限度知らずのメディアの偏見
Bruce Chapman
Discovery Institute
September 15, 2005
これまで噂でしかなかったことが、いよいよColumbia Journalism Reviewの記事として公開され、進化の問題については報道を規制すべきだと彼らは堂々と提言している。CJR
9/10月号に"Undoing Darwin"(ダーウィンの抹殺)を書いた Chris
Mooneyと Matthew C. Nisbet は、よくぞ言ってくれたものだ。
ここには、科学問題の報道にメディアがひねりをかけることを、また署名記事や読者の手紙欄に対しては見解差別をすることを保証しようではないかという、包み隠さぬ臆面もない提言がなされている。ムーニーとニスベットは、ダーウィニズム批判者やインテリジェント・デザイン唱導者を、原則として沈黙させるべきだと言っている。こういう策略が各紙の編集者に提案されていることは、ここ数ヶ月、目や耳にしていたが、いよいよこれが記事となったわけである。
二人の筆者によれば、その道の権威者に依存せざるをえない科学の議論、たとえば安楽死や胚性幹細胞研究の問題、特に進化のような問題が出てきたときには、それで決定済みものとみなすべきだと言う。主流の科学者組織によって支持されない異見をもつ科学者や一般市民には、彼らの見解を正確に公表する機会を与えるべきではないと言う。そして絶対に、彼らの考えを自分ではっきり述べさせたり、自分の言葉で自分を弁護させたりする必要はないと言う。
もし記者が進化についての論争を報道しなければならないときには、これを科学の論争として扱うのは「不適切」である。異説を唱える者の側に、宗教的・政治的動機があったことにしなければならない。異説者が科学的根拠に基づいてはっきり間違っていると読者に納得させるのは、全く「適切」なことだ――と、そういう論旨である。客観的なニュース報道とされるもので抑圧効果のあったよい例として、ムーニーとニスベットは、「ニューヨーク・タイムズ」のCornelia
Dean、「アトランタ・コンスティテューション」のCynthia Tuckerに敬意を表明している。「アトランタ・コンスティテューション」はまた、ダーウィニズムに異議を唱える署名記事を断ったこと、そしておそらく同趣旨の読者の手紙を差し止めたことで、お褒めにあずかっている。(ディーンやタッカーの偏見を見せしめにした筆者たちの正直さは買うべきである、たとえ褒めたのであったにしても。)
Center for Popular Culture (www.cspc.org) のDavid
Horowitzは、これとは別の問題で、大学キャンパス内での学問の自由を窒息させる試みをしている。そういう傷つきやすい論争の場で、「言論基準」や他の共産主義的統制の道具が、異説を違反として前もって締め出すのに用いられている。ムーニーやニスベットが望んでいる、そしてCJRが認可しているらしいものも、同じようなメディアによる規制基準の採用である。
彼らはこう書いている――「ジャーナリストは、例えば中絶や同性結婚のような他の社会的な論争問題と違って、進化論争はただ単に主観的道徳とか政治的意見の問題ではないことを考慮すべきであろう。これに関してはむしろ、科学者共同体によって、進化の科学についての明確な基準が設定されていて、競合する主張を評定するのに容易にこれを用いることができるのである。National
Academy of Sciencesとか American Association for the
Advancement of Science(AAAS、米科学振興協会)のような科学者の学会は、進化が現代生物学の基盤であるという確固とした立場を取ってきたのだ。そのような状況にあって、ありもしない科学論争の炎を煽り立てる手助けをしたり(また現実に知られているものをそうでないと言ったり)するようなジャーナリズムの報道は、全く適正を欠くものである。」
ムーニーとニスべットは更につづけて、ジャーナリストは次のような疑点を調べてみることによって問題の「文脈をはっきりさせる」(contextualize)べきであると言う。「第一に、IDは宗教的に動機づけられたものではないか? それは宗教的内容を表してはいないか? 言い換えれば、もしそれが公立学校で教えられるとしたら、政教分離の原則に違反することにはならないか? 第二に、IDは科学理論の基準に合うものであるか? それを支持する強力な論文審査の証拠があるか?」
ここに言われているような条件を「調査してみる」ならば、彼らの言うことが虚偽の事実に基づいていることが分かる。例えば、Discovery
Institute のJohn West博士は、AAASの実行委員会が数年前、IDを排斥する決議をしたときのプロセスを調査したことがある。簡単に言うと、数人の委員はインテリジェント・デザインについて自分で読むことも調べることもしないで、この理論を弾劾する決定をしたことを実質的に認めたというのである。実に彼らは、彼らが読んだというID提唱者たちの書いたものを、ただの一点も挙げることができなかったという("Intelligent
design is based on science, not religion," Dallas
Morning News, September 4, 2005参照)。
多忙な組織の委員会に属していて、その下部組織が、風向きがよいときに利益のからむ議案を上程しようと狙うことがあるのを経験したことのある人なら、こういった決定がいかにいい加減なものに流れやすいかをよく知っている。それは地域のクラブから同業者団体、教会の信徒集会、そして残念なことに専門の科学者組織にいたるまで、あらゆる公共機関の陥りやすい弊害である。しかしムーニーとニスベットは、AAAS実行委員会のような団体の背中にローマ元老院の衣を着せて、公的な論争において、何が科学的に「適切」で何がそうでないかを決定する、恣意的で気まぐれな権力を与えたがっている。そして他の者はそれに従え、「オズ大王の言葉であるぞ」と言いたいのである。
ジョン・ウェスト(と最近のDiscovery Institute ウェブサイト上のいくつかの論文、"The
Darwinian Declension"や、Jay Richardsによる"Intelligent
Design is Falsifiable"など)は、ムーニーとニスベットの、宗教と科学についてのでたらめの主張について十分に回答している。
ムーニーとニスベットは、科学だけでなくジャーナリズムをも堕落させようと分裂を図る知的策謀家である。不幸なことに、今述べたような事実にもかかわらず、ムーニーとニスベットによるこういった示唆の効果が、すでに主流メディアに見られる。彼らの言葉そのものを取り込んでいる記事さえ現れている。これは科学的、政治的、宗教的見解のいかんにかかわらず、自由の味方にとって警戒すべき事態である。これは1960年代に、理性と節度ある話し合いの代わりに暴力と人心操作を試みようとして、(昔のスターリン左派の戦略を借りて)ヘルベルト・マルクーゼやその一派が拡散させた、自分しか見えない、自己正当化の偏狭な哲学から発するものである。
ダーウィニズム批判者やデザイン提唱者は、いつでも喜んで科学的根拠の議論に応ずるであろう。ダーウィニストたちがその批判者と渡り合うかわりに彼らを黙らせようとすること自体、確実な知的脆弱さのしるしである。それはまた真の科学を侮辱するものであり、さらに言えば、真のジャーナリズムを侮辱するものである。
公共の広場において、客観的に「基準はずれ」として退けられるのは、次はどちらであろうか。
(「ディスカヴァリー・インスティテュート」所長のブルース・チャップマンは、合衆国人口調査局長、ウイーンにある国連機関への合衆国大使を歴任した。)
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