NO.53



調和する統一思想とデザイン理論(5)
 ―「なんとひどく道を踏み外したものだ!」―

 

真理への道を閉ざす文化

 この副題は先月から紹介中のワイカー、ウィット共著『意味に満ちた宇宙』第一章のモットーに引かれている『ハムレット』からの一行である。この本のすばらしさについてはすでに述べたが、このモットーがこの本にとっても、我々の議論にとってもあまりにも的確なので、ここに借用することにした。これはハムレットの父の亡霊が自分の死の真相をハムレットに語る場面 で、妃(ハムレットの母)が自分を殺した弟クローディアスと、自分の葬式後早々に結婚してしまったことを嘆き憤るセリフの一部――what a falling-off was there!――である。
 ID論争などを通じて見えてきた昨今の科学者世界(というより思想界)の動きを見ていて叫びたくなるのは、まさに「なんとひどく道を踏み外したものだ!」というセリフである。むろんこれは唯物論科学の支配体制を指して言っている。道徳的堕落、哲学の堕落、学問の停滞が同レベルのものとして捉えられている。この本を共感をもって読める人なら、いったいなぜこういう歪んだ哲学が世界を支配してきたのか考え込むとともに、これを快刀乱麻のごとくに分析するこの本によって一種のカタルシス(鬱屈していたものが晴れる思い)を覚えるであろう。
 この本の言いたいのはこういうことである――学問というものは、理系であろうと文系であろうと、わくわくするようなものでなければならない。この「わくわく」の前提となるのは、この世界(宇宙)に作者があり、その作者はあなたや私よりも賢いが、しかしあなたや私と根っこが同じだというという認識である。逆にこの「わくわく」を消してしまうのは、この二つを否定する哲学――唯物論的還元主義――である。これは統一思想の立場と基本的に同じである。
 ダーウィニズムの宣伝機関である全米科学教育センター(NCSE、ジョナサン・ウエルズはミスネーミングだと言う)所長のユージェニー・スコット女史は、インテリジェント・デザインについて「自然界のことを研究するのに超自然を持ち出すとはあきれるじゃありませんか」と言う。これは逆にしなければならない――自然界のことを研究するのに超自然を排除するとはあきれるじゃありませんか! しかしこれはスコット女史だけの話ではない。我々唯物論的文化の中で生まれ育った者はすべて、彼女のように考えるように躾けられている。しかし、そもそも宇宙が自分で自分を産み出し、自分で自分を発展させて、ついには物質から生命を作り出した、などということがあるだろうか? そんな馬鹿なことはありえないにもかかわらず、そう考えるように躾けられている。これは明らかに健全な人間の考えることではない。病的に思考力と感性が麻痺した人間の考えることである。
 端的に言えば、我々の唯物論文化は生命を生命として認めないのである。これは水はもともと水素と酸素という気体なのだから、水を液体としては認めないというのと同じことである。これが唯物論的還元主義というものである。この本の言うのは、物理も化学も本来、生命のために存在すると考えるべきなのに、生命を物理と化学に還元してそこに真理を見出そうという本末転倒が起こっている、「なんと本来の道からはずれたものだ」ということである。堕落(falling-off)とは神から離反すること、真理への道を閉ざされることだというのは、宗教的にも科学的にも真理だということがわかる。ID支持者で、自分は宗教的人間ではないと言う学者がかなりいるが、確かに宗教的コミットメントなどというものは、ここでは全く必要がない。

「神」は放送禁止用語

 唯物論文化の本末転倒は、「神」という言葉あるいは概念が、差別 用語、放送禁止用語と同じ扱いを受けていることにはっきり現れている。「神」は我々の文化では、メクラ、ツンボ、ウンコと同じ範疇に入る。「ダーウィンが来た」というNHK番組の内容はすばらしい。よくこんなこと、こんなものが自然界にあるものだと誰もが驚嘆するだろう。しかしあれはダーウィンでなく「神が来た」のでなければならない。神とは自然界の叡智の根源という意味である。あの内容にダーウィンの名をつけるということは、ダーウィニズムの観点で見なさいということであろうから、これを見て感嘆したり感動したりするのは間違いだと言っていることになる。これを母親と一緒に見ていた子供が言う、「お母さん、自然界ってすごいね。」答えて母親、「こういうものを見て感動するようではだめなのよ。友達に笑われますよ。こういったことはみんな科学の法則で説明できるんですからね。ほらあの『大昔の動物』とかいう絵本の巻末に出ていたダーウィンという人の説明を読んでごらんなさい。」しかしほどほどに素直な人であれば、ああいうものを見ていて自然に「神」という言葉が出てくるはずである。ただ解説のアナウンサーは、口が裂けてもそれは言えないことになっている。ダーウィニスト諸君、どう思う?
 このような自然界に対する素直な反応とそれを抑圧するもののことが、『意味に満ちた宇宙』には次のように書かれている。

コミック・レリーフとしての、神のユーモアとしてのパンダ。こういう考え方を頭から滑稽な、考えるに値しないものとして一蹴するのは、その人の功利主義的な先入見を暴露するものにすぎない。いったいなぜ、デザイナーの世界が、味気ない高校の理科の教科書のようなものでなければならないのか――その文体はユーモアがなく、均質的で、客観的ということになっている受動態の重みに窒息しそうな、あの教科書のような? なぜデザイナーの世界が、生きて動くものであると同時に、楽しませ、面 白がらせ、魅惑するものであってはならないのか? …あらゆるものを還元しなければならない唯物論者は、遊び好きのデザイナーという観点を嘲笑して、シェークスピアの光輝も自然界の光輝も、ある種のしつこい病的な観点に立って眺めなければならないかのように言う。どうすればいい? 「もしあなたや私がそうした病的傾向のある人とかかり合うことになったら」とG・K・チェスタートンは言っている、「我々は彼に説いて聞かせるより、むしろ空気を吸わせてあげるように、窒息するようなたった一つの議論の外側に、もっときれいで涼しい何かがあることを納得させるように心がけるべきだろう。」

  唯物論者とは一種の異常者であり、唯物論文化とは間違いなく病気の文化である。かつてよく言われた「イデオロギーの相違」などというものではない。テロリストは犯罪者であって「イデオロギーの違う人」などでないのと同じである。唯物論をそのようにはっきりと診断するこのような本が現れたことによって、重苦しい暗雲が吹き飛ばされた感じがする。誰かがそれを言い出すのを大勢の人々が待っていたはずである。しかし不思議なことに、王様が裸だと言う人がいなかった。これは生物教科書の一世紀にわたる犯罪的なウソがそうであったように、誰かが思い切って言わなければならない。第一章の冒頭で著者は、「この本の主張の核心は簡単に述べることができる――宇宙は意味に満ちているということ。こんなことを誰かが言わなければならないというのは不思議なことだ」と言っている。さらにチェスタートンを引用して先の文章を続ける――

「ところで全く外面 的、経験的に言って、狂気の最も確かな間違いのしるしは、この論理的完全さと精神的狭隘の結合である。…世界の説明としての唯物論は一種の異常者の単純さをもっている。それは狂人の議論の特質をもっていて、あらゆるものを覆いつくすと同時に、あらゆるものを省略するような感じを我々に与える」とチェスタートンは続けて言う。唯物論者の間違いは要するに、一種の思い違い、窮屈な閉じた輪の中で理性が萎縮することである。

 この狂気の論理を、我々は例えばドーキンズの書くものに明瞭に感ずる。ドーキンズは気の毒なことに、モグラ叩きのようにあらゆる人から叩かれるが、それは単に意見が違うというより、文章が一見して論理的なだけに、異常な、狂気に近いものを感ずるからであろう。この本もドーキンズ批判に一章を当てているが、叩くのでなく的確な分析・診断であって、唯物還元主義の本質を浮き彫りにしている。ここで「窮屈な閉じた輪」と言っているが、この輪(circle)のイメージが何度も出てくる。これは唯物論者(無神論者)の論理の特徴で、循環論法(から回り)ということである。ちょうど自分の尾をくわえた蛇のようにぐるぐる回るだけで、どこにも根ざしていないから何も説明したことにならない。例えば「自然選択」という、すでに存在するものに働きかけるだけの力に、なぜ神の創造のようなことができるのかと問えば、それは自然選択にそういう力があるからだ、という答えが返ってくるだけである。

シェークスピア猿の実験

 ダーウィニスト(唯物論者)の狂気あるいは病気の典型的な現れともいうべきものが、この本にかなり詳しく紹介されている。それは「シェークスピア猿」の実験である。百万匹ものサルが百万年もタイプを叩き続ければ、いつかシェークスピア全集が偶然の力によって生まれるかもしれない、という話は誰でも聞いているであろう。これは確かにダーウィニストの信念だが、たいての人はこれを単なる面 白い比喩だと考えている。ところがこれを現実に実験した人があるのである。
 2002年、イギリスのプリマス大学の何人かの研究者が、ふざけてでなく、いたずらでもなく、ちゃんとした研究計画としてタイプを打つサルの実験に取り掛かった。使われたのは六匹のマカク(ニホンザルの仲間)、イングランド南西部のペイントン動物園において、彼らは一台のコンピューターを一ヵ月放置しておいた。その結果 (シェークスピア猿の処女作)が、この本のほぼ一頁にわたって紹介されている。最初fやvやpがちょっと続き、後はgが数行、残り数十行が全部sになっている。報告によればやがて「ボス猿がこれをめちゃめちゃに叩き始めた。…もう一つ彼らが興味をもったのはキーボードを汚し一面 に小便をかけることだった。」
 これはサルの生態の研究ではない。ダーウィニズムがどこまで立証できるかという研究である。学問の世界に余興があって悪いとは言わない。しかしこれは余興ではなく、ちゃんとしたプロジェクトとして行われた。こう言う人があるかもしれない、「ダーウィニズムが成り立たないことが証明できたのだからいいではないか、多少の意味はあったのではないか」と。しかし問題はそこにはない。これを行った研究者たちも、ほぼこの結果 は予想していたに違いないのである。しかし彼らがこれを本気でやったことの背景にあるのは、ダーウィニズムによってしか生命世界は説明できないはずだが、できないのはおかしいという、唯物論者が自分で作った穴の中に落ち込んでもがいている姿である。ダーウィニズム信仰がなければ、初めからこんな実験をやろうとは思わないだろう。
 この連載で何度も繰り返して言っているように、万が一サルが意味のある文章を叩き出したとしても、それは意味のある文章ではないのである。生命体の形さえできれば、そのものに自動的に意識(心、魂)が生じて動き出すはずだ、などという馬鹿なことを、頭の正常な誰が考えるだろうか? しかしその馬鹿な話をあくまで信じているのがダーウィニストである。自分たちだけでダーウィン同好会を作ってこれを信ずるのは勝手である。しかし彼らはこれによって青少年を教育しようとするのである。
 それだけではない。このプロジェクトには小額ではあろうが金がかかったはずである。これがもし日本での話なら、その金はあなたや私の税金である。これはおそらく小額だから目をつぶってもよい。しかしもしこれが大金を食う大型プロジェクトだったとしたら、我々はどうするのか。ダーウィニストたちによって子供や孫を洗脳された上に、そのための金まで出すという馬鹿な話がどこにあるか。
 まだある。先日、大阪で起きた凶悪な殺人事件の犯人に対して死刑の判決があったが、その判決理由に「生命に対する一片の畏敬の念すら感じられない」という文言があった。ダーウィニスト諸君にお尋ねしたい。この判決理由は理由にならないのではないのか? ダーウィニズムよれば生命は畏敬の対象などにはならないはずである。諸君は若者を傍らへ引き寄せて、「裁判長はあんなことを言っているが、あれは科学的には間違いだよ」と教育したくなるはずだと思うがどうか? もちろんダーウィニスト(あるいはダーウィニズム体制)が現実にそんなことを言わないのは分かっている。しかし実質的にそう言っているのと同じだということに、気付いてもらわねば困るのである。
 我々の文化の唯物還元主義の風潮を作ってきたものが三つある。ダーウィニズム、マルクシズム、フロイト思想である。しかしダーウィニムという万能の酸(universal acid)がすべての根元にある。道徳、哲学、学問、教育を通 じて我々の文化は、「なんとひどく道を踏み外したことか!」

 

『世界思想』No.377(2007年5月号)

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