NO.56



何が人を腐らせ、何が蘇らせるか(3
 ―「アメイジング・グレイス」ということ―


驚くべきデザイン

 この連続エッセイを書き続けている私は科学者ではない、つまり科学者としてトレーニングを受けた者ではないが、科学者の立場でものを考えているつもりである。だから宗教家の語る宇宙的真理についての話は、「腑に落ちる」限り、進んで傾聴するけれども、証拠が示されない限りは、心のどこかに「引く」余地を残しておくのが私の習性である。
 たとえば、おそらく誰でも知っている「アメイジング・グレイス」という賛美歌がある。これを聞けば――というより、天に向かって両手を広げAmazing Graceと言っている人を想像しただけで――私は人並みに感動する。しかし、百パーセント宗教的な純粋な感動は私の中では起こらない。これもおそらく人並みであろう。いわゆる「冷めた」自分が一方にいて、なぜ証拠もなしにAmazing Grace(驚嘆すべき恩寵)などと見えないものを賛美できるのか、という気持ちが一方にある。しかしこれは今までの私にはあった、と過去形で言わなければならない。
 Graceは「恩寵」と訳されるがわかりにくい。「神の愛、恵み」と訳しても正確ではない。これをConcise Oxford Dictionaryで引くとthe unmerited favor of God(我々がそれに値しない神の好意)とあり、これがgraceの正確な意味である。物理学者ユージン・ウィグナーが、数学の有効性の神秘について「数学の言語が物理法則の公式化に適合しているというこの奇跡は、我々が理解することもできず、またそれに値する者でもない驚くべき贈り物である」と語っているのは注目に値する(四月号参照)。ウィグナーはこれを、宗教などに全く関係のないコンテキストにおいて、科学者としての純粋な驚きとして語っているのである。彼は、我々に与えられた数学能力そのものが「アメイジング・グレイス」だと言っていることになる。
 私は、このアメイジング・グレイスの事実を、宇宙、地球環境、人間の能力のすべてについて気付かせ、また科学的に論証したのが、インテリジェント・デザインの科学者たちの功績だと言ってよいと思う。ただ彼らはこれを「グレイス」とは言わない。「(驚くべき)デザイン」だと言っているのである。ビッグバンに始まる宇宙的な微調整、生物以前の化学物質(水や炭素)の合目的性、我々を生かすだけでなく、我々にそれらの事実を発見させ、宇宙の秘密に参入させようとするはからい――こういった唯物論で説明できない「人間原理」的事実は自然界の隅々にまで浸透している、と彼らは指摘する。
 これをごく普通に解釈すれば、神の愛がただ一点、人間をめがけて宇宙から降り注いでいるということである。だとすれば、以前にはやや芝居じみて見えた、あの天に向かって両手を広げ、「アメイジング・グレイス」と賛美する人の姿に、何の衒いも誇張もないことになる。それは単に客観的真理を感謝をもって受け入れている人の姿である。

唯物論という宗教

  ところでID運動の過程でわかってきたもう一つの真実がある。それは、今言ったようなことを聞いても、決して心を動かさない唯物論者という種族がいるということである。彼らは宇宙のファイン・チューニングというような事実を前にしても、ただ軽蔑して笑うだけである。しかしそれだけで済めばよい。なんと彼らは、他人に対して、そのようなことを考えてはいけないと言うだけでなく、そのような事実を指摘する者を処罰しようとする。それが如実に現れたのが、前号に書いたホットニュースとしての、米アイオワ州立大学の『特権的惑星』の著者ギエルモ・ゴンザレスに対する、大学をあげてのいびり出し(終身在職権拒否)処置である。
 ゴンザレスがこの本で述べているのは、彼や他の天文学者たちによる最新の宇宙観測から出てきた事実である。彼が気付いたのは、どう考えても偶然とは思えない、数値や、物理的条件や、物の性質の不思議な暗合があり、それが我々人間に向けられているという事実である。彼はこれをデザインと解釈すべきではないか、と慎重に言っているだけであって、何かを断定しているわけではない。彼自身の言葉によれば、「科学的証拠が私を必然的に導く所へ赴くだけ、そしてこれを公開の学問の場で論証したいだけ」であって、もちろん宗教的信仰の表明などではない。むしろこの本の主眼は、驚くべき事実を読者に示してみせることであって、解釈はむしろ読者に委ねている。前にも引用した謎を掛けるような次のような言い方に、それは現れている――

おそらく我々は、どんな数列[ある映画で宇宙人から送られてきた信号]よりもはるかに意味の深い宇宙の信号を見落としていたのである。それは一つの宇宙を開示する信号であるが、それがあまりにも絶妙に(我々地球人の)生命と発見のために細工されているので、我々が好んで期待し想像してきたいかなる知性とも比較を絶して、はるかに広大で、はるかに古く、はるかに荘厳な、地球外知性の存在を囁きかけてくるように思えるのである。

 この最後の、見落としていた「地球外知性」とは宇宙のデザイナーのことであるが、謎掛けがわかりにくいので、私が注をつけたほどである。
 この本に数値や論証のごまかしがあるというのではない。データの解釈が(主流の)唯物論者のそれと違うということが、アイオワ州立大学の総意によるゴンザレス追い出しの理由である(これは学長がそう認めている)。読者諸兄姉はこれをどう考えられるか? 私にはどうしてもわからない。
 ではゴンザレスがこの大学を追い出されないためには、どうすればよかったのか? こういうデータが出てきてもひた隠しにするか、これをデザインでなく、あくまで偶然だと言えばよかったのか(ガリレオ裁判のように)? しかも彼の論文でデザインを云々しているのはこの本だけであり、教室でデザイン理論を教えたこともないという。この理不尽な大学の行動は全く不可解である。ただ、ダーウィニズム専制下の他の多くの不可解な理不尽さ(ニセモノの絵が生物教科書に使われ、堂々と詭弁が通 用するというような)を考え合わせてみると、何かが見えてくるように思える。何か尋常でない、恐るべき妖怪が我々の知的世界を徘徊している光景である。
 賄賂を使ってでも『特権的惑星』のDVD版の公開をやめさせようとする人がいたことは前号で述べた。これは常軌を逸しているが、これが多くの唯物論者(無神論者)の願望としてあるのだとしたらどうなのか? おそらく今日の知的世界には、宇宙にデザインや目的があってはならない、命に代えてでもそういう宇宙を阻止しなければならない、と真剣に考える多くの人たちがいるのである。単なる意地っ張り、頭の固さではなかろう。既得権益といった動機だけでも説明できない。もっと深いところから発する集団的深層心理であろう。唯物論科学が一人勝ちしていたときはそれがわからなかった。これに対抗者が現れたことによって、唯物論というものが、狂信者によって防衛されねばならない宗教であることがわかってきた。唯物論によって世界をねじ伏せようとする強い意志を、今日我々は、知的世界のいたるところに感じ取ることができる。生物学者ドーキンズのGod Delusion(邦訳『神は妄想である――宗教との決別』、私は未読)という近著が暗示的である。しかし世界はねじ伏せられて真理を明かすものではない。

弱い人間原理

  一つ面白いことがある。彼らは「アメイジング・グレイス」の「グレイス」の部分(つまり有無を言わさぬ データとしてのデザイン)には反論しようがないので、「アメイジング」の部分に異を唱える。つまり宇宙の微調整などに驚くことが間違っているというのである。これを「弱い人間原理」(Weak Anthropic Principle)という。私はこの連載記事を「人間原理の探究」というタイトルで通 してきたが、このところ紹介中の『意味に満ちた宇宙』も「人間原理の探求」と言い換えてもいいように思われる。つまり、宇宙が人間を目的として造られているという事実は、現実世界にどこまでも深く浸透し、どこまでも追究されるべきものだという内容である。これが本来の「人間原理」の意味である。しかし唯物論者はこれを自分たちの宗旨に合わせて曲げて解釈した。次のユーモラスなこの本の一節が、うまくこれが説明している――

 そう考えると、弱い人間原理(WAP)とは、いかにも「弱い」ものであることが明らかになる。つまりその弱さは反人間原理的(disanthropic)な前提にある。唯物論者たちはこの原理を利用してこう言おうとする――君が今まで論じてきたような諸条件は驚くようなことではない、なぜなら、もしすべてが我々の生存のために微調整されていなかったとしたら、我々がここにいてそれに気付くこともなかったのだから。「弱い人間原理」は、反人間原理的な考えをもつ人々に最もよく利用されるもので、それはどんなに驚くべきことを我々が見出しても、肩をすくめて軽蔑することができるような論理になっている。それは、自然界が示す最も絶妙な仕組みを前にして、常に「それがどうした」と言うのである。
 しかしこの反人間原理主義が、いかに無関心に肩をすくめても、人間原理的な宇宙自体がそれに合わない。その本質的な弱さの一つのしるしは、反人間原理主義に反する証拠が強力になればなるほど、この肩すくめがより自己祝福的になっていくことである。すでに見たように、初期条件の微調整があるというだけの話ではない(あそう、それがどうした?)、時間を下って、技術をもつ我々の存在は、我々の銀河系から見ても、実にきわどい諸条件の積み重ねによって可能なことがわかった(あそう、それがどうした?)、のみならず我々の太陽から見ても同じであり(あそう、それがどうした?)、地球自体の構成や大気についても同じなのだ(あそう、それがどうした?)――。反人間原理的な人々は、実にうらやましい立場に身を置いている――彼らに不利な証拠がどれほど積み上げられようと、それは彼らの正しさの証拠となる。なぜなら、そういう事実がなければ、我々がここにいて議論することはなかったからである。

  科学は驚くことから始まるというのは、我々の教えられている常識である。しかし唯物論者は「決して驚いてはいけない、不思議がってはいけない」と教える。子供が自然界の絶妙な合目的性や美しさに驚いていると、母親が傍から「こんなことは自然選択という簡単な原理で説明できるのだから驚くようなことではないのよ。友達に笑われますよ」と教える。唯物論者はこれこそ立派な科学教育だと言い、批判者はこれでは科学離れが起こるのも当然だと言う。

唯物論を脱する現代科学

  ところで「弱い人間原理」の奇妙な理屈について、この本は次のように言っている――

オックスフォードの哲学者リチャード・スウィンバーンは、この奇妙な論法を、銃殺の射撃隊の前に立たされて発砲されたが、目を開けてみると弾は全部それて、後ろの壁に自分の形の弾痕があるのを見た男の、奇妙な推理にたとえている。射撃隊が狙いをはずしたのは、何らかの理由で自分を助けようとしたのだろうと、正常なら考えるところを、この死刑囚は笑ってこうコメントする――「この出来事は特に説明を要するようなことではない。なぜなら、もし射撃隊が私を撃ち損じなかったら、私はここにいて彼らがやったことを見ることもなかったのだから。」

  「アメイジング」なことを「アメイジング」ではないと言い、「グレイス」を「グレイス」ではないと言って鼻でフンと笑う。この男はまさに現代の唯物論者である。しかも彼らは自分たちと解釈の違う者を抹殺しようとし、自分たちの解釈で子供を教育しようとする。彼らは自分が生きているのは当たり前だと言い、奇跡のようなことが起きて自分が助けられた事実をひた隠しにしようとする。なぜか? 自分を助けた者が何であれ、その助けた者を否定しなければ、唯物論(無神論)の宗旨に背くからである。
 そういう転倒した論理をもつ唯物論が長持ちするはずはない。唯物論文化の迷妄と暗黒の中から、それを破って光が見えてきたのが、現在の科学の状況だと『意味に満ちた宇宙』の著者は言っている。

…いや増す霧と暗黒のただ中にあって、驚くべき(amazing)こと――あまりに驚くべ
きことでほとんど神秘に近いこと――が西欧世界に起こっている。自然界の、また宇宙の底深くにある意味了解可能性(intelligibility)が、ますます強力に執拗に、再び自己を主張し始めており、科学者たちは、次々と開示されるその美に対する驚異(宗教的畏怖に近い一種の感謝の混じった驚異)の念に満たされている。数学者たちは神秘家になりつつある。何かが恐ろしくうまくいくようになったのである。

 

『世界思想』No.380(2007年8月号)

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