NO.49



調和する統一思想とデザイン理論(1)
 ―生命起源の謎解きに向かって―


進化のイコン

 どれでもよい、高校用生物教科書の「生命の起源」「進化の証拠」「進化のしくみ」といった項目を読んでみていただきたい。こういうものを読んで満たされた気持ちになる人がいるだろうか。何よりもこれを書く人に私は同情を禁じえない。こういったものを気分よく書けるわけがないからである。読まされる側は知的不満が残るだけだが、幸いなことに、ここは授業ではあまり教えないのだそうである。
 前号にも書いたが、人にどう思われるか、非科学的だと言われやしないか、などということを一切考えないで、自分自身がそれそのものである生命というものを、じっと内省してみたときに、これが物質や物力で説明できる現象だなどと思える人がいるとは思えない。もしいるとしたら、その人はまぎれもなく現代の唯物論教育の犠牲者である。
 しかしどんなに心の底で否定しようと、科学である以上、生命といえども物質として扱うのが正しいのではないかと言う人がいたら、「それは違う」と言わなければならない。それはかえって科学ではないのである。少なくとも、ウソをついてまで唯物進化論を押し通 さなければならないような生物学は、科学ではない。次の引用はジョナサン・ウエルズの『進化のイコン』(Icons of Evolution, 2000)の結びの節であるが、よく読んでいただきたい。

  こういったことすべてが、いったいどうして分かるのか? 証拠があるからか? 違う。それは、「生物学は進化という観点から見なければ何一つ意味をなさない」(とドブジャンスキーが言った)からである。
 これは科学ではない。これは真理の探求ではない。これはドグマ(独断)である。そしてこういったものが科学の研究や教育を支配するようなことを、許してはならないのである。我々は、学生にダーウィン理論を植え付けるために進化のイコンを用いるのでなく、理論というものは証拠に照らして、いかに修正されうるものであるかを学生に教えるために、それを用いるべきである。科学の最も悪い面 を教えるのでなく、科学の最もよい面を教えるべきである。

 「進化のイコン」とは、ヘッケルの胚の偽造絵や、オオシモフリエダシャクの「やらせ」写 真など、ダーウィニズム洗脳教育のための、十項目におよぶニセやゴマカシの絵のことであるが、ウエルズはこれらを、科学者になろうとするならこういうことをしてはいけない、という「反面 」教育として使うべきだと言っているのである。これはイコンに限ったことではない。進化論――つまり唯物生命論――についての記述全体について言えることである。科学者になろうとするなら、こういう文章を書いてはならないのである。

科学者として失格

 次にその一例をあげる(これは前にも引用したことがある)。

 生命の起源――地球上での、無生物からの生物の発生をいう。現在では、科学がめざましい進歩をとげているので、ある程度は生命の起源について推論できるようになってきた。

 「発生」というのは普通、前に自然をつけて「自然発生」と言っても同じだから、泥沼からメタンガスが発生するようなイメージで受け取ればよいのだろう。こういうふうに書く人は、科学ではこう考えることになっており、またこう書かなければ科学の文章として認めてもらえないから、(おそらく気分はすっきりしないが)こう書いているのであろう。ここから感ずる最初のものは、著者がどう弁解しようと、不正直、不誠実ということである。本心では不安を感じながら書いたようなものが、人に満足を与えるはずはない。こんなことは理系だろうと文系だろうと、科学論文だろうと小説だろうと同じである。これはそもそも「科学ではない、真理の探求ではない」のである。ウエルズを始めとするID派の科学者の書くものが人を――少なくとも私を――安心させ、落ち着いた気分にさせ、ダーウィニストやID反対派の書くものが人をいらいらさせ、不安にさせるのは、その正直と不正直の違いである。
 すべての教科書が取り上げる化学進化というものの記述でも同じことが言える。「化学進化」などとゴチックで印刷されると、いかにもそういう現実が存在するかのようである。自然状態で、ある程度の(アミノ酸などの)基本的な生命の組み立てブロックができるのは確かなのであろう。しかしかりに大きく譲って、最初の生きた細胞に必要な部品がすべて揃った(合成された)として――手っ取り早くいえば現実の細胞を上手に分解できたとして――これを試験管に入れて振りつづけていれば、いつか生きた細胞ができあがるなどということは、通 常の理性で考えられることではない。しかし、そう考えなさいと教科書には書いてある。もっと言えば、そう考えなければ科学者として認められませんよ、ということであろう。
 しかし部品が揃い、そこへ物理的な力が加われば生きた細胞が生まれるなどというのは、絵具とカンヴァスがあり、そこへダヴィンチの腕力が加われば「モナリザ」が生まれるというのと同じであって、これは必要条件と十分条件をごっちゃにするものである。必要条件と十分条件の区別 ができないようでは、あるいは区別を知りながら故意にそれを有耶無耶にするような不誠実なことでは、科学者として失格ですよ、とウエルズではないが、これを教訓にしなければならないところである。

「生命の場」

 ではいったい生命の起源について、あるいは後の生物種の起源について、どう考えるのが一番真理に近いと感じられ、したがって人を満足させ落ち着かせるのであろうか。
 私はこの問題を考えるのに、かねてから「生命の場」ともいうべきものを仮定することを提唱してきた――『意識の再編』(勁草書房、一九九二)一二七―二八頁、『善く生きる』(世界日報社、二〇〇二)一二五頁。「場」とは重力場や磁場のように、それ自体では目に見えず、そこに物体や金属片を持ってきて初めて顕在化するものである。そのように生命も初めから存在したと考えなければならない。ただし目に見えない形で、潜勢態として存在したのである。そう考えなければ生命の神秘には一歩も近づくことはできない。
 最初、宇宙にはこれを顕在化する物的条件が存在しなかった(水素とヘリウムで生命体は造れない)。しかし宇宙が生命体の実現へ向かって徐々に進化していき(宇宙の進化はあらゆる科学者が認めるだろう)、生命体の組み立て要素となる炭素を始めとするより重い元素を次々に造っていき、生命体の構成要素とそれが生きるための環境条件が整ったとき、潜在していた生命体が、おそらく一気に、目に見える形で出現したのである。人間のようなより高度な生命体のためには、最も高度な物理的環境が必要であったために、人間の出現が最後になったと考えられる。
 その意味で、そしてその意味でのみ、教科書の教える「化学進化」は真理でなければならない。「生命の場」の熟成、すなわち最初から存在する生命を受け止め、これに形を与えるための条件の完成への過程として、化学進化は理解されねばならない。物質が物質の力で勝手に集まって生命を造るのではない(それでは低級な怪奇小説のようである)。したがって生命体の出現とは、目に見えない生命とこれを実現させる物的条件が、吸着するように相呼応して実現するものでなければならない。そう考えなければ、最初から完成された形で現れる(化石の事実がそうなっている)生物の創造というものを、我々はどうしても理解することができない。
 この生命の場という考え方は、『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』(統一思想研究院、二〇〇〇)にも次のように記述されている。

…たとえ科学者がDNAを造ったとしても、それは生命を宿す装置を造ったにすぎないのであって、生命そのものを造ったとは言えないのである。宇宙は生命が充満している生命の場であるが、それは神の性相に由来するものである。そこで生命を捕らえる装置さえあれば、生命がそこに現れるのである。その装置にあたるのがDNAという特殊な分子なのである。「性相と形状の階層的構造」から、そのような結論が導かれるのである。(一六九頁)

 追々説明していくが、この「統一思想」というのは、宇宙創造、生命創造、その意味・目的ということについて解き明かす、論理的・体系的に構築された、おそらく世界に唯一の思想体系である。哲学でもあり科学でもあり、何よりも世直しという実践のための思想である。そしてこれは漢字文化圏から世界へ向かって発信しうる唯一の思想でもある。中国の古典があるではないかと言われるかもしれないが、その古典はすべてこの中に集約されている。アリストテレスもカントもハイデガーもこのような大思想を展開してはいない。しかもアリストテレスもカントもハイデガーもすべてこの中に含まれている。
 少し皮肉を申し上げる。おおむね日本の知識人は(韓国でも同様だが)、このような思想体系のあることを知らないか、聞いたことはあっても、どうせ韓国から出てくるようなものにロクなものはなかろう、特殊な教団の特殊な考え方に決まっている、と決め付けて見向きもしない。それどころか、「統一思想」などという名を口にすることさえ、我が国ではヤバイのである。ちょうどこれは「インテリジェント・デザイン」を口にすることさえ、今のアメリカではヤバイのとパラレルの関係にある。現時点のアメリカの状況では、IDを勉強しないことが勧められ、IDを知らないことが美徳となっている。ダーウィニズムに従ってさえいれば身の安全も出世も保証される。なんと我が国の統一思想の立場によく似ているではないか。ID批判のパターンは、ほとんどID関係書を読まないで、むしろ読んで理解することを極力拒否しながら、批判するというものである。
 今から順を追って述べるが、そのIDと統一思想が、全く同じ方向を指し、相補的に照らし合う関係にあるというのも面 白いことである。ただし統一思想はID理論ほど単純ではないから、読んで理解するまでに相当の努力は必要である。(そのため統一思想研究の国際学会は毎年開かれている。IDの理解にそんなものは必要でない。)

統一思想の生命観

 閑話休題。では統一思想は、生命の起源という難題をどう説明しているのか? そもそも生命というものをどう捉えているのか? それは我々の生物教科書が前提としているような唯物論によるものでは勿論ない。しかしだからといって物的世界を軽視しているのではない。上に述べたように「化学進化」は正しいコンテクストの中で捉えれば、確かに真理なのである。そして「進化」自体も正しいコンテクストで捉えれば真理である。奇術のような創造だけがあって進化はなかった、などとは言っていない。
 統一思想が生命というものを、目に見える側面と目に見えない側面 の、両面からなると考えているのは、先の引用からも明らかであろう。引用文の少し前では、これを放送局が発する電波と受信機の比喩で説明している。電波だけでも映像や音声は存在できない。受信機だけでも映像や音声は生じない。電波(目には見えない実体)と受信機(目に見える物的存在)の両面 があってはじめて映像や音声が形を取って存在できる。生命もそのような送信と受信(機)のような二つの側面 からなっている。そう考えれば、宇宙そのものが初めから一つの生命の場であった、ただそれが顕在化するためには、時間をかけて徐々に熟していかなければならなかった、と理解することができる。進化というなら、その生命顕在化の過程を進化と呼ぶべきなのである。そう考えれば、宇宙歴史の中のある時点で生命が「発生」し、それからあとが進化だというダーウィン進化論の考え方はできなくなる。宇宙そのものが一つの生命体のように進化してきたのである。
 そこでこの生命の二面を表わす概念が、統一思想のキーワードである「性相」と「形状」である。これはこれまでにも何度か軽く触れた。そのときは便宜上、これを我々の知っている最もそれに近い概念であるアリストテレスの「形相」と「質料」に置き換えて説明したかもしれない。当面 はそう考えてもよい。しかし統一思想のこれらの概念の方が、はるかに強力な「説明力」(ID派のよく使う言葉)を持つのである。そのような思想の伝統は西洋にはなく、したがって岡潔のような直観のすぐれた人は「西洋人は馬鹿だから」――ちょっとひどいとは思うが――という発想をするのである。
 なぜ統一思想が、謎の中の謎、神秘の中の神秘である生命の起源について、すぐれた説明力を持つのか、それがID理論とどう調和し補強し合うのかについては、次回から説明することにしたい。

『世界思想』No.374(2007年1月号)

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