID的選択、必ずしも宗教的選択ではない)の、現実の可能な二つのあり方の選択である。
「見る」という意志あるいは目的が、時間的に「眼」に先行すると同時に、それは「眼」という生物学的構築物の構造的基底にあると考える――しかも(アインシュタイン理論の「時空」のように)別
々でなく一つのものとして考える――という視点がなければ、生命というものは説明できないだろうと私は考える。
50%の眼などない
一方、ダーウィニズムのような唯物論的な生命理論は、一つの物的原因が別
の物的結果を生み出すという物理的因果の観点で生命を説明しようとする。そこには構造的な、潜在する「原因」という観点が全くないばかりか、そういう観点を禁ずるのである。それでは生命の起源とか進化といったものを考えようがない。根本的に世界観の建て直しを必要としているのである。(「見ることが眼に先立つ」と考えれば、あるいはデザイン理論に立てば、生命の起源といった謎が解けると言っているのではない。正しい方向に向かって仮説を立てることになると言っているのである。)
そもそも「進化」と訳すevolution (evolve)という言葉はunfoldという意味であって、花のように開く、潜在性としてあったものが目に見えるものとして発現することを意味する。生物種というものが、「カンブリア爆発」に代表されるように、突如として大量
に現われ、それぞれが変わらず存続し、やがて姿を消す、というのが原則であることを、証拠によって認めざるをえないとするならば、ダーウィニズムのように、あくまで物的因果
の連鎖によって生物の歴史を説明するというようなこだわりを捨てて、考え方を根本から変えてみなければならないことは明らかである。また五〇パーセントの眼とか、五〇パーセントのコウモリの翼といったものが、頭でも考えにくく現実にも存在しないとしたら、潜在性(あるいはデザイン)として最初からあったものが、完全な形で顕現するという考え方が自然なのではなかろうか。目に見えないものは科学では認められないなどというのは、少なくとも生命を相手にする限り、自らの手足を縛る原則だと言わねばならない。いわんやこれを、宗教だから認められない、などと言うのは言語道断である。
少なくともそのような方向性をもつ反ダーウィン理論として、イタリアの遺伝学者セルモンティ(Giuseppe
Sermonti)の一見大胆ともみえる仮説や、柴谷篤弘などの「構造主義生物学」がある。柴谷の「構造主義」については後に触れることにして、前回に引きつづいて、しばらくセルモンティの斬新な見方を紹介してみよう。『なぜ蝿は馬でないか』(Why
Is a Fly Not a Horse? 2005)の「生命形態の隠れた根」という章から引用してみる。この本のイタリア語原題が『ダーウィンを忘れよ』であるように、それは古い下等動物から新しい高等動物への血統的つながりという、我々の無意識のダーウィン的構図を完全に白紙に戻したときに生まれてくるアイデアである。
脊椎動物(現実には、亜門)は綱(こう)に分類される。そこには、顎なし魚(ヤツメウナギ)、軟骨魚(サメ)、硬骨魚、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が含まれる。より新しいものがより古いものから生じたことを証明しよう、そしてその中間動物を見つけようとするすべての試みは、全く実りのない結果
に終わっている。熱心に捜し求められた「ミッシング・リンク」は、いまだに失われたままである。
虚構の「系統樹」
こういった動物種の間に系統的つながりがないということは、ダーウィニズムの柱となっているいわゆる「系統樹」が虚構であることを示すものである。これは分子レベルで調べてみても、これらの間に先祖・子孫の関係は全くないという。(分子生物学上の証拠がダーウィニズムを全く支持しないことについては、かつてマイケル・デントンの著書に拠って解説したことがある――連載第十回)
古生物学によって提供される記録的証拠――化石――に戻ってみると、現代の哺乳類(Eutheria)は協同爆発(concerted
explosion)の最も顕著な例を提供していることが分かる。哺乳類の二〇以上の目(もく)が、新生代初期、すなわち約六、五〇〇万年前に、ほとんど同時に出現しているのである。…
いかなる半コウモリも見出されたことはなく、これら奇想を凝らしたさまざまな哺乳類目の、もっともらしい共通
先祖を考え出した者もいない。形態が徐々に変化し枝分かれすることを示す系統樹――ダーウィニズムの革命的な説明となったあの「事実」――はどこにも見出されていない。それに代わって見出されるのは、どこからともなく顔を出す、根を持たぬ
潅木、お互いどうし似ているが互いに見も知らぬ、異なった種類の花をつけた潅木である。
多様な生物種を生み出す原因を、系統すなわち時間的な縦のつながりに求めることができないとしたら、それは超時間的な、共時的・構造的な根源に求めるよりほかないであろう。そこでセルモンティは「地下茎」という仮説を立てる。これはセルモンティ独自のものでなく、何人かの他の学者を援用しての仮説である。この目に見えぬ
「多産の母」は、海や山のバリアを越えて地球上のいたるところに根を張り、多種多様な(しかし兄弟の特徴をもつ)子を産み、役目が終われば死ぬ
、というものである。
グラッセ(Pierre-Paul
Grasse)はこれらを、ちょうどそこから小さな葉っぱの芽が時々伸びてくる苺の走根のような、地下茎になぞらえる。地下を這う走根は、それ自身の姿を表現しないために、損なわれることなく繁殖する。それは隠れているからこそ保存される。そしてそれは、生命形態をそこから発現する節々に至ったとき、栄光のときを迎え、そして死ぬ
。
これは交流のなかったはずの地球上の各場所(たとえば日本とギリシャ)の神話の類似性に似ている、とセルモンティは言う。そういった神話は、どこか一か所に始まったものが伝播したものでなく、それぞれがオリジナルである。これは目に見えない人間の心の地下茎のようなものを考えなければ、説明ができないだろう。
相関連するいろんな生命形態の間には、それらが共通
して経験した旅と、同じ放浪の母からそれらに伝達された記憶以外には、全くつながりがない。そして、それぞれがその記憶を好きなように利用し、この母のもつ(基幹細胞のような)分化全能性から、それぞれ独自のデザインを引き出すのである。…
両生類と爬虫類、あるいはクジラとコウモリをつなぐこれらの系(line)は、歴史の外にあり、我々が年を取る時間とは関係のない、ある時間の中でそのコースをたどる。発現の結果
として新生する兄弟たちは、同時代、同年齢のものたちである。彼らはこの世界での発達が始まった時点で、時間に参入する。彼らが表現する法則は生命界の外にある。彼らは歴史のために生命形態を処方し、歴史はそれらを、広大だが有限の可能性の目録の中から選び出すのである。
仮説の現実性
この「地下茎」を、分化全能性をもつ基幹細胞にたとえるのは最も分かりやすく、これは比喩ともいえるが、比喩を超えた現実の照応性(大宇宙と小宇宙のパタンの同一性)をもつものとセルモンティは考えているようである。
何が働いて、一つの分化全能の基幹細胞系を、赤血球あるいは白血球に変化するように導いているのかという問題は、どのようにして分化全能の「地下茎」がネズミになったり、クジラになったり、コウモリになったりするのかという問題と同じである。基幹細胞系は、材料製造の指令を含むだけでなく、生命形態を組み立てる構築地図をも含んでいる。普遍的なDNAのほかに、身体的整合の管理体制、多様性を生み出す「何か豊かで不思議なもの」があるのだ。
進化の不思議は、道すがらあちこちに、いろんな都市を建設していく目立たぬ
巡礼の行列に似ている。それぞれの都市が、哺乳類の目(もく)のような、独自の形態と習慣を発達させる。建設という点では一つに結ばれているが、それらは草原を走るかぎ爪を持ったり、夜空を羽ばたく翼を持ったり、海に潜るためのひれを持ったり、木に登るための腕を持ったりする。あるいは哲学するための心を持つのである。
セルモンティ自身が言うように、学界はこのような考えを科学的でないと言って退けるだろう。では主流学説であるダーウィニズムは科学的だろうか。少なくともセルモンティの方が、はるかに真実に近く現実的な考え方と言えるのではなかろうか。
『世界思想』No.365(2006年3月号)
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