ダーウィニズム150年の偽装
唯物論文化の崩壊と進行するID(インテリジェント・デザイン)科学革命

渡辺 久義/原田 正・著  アートヴィレッジ


 目次

第一部 呪縛を破って動き出した真の文化大革命 
 序 章 科学と文化にいま何が起こっているのか
 第一章 ダーウィン進化論とはそもそも何であったのか
     自ら作り出し自らに強いる無神論宗教
     唯物論支配体制を支えるダーウィニズム
     「浅はかな」唯物論科学者
     「新しい宗教」による世界制覇計画
 第二章 唯物論科学の何が問題なのか
     科学不信を自ら招く科学
     哲学的自覚のない科学は真の科学ではない
     「穴埋めの神(God of the Gaps)」?
     相容れぬ二つの宇宙観、宇宙は創られたものか否か
     デザインか、デザインに見えるだけか?
     二つの科学的態度とその本質、傲慢と謙虚
     そもそも何が科学を可能にしているのか?
 第三章 今日の諸悪の根源としてのダーウィニズム 
     謎解きを迫るダーウィニズム
     人種差別の「科学的」根拠
     今日の唯物論文化体制を支えるダーウィン=ヘッケル
     人間による人間改造・抹殺を正当化する「科学」
     ダーウィン、マルクス、フロイトに共通の闘争と排除の思想
     暴力、破壊、絶望、異常感覚、復讐の快感
 第四章 生命起源についての根源的な問い
     生命とは何かを問わない生物学
     生命を生命として捉える常識に戻れ
     生命の場としての宇宙、目的論の復権
     唯一性と価値――生命は科学でなく哲学の課題
     現在我々が持つ最高の仮説としての「統一思想」
     生命起源の問題に答える「統一思想」
     科学的発見がなぜ可能なのかに答える「統一認識論」
     民族的資質――デザイン革命と日本人

第二部 新しい科学のパラダイムとしてのインテリジェント・デザインID
 第一章 「専制体制」の足元を揺るがすID理論
     一五年余りで全米を巻き込む論争に発展 
     一方的にID批判をする科学誌記事への疑問
     科学者たちの憤りが時代のうねりに
     ID運動の出発点、パハロ・デューンズ会合
 第二章 ダーウィン進化論とビーヒーの理論
     『種の起源』のポイントはたった二つ
     進化論で説明できないカンブリア爆発
     DNAの情報はどこから来たのか
     限界が露わになった分子系統学
     今も教科書が載せている「ニセモノの胚の図」
     細胞はナノマシーンだらけの工場
     “マウストラップ理論”
     日常の思考法の延長にある「デザイン」
     反論するダーウィニストの「未熟」
 第三章 デムスキーのデザイン検出法と生命史
     デザインの痕跡「特定された複雑性」
      情報が急増したカンブリア爆発
      胚発生に必要な大量の情報
      打ち砕かれた遺伝子オンリーの学説
      目的を持った情報の選択を示す証拠
     タンパク質はデザインの産物
     「最初の生命」でさえ大量の情報が必要
     具体的な説明欠く自己組織化説
     多くの哺乳類や花も“爆発的”に出現
     情報急増を繰り返し人間に至った生命史
 第四章 衰退に向かうダーウィン専制体制
     「ジャンクDNA」これまたウソだった
     宇宙に関する証拠も強くデザインの存在を示唆
     若い層がIDに関心をもち始めた米国
     米国の大論争からほぼ“隔絶”されている日本


序章 科学と文化にいま何が起こっているのか

 私たちのこの本は、多くの人々を驚かせ目を覚まさせるに違いないが、またある種の人々を間違いなく不快にさせるであろう。そのある種の人々が、日本人あるいは世界の人々の多数派であるかもしれない。しかしこれは文化の転換期には避けられないことである。私たち著者の認識するところでは、いま本当の意味での文化大革命が世界規模で進行中である。まずこの事実を知っていただきたい。これは錯覚や思い過ごしなどではない。その規模が大きければ大きいほど、そこに苦痛が伴うのは避けられない。これに激しく抗う人々がいるのも当然であろう。しかし我々は世界史的な情勢判断を誤ってはならない。

 もちろん今起こっているような反唯物論・脱唯物論の動きは、これまでも常に存在し、二十世紀の最も唯物論の優勢だった時期にもあった。しかしこれがいわば組織的な運動として、アメリカの主として科学者の間から理論武装をして起こってきたのは、ここ十数年来のことである。これが「インテリジェント・デザイン」(ID)と呼ばれる理論かつ運動であるが、本書の目的はこれを手短に解説することと、これをきっかけとして起こってきたこと、見えてきたものから、いったい我々はどういう時代に生きているのかを、あらためて考えてみることである。

 これはまさに「文化」大革命であって、科学の問題にとどまらない意識改革運動である。ID運動は、いわば長年のルサンチマン(鬱積した恨み)を晴らすようにして起こってきた。どうしてこういう唯物論という明らかにいびつな哲学が、学問の世界と一般 社会を支配してきたのだろうか? どうして後に述べるように、誰の目にも明らかな欺瞞や間違いが、唯物論に寄与する限り誰からも指弾されることなく、これほど長く放置されてきたのだろうか? これは大きなミステリーでなければならない。本書の目的の一つは、このミステリーの解明の試みである。

 義憤という言葉がある。私たちは義人を気取るつもりはない。しかしまさに義憤によって立ち上がり、『追放――インテリジェンスは許されない』(Expelled: No Intelligence Allowed)というドキュメンタリー映画を作って、学問・思想の自由の危機を訴えたベン・スタインと、私たちは立場を同じくする。本書で、私たちはかなり激しく我々自身の文化を糾弾することになるが、これはもちろん私たちが部外者であるからではない。この文化が本当のところどういうものであるのか、これまでよくわからなかったのである。しかし、それをわからせるような現象(革命運動、出版物、学界を中心とする社会的恐慌など)がここ数年の間に集中して起こってきたのである。私たちは新しく真理を学習することになった。本書での糾弾が時に激しさを帯びるとすれば、それは著者を対象外とするものではない。本書を読む多くの読者も、間違いなく同じ思いをされ、同じ「学習」をされるであろう。

 例えば、反IDの闘士として名高いNCSE(全米科学教育センター)所長のユージェニー・スコット(Eugenie Scott)女史は、ダーウィニズムに疑問を表明しただけで職を追われることさえある現在の学問体制をどう思うかと尋ねられ、「会社員だって会社の方針に従わなければクビになります、当たり前でしょう」と言った。そうか、それは知らなかった、と多くの人は――当該学者を含めて――驚くであろう。また、あるノーベル賞候補の生物学者は「ダーウィン? それは党の路線(party line)だよ」と言ったという(4)。こうしたことから我々はいかに多くを「学習」することか。

 二〇〇三年に『世界思想』という月刊誌に私(渡辺)がIDを紹介する記事を連載し始めて以来六年の間に、多くのことが起こり、私のエッセイは思いがけず、ニュース報道と解説をも兼ねるような形になった。IDの功績は、一つの新しい科学的パラダイムを提案したことだけではない。その付随現象として、今まではっきりとは見えなかった、むしろ誰もあえてはっきりさせようとしなかったこと、すなわち有神論的パラダイムと無神論的パラダイムの対峙の構造が、明瞭に浮かび上がってきたことである。これは現体制の唯物論科学そのものの生み出す成果 が、有神論科学に有利な証拠を次々に提供していることにもよる。唯物論科学陣営の頼みの綱でもあったイギリスの哲学者アントニー・フルー(Antony Flew)が、最近の科学の成果からもはや唯物論者でいることはできなくなった、「証拠の導くところへはどこへでも行かなくてはならない」と言って、ID派への転向宣言をしたのもその一つの現れである。

 まず明らかになったのは、我々の唯物論文化体制を支えている、必ずしも意識にのぼることのないダーウィン進化論というものが、いかに恐ろしいものであったかということである。それがいかに科学の名において真理と自由を抑圧する装置であったかということ、いかに人は、自分が心を支配されていることに気付かないかということ、いかに学者の世界というものが、一般 の予想と信頼を裏切って、ヤクザの世界に近いものであるかということ、等々を我々は学ぶことになった。「あの連中はイギリスからきたフーリガンですか?――いいえ、ダーウィニストですよ」――という辛辣な小噺がID派の生物学者ジョナサン・ウエルズ(Jonathan Wells)の本に出てくるが、これは皮肉というより写実である(5)。

 このウエルズ氏の属するID運動の総本山というべきシアトルに本拠をおく「ディスカヴァリー研究所」では、このような現状に対処する一つの便法として、「科学的立場からのダーウィン進化論への異議」と称する短い共同声明文を立案し、署名者を募っている。後述するように、これはいくら筋道立てて説明しても受け付けない体制派に向かって、科学者ならせめてこれだけは認めるべきだという、合意のボトムラインを提示したものである。

 それは次のような簡潔な文言からなる――「われわれは、ランダムな変異と自然選択によって、生命の複雑さを説明することができるという主張を疑問とする。ダーウィン理論の証拠を注意深く吟味してみることが要求される」。

 現在、署名者(学位をもつ科学者に限る)は、数名の日本人を含めて七百人を超えているようである(www.dissentfromdarwin.org 参照)。初めからダーウィン進化論など信じない人は、何を今さらと驚くような内容だが、このような声明文に合意の署名を求めなければならないような事情が、厳然として存在するという事実の方が重要である。このような手段に訴えなければならないのは、「公共テレビの番組や、教育指針の文言や、科学教科書」がこぞって次のような虚偽の主張をしているからだという――「@知られているすべての証拠が、生物の複雑性についてのダーウィンの説明を裏書している。A世界のほとんどすべての科学者がダーウィニズムを真理と考えている」。

 FAQ(よくある質問)の「このような声明がなぜ必要なのですか?」という質問に対しては、「近年、一部のダーウィン理論支持者が、ネオ・ダーウィニズムを科学的に批判する者の存在を否定し、ネオ・ダーウィニズムを是としまた非とする科学的証拠に関する公開討論をやめさせようと、結託して運動している」からで、そこから生ずる「一般 の思い込みを是正するため」だと答えている。

 また、「この声明文に署名することによって、署名者は、自己組織化とか、構造主義とか、インテリジェント・デザインといった代替理論を支持することになるのではありませんか?」という質問には、はっきり「いいえ、そういうことはありません」と答え、この文言以上をも以下をも意味するものではないと言っている。さらに「これに署名することは政治的な意味をもちませんか?」という質問には、「いいえ」と明確に答えている。それほどに気を使わなければならないということは、いかに体制派の検閲と弾圧が恐いかを示すものである。

 これほどまでにボトムラインを下げても――これはあたかも、せめて地動説には合意してくれと言っているようなものである――なお恐くて署名を躊躇する科学者は相当数いるものと推測される。これが我々の唯物論科学体制の実体である。これは旧ソ連体制や中世の教会権力体制と何の変わりもない。

 こうした最低限の合意を確認したくなる場面 は、実は我々の社会にいくらでも存在する。そしてそのすべてがダーウィニズムに関係する。例えば、性教育に関して、「我々は性教育が性の肉体的(物的)側面 だけに限られるべきだという主張を疑問とする。性行動の〈自己決定〉という原理も批判されなければならない」といった声明への合意が必要ではないのか。また、「命の大切さを教えるさい、宗教次元には一切踏み込んではならないという主張を疑問とする」という共同声明もぜひ必要ではないのか。更に言えば、「ジェンダー・フリー」という過激な主張があるが、その背景にあるのは、「男女の別 などというものは進化の途上で偶然に発生したものにすぎない、そんな偶然的なものを行動の根拠とするのはおかしいではないか」ということに違いない。彼らがそうとはっきり言わないとすれば、それがあまりにも「当然」のことだからであろう。本当にそうなのか? 学習の機会がここにもある。

 我々の唯物論科学体制の中では、性も生命も、ダーウィン的に物的に考え教えなければならない。たまに「心の教育」などと言う人がいても、それは取って付けたもののように扱われるだけであり、唯物論科学の威光の前には影も薄れ、やがて消えてしまう。かつて我々には、左翼に気兼ねをしなければ物が言えないという情けない時代があったように、今は唯物論科学者――それは自分自身の内部にも住んでいる――の顔色をうかがってでなければ、物も言えず行動もできない。あれは社会科学であったが、これは自然科学であり、反論の余地のないものとしてこの世界の根底をなしている以上、受け入れざるをえないものだ――。本当にそうなのか?

 後に説明するように、我々は徹底的にダーウィン進化論教育を受けているために、ほとんど気づくことはないが、この思想あるいはイデオロギーは、今日のすべての唯物論(無神論)思想と科学を支える無意識の土台となっている。今日これほどに根源的で由々しい問題はない。それは我々の生き方を真っ二つに分けるだろう。それが科学的真理であるか否かは、我々が魂を売るか売らないか、人間として生きるか人間以下として生きるか、という問題に直結するからである。

 それはほとんど意識にのぼることがないので気づかないが、これほど大きな影響を及ぼしている思想はない。「心の教育」問題を一つ取ってみればよい。教育と言えば、まず心の教育(次に知識教育)であるにもかかわらず、新機軸を打ち出すかのように、そんなことを言い出さねばならないということ自体が異常ではないか。しかもそれに人々が気づいても、それを実践するのはせいぜい小さなグループや個人だけで、社会に根付かないではないか。これは特定の誰かが悪いのではない。我々の唯物論文化という目に見えないもの、我々自身に染み付いた体質がそうさせているのである。

 ではそのダーウィン進化論というもの、一世紀以上にもわたって「公共テレビの番組、教育指針の文言、教科書」、更に付け加えれば子供の絵本など、あらゆる手段を用いて、我々が信ずるように洗脳されてきたもの、学問的には唯一公認の学説で批判の許されないこのものが、実のところ何であったのかを検証することから始めよう。


第一章 ダーウィン進化論とはそもそも何であったのか

自ら作り出し自らに強いる無神論宗教

 ダーウィン進化論――学問の世界でこれほど非現実的な、それでいてこれほど広く、これほど徹底的に強く根を張っている学説はないだろう。しかしそんなふうに言えば、多くの人々は学者も一般 人も含めて、これほど学問の世界にも一般社会にもしっかり根付いているものが、間違っているとは考えられないと言うであろう。そこで、体制派であるはずの米国科学アカデミー会員のフィリップ・スケル(Philip Skell)が、二〇〇五年八月二九日の『サイエンティスト』誌で言っていることに耳を傾けてみたい――

ダーウィン進化論にどんな美徳があるにせよ、実験生物学において実りある発見的枠組みを提供することはない。このことは、原子モデルのような発見につながる枠組み(heuristic framework)とこれを比較してみれば明らかである。原子モデルは構造化学に光を与え、多くの現実に役立つ新しい分子の合成の進歩につながるものである。これによってダーウィニズムが虚偽だと証明はできない。ただそれは、これこそが現代の実験生物学の礎石だという主張が、理論が現に手ごたえのある発見の礎石となっている他の分野の、ますます多くの科学者から、静かな懐疑をもって迎えられるだろうことを意味する。

 「これこそが現代の実験生物学の礎石だという主張」とは、有名なドブジャンスキーの「生物学は進化論に照らしてみなければ何一つ意味をなさない」という言葉を指すと思われるが、ここには学者らしい公平な見方が述べられていると言ってよいだろう。

 しかしダーウィン進化論には、狂気じみた異常さが常につきまとっている。しかも一五〇年の歴史を通 じてそうなのである。そこには何か理由がなければならない。何の理由もなしにこういったことが起こるはずがない、ということをまず認識しておかなければならない。

 その異常さを端的に示すのが、主としてアメリカで起こっているダーウィニズム批判者に対する露骨きわまる弾圧と迫害である。それは(ネオ)ダーウィニズムを疑ったり、代案としての「インテリジェント・デザイン」に共鳴するような素振りを見せただけで、大学をクビになったり、テニュア(終身在職権)を拒否されたり、ブラックリストに載せられて再就職を阻まれる、といった数多くの言語道断の出来事である。このことを細かく述べたいのだが、はっきり言って心が萎える。一番よいのは昨年(二〇〇八)四月に封切られ、現在そのDVDが発売されているExpelled: No Intelligence Allowed(追放――インテリジェンスは許されない)という映画を見ていただくことである(ただしこれを書いている時点で日本語版はまだない)。このようなありさまを知った、ベン・スタイン(Ben Stein)というアメリカではよく知られた、評論家、テレビ番組の司会者、かつて二人の大統領のスピーチライターもやり、喜劇俳優でもある異色の人物が、文字通 り憤然として立ち上がった。そしてID派をはじめとするダーウィニズムに批判的な学者やジャーナリストと、ダーウィニスト・無神論科学者の両方をインタビューして廻る旅に出る。そして両方の主張を公平に聞きながら、自由の国であるはずのアメリカにおける、弾圧・迫害の実情と学問・思想の自由の危機を克明に描き、この状況に対して立ち上がれと訴える。内容は深刻であるが、喜劇仕立ての、よくできたドキュメンタリー映画なので、興行的にも大成功だったようである。

 この映画でおそらく最も長くインタビューを受けているID派の人物は、フランス在住の数学者デイヴィド・ベアリンスキー(David Berlinski)だが、彼は別のところで、ダーウィニズムというものの異常な始末の悪さを、現代社会の「巨大な白象」にたとえている。「ホワイト・エレファント」とは神聖な象で、王様が憎い臣下を困らせるためにこれを下賜したことから、畏れ多い持て余し物を指すことになった。学者も一般 大衆も、この白象をありがたく押し頂き、頂いた上は丁重に飼育しなければならない。そうしないと学者は出世の道を絶たれ、一般 人は非科学的だと笑われることになる。そのようにして象は死なずにいる。

 この映画に登場する学者で、最も不当かつ深刻な被害を受けたと思われるのは、『特権的惑星』(The Privileged Planet)という画期的な本(後に説明する)を書いた天文学者ギエルモ・ゴンザレス(Guillermo Gonzalez)だが、彼は他の学者からの引用件数の格段に多い優秀な学者だったが、この本の内容がIDを支持するものだというので、テニュアを拒否され大学を追い出された。そのゴンザレスが苦笑しながら、「インテリジェント・デザインという言葉は大学ではファイティング・ワード(喧嘩を売る言葉)ですよ」と言う。するととたんに画面 が西部劇のガンマンの決闘場面に変わり、一方が相手を一発でズドンと倒し、倒れた相手を見下しながら言う――「クリエーショニスト創造論者め」。 

 滑稽な場面の一つである。だがなぜ殺すのか? もしID派が話にならない反科学的な理論を持ち出す連中だというなら、自然に滅びるのだから、ほっておけばよいではないか。しかもID派は、旧来の理論を押しのけてIDだけを認めよ、などと言ったことは一度もない。「議論のテーブルに乗せて」ほしいと言っているだけである。この思想差別 主義者たちはダーウィン信者だが、ダーウィン自身は『種の起源』でこう言っているのである――「公平な結果 は、一つの問題の両側面の事実と主張を十分に述べあい、天秤にかけてみて初めて得られるものである(1)」

 常識的に考えて、こうしたやり方は、結局は自分たちの不利になるだけではないかと思えるのだが、彼らはそうは考えないらしい。ネットワークを作ってこの新しいパラダイムを芽のうちに摘んでおけば、安泰だと考えているようである。なぜだろうか? 単なる学界における権力や権益(研究助成金など)の独占のためというだけでは説明できない。何かよほど大きなものがそこに賭けられているとしか考えようがない。ダーウィニストは何をそれほどに恐れるのだろうか? おそらく彼らが意識的・無意識的に恐れているのは、ここを譲れば、単なる生物学の問題を超えた、唯物論科学そのものの支配構造が崩壊するということである。そして彼らは正しい。渦中にある者が歴史家の立場には立てない。しかし歴史的大転換の契機がこの理論に集約されているのである。あたかも堤防の小さな穴を自分の上着でふさぎ、一晩中必死に浸入する水を食い止めたオランダの少年のように、彼らは小さなほころびからきっと起こるであろう大洪水を食い止めようとしているのであろう。

 この映画に最初に登場する学者は、米スミソニアン博物館の生物学者だったリチャード・スターンバーグ(Richard Sternberg)だが、彼はIDの中心人物の一人であるスティーヴン・マイヤー(Stephen Meyer)の査読済みの論文を、この博物館の学術雑誌に掲載したというので、同僚から陰湿ないやがらせを受け、追い出された人物である。(よほど過激な内容の論文なのだろうと思う人は、前記ディスカヴァリー研究所(Discovery Institute)のHPから簡単にダウンロードできるので、読んでご覧になるとよい。)このスターンバーグが最初に、「私は知的テロリストとみなされました」と言っている。なるほど、一つの文化体制、無神論科学体制の安泰を脅かす者はテロリストであろう。そこで、テロにはテロをもって応ずるという論理になるのであろう。

 こういった状況を理解するのに役立つ絶好の文学作品がある。それはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中の有名な挿話「大審問官」で、現在も進行中の体制側によるIDへの弾圧・迫害と、次兄イヴァンの語るこの物語の間には、驚くほどの類似性があることを指摘しておきたい。

 異端審問の荒れ狂った中世のスペインに、突如よみがえったキリストが現れ、民衆に向かって往時と同じ説教を始める。教会の最高権力者である大審問官が、すぐにこれを捕らえ牢に閉じ込める。深夜、牢を訪ねた大審問官は終始無言のイエスに向かって、あらましこういう主旨のことを言う――「いったい、なんでお前は我々の邪魔をしにきたのだ? お前の説く真理とやらに何の価値がある。お前は民衆を戒律から解放して、心の自由による信仰を与えてやったつもりかもしれないが、そんな高級な自由に耐えられる高級な人間が、この世界にいったいどれくらいいると思うのだ? この世の大多数を占めるいくじなしで怠惰な人間どもは、自分で考えなければならないそんな自由をありがたいとは思わず、返上したがっているのだ。そこで我々教会権力がその重荷の自由を取り上げ、肩代わりしてやり、その代わり我々には絶対服従をするように、服従さえすればパンだけは保証してやる、と言ってやったところ、民衆は喜んで自由を差し出し、感謝して我々に付き従い、世の中は平穏に治まっているのだ。それを今更、何の権利があってお前は我々の邪魔をしに来た? 明日はお前を火あぶりにしてやる。」

 あまり解説はいらないだろう。――この自然界は神秘に満ちていて物理法則だけでは解けそうもない。しかし解けないと言えば唯物論信仰の名折れとなる。そこで我々は「いくじなしで怠惰な」人間どもが自分で考えなくてもいいように、誰にもわかるダーウィニズムという単純な物的原理を考案して民衆に与え、誰もこれに疑問をもたないように徹底的にこれによって教育し、これに従ってさえいれば地位 もパンも保証してやる、と言ってやったところ、彼らはそれを喜んで受け入れ、そのおかげで学界も社会も無事平穏に治まっている。それを今更IDなどという愚にもつかぬ ものを持ち出して、何でこの平和を乱すのだ。お前らを生かしておくわけにはいかない――。

 大審問官のひとりぜりふの中にドキリとさせるくだりがある――「我々はとっくに神などは見限っているわ。言ってやろうか、我々の仕えているのは実は彼だ」。「彼」とはむろんサタンである。これは恐ろしい場面 だが、無神論者には神もサタンもないのだから、こう言われても一向にこたえないだろう。ここがダーウィニズムの本質を、この物語から読み取る最大のポイントである。ドストエフスキーは、我々のこの時代を予見していたかのようである。

(以下 省略)


あとがき

 本書は一応、第一部を主に哲学的立場から渡辺が、第二部を主に科学的立場から原田が執筆したものだが、ここに提起された問題に対する私たち著者の基本姿勢は全く変わらず、全体が共同執筆と言ってもよいものであることを断っておきたい。いくつか重複する記述もあるが、あえてそのままにしておいた。

 一部、二部は展開の順序でなく、並列的なものだから、どちらから読み始めていただいてもよい。IDとはそもそも何かを知りたい読者、あるいはIDをめぐる科学者間の論争で何が論点になっているのか、またこれに関連して最近どんな事実がわかってきたか――例えば「ジャンクDNA」がジャンク(がらくた)でなかったというような話題――に関心を持つ読者は、第二部から先に読まれてもよいかと思う。

 しかし本書の主眼は、あくまで我々の唯物論文化体制をいかに克服するかという問題であって、単に科学の専門的知識の問題でもなく、IDの紹介にあるのでもない。IDはこの問題を考えるきっかけとなった、またこの問題に組み込まれた、きわめて重要な歴史的運動だということである。

 我々の唯物論文化体制の特徴は、まず何より本書で展開したような議論を禁ずるということである。ある領域に入るのを禁じられ、それがいわば世界的な良識、学者的「躾のよさ」にさえなってしまったとすれば、私たち著者の言うようなことは途方もない非常識ということになる。つい今しがた見た体制派ダーウィニストのブログにも、「科学者や教育ある人々」(scientists and the well-educated)は誰もダーウィン批判などしないものだ、と「良識」に訴える言い方をしているのは興味深い。

 どうしてこういう「良識」が出来上がったのか、そのからくりを解くという面 白さも本書は備えていると自負している。これは自己宣伝だが、その点で本書は『ダ・ヴィンチ・コード』などより面 白いと著者は考えている。あれはフィクションだが、これは実話であり、我々自身が巻き込まれているだけに、面 白いでは済まされず空恐ろしくなるはずである。

 しかしこれを書いている現在、この「良識」はアメリカの各州で、次々と破られつつある。アメリカでは州ごとに独自の教育基準を定めているが、現在テキサス州をはじめ、ミネソタ、ニューメキシコ、ペンシルヴェニア、ミズーリ、サウスカロライナ、アラバマの各州で、理科教育基準を大きく改正し、ダーウィン進化論の教える一般 常識となっている個々の問題(進化のメカニズムとしての自然選択、化石記録、化学進化など)が本当かどうか確かめるという科学的態度を、学生生徒に要求することになったのである。フロリダ州も検討中であるらしい。形は違うが、高校などの公教育での「教育・学習の自由」を法制化したルイジアナ州、ミシシッピ州などもある。テキサスなどは教科書の販路として最大級の州だから、やがてアメリカ全土に波及するだろうと言われている。

 私たちのこの本に対する非難攻撃はだいたい予想ができる。非難攻撃の材料を提供しているようなものだからである。もちろん多数の支持者のあることも予想できるが、支持者であっても有形無形の難を恐れてそれを口外しない(できない)という事情のあることは、アメリカの例から私たちは嫌というほど知っている。私たち著者の願いは、人のうわさによって判断するのでなく、とにかく読んでみてほしいということである。きちんと読んだ上でのご批判は承るが(それには個人的にでもお答えする)、読まないで批判だけするというのは、どう考えても感心したことでなく、やめていただきたいと思う。それを煽るような情報が出回るかもしれないので、先手を打って言っておきたい。匿名の「書き込み」は自由だが、匿名であるほどそれは「民度」を反映する。

 この本で述べたようなことは、誰かがいつかは言わなければならないことで、私たちはいわば憎まれ役を買って出たようなものである。序文に述べたように、私たちの目的は世直しということである。叩かれるのが怖くて世直し運動はできない。かつて江藤淳がある本を評して、「愛して頂戴」という歌が聞こえてくるようだ、と言ったことがある。世直しというのは一般 に、世の中に「剣を投げ込む」(マタイ一〇‐三四)ことであって、愛していただくために本を書くというのは、自尊心からいっても私たちの態度から遠く外れたものである。

 世の中がこれでいいと思っている人はほとんどいないはずである。何かを根本的に正そうとすれば、提言する者にも聞く方にも、苦痛が要求されるのは当然ではなかろうか。あるいは、私たちの提言は根本的に間違っている、これは却って世の中を悪くする方向だと、心底から考える人があるかもしれない。それならそれで、しっかりした根拠のある論陣を張っていただきたい。私たちは真剣な反論にはいくらでも応じ、ご質問や疑念にはいくらでもお答えするつもりである。少なくとも真剣な議論なしに、世界がよくなることは期待できないからである。

二〇〇九年五月八日


創造デザイン学会