Discovery Institute News

ダーウィンと神に下した裁定

David Klinghoffer
The Seattle Times
December 23, 2005

神学的な見解を述べることは、通常は連邦裁判官の仕事とは考えられていない。ところが今週、合衆国地裁の判事ジョン・E・ジョーンズ三世がインテリジェント・デザインに対して最初の連邦裁判所裁定を下したとき、彼の判決文の中心には、チャールズ・ダーウィンによって定式化された進化論は聖書の神と何ら衝突をするものではない、というまぎれもない神学的裁定があった。

彼の法的決定をどう考えるかは全く別 にして、我々は彼の神学をどう考えたらよいのだろうか? 

要するに彼は、生物の授業でダーウィン進化論を悪く言うことは政教分離の原則に違反すると判定したのである。このことがあったのはキッツミラー対ドーヴァー学区裁判、すなわち一つの学区が、進化論に対する代替理論であるインテリジェント・デザイン(ID)を教えてもよいかという問題をめぐる裁判でのことである。IDは、デザイナーの働きの明瞭なしるしが自然界の証拠に見られるとするものである。

ジョーンズの見解にはこうある――「主導的なID論者の多くは、全く間違った不動の前提の上に立っている。彼らの前提は、進化論は至高の存在への信仰や宗教一般 と矛盾対立するというものである。繰り返しこの裁判で、原告の科学者たちは、進化論は決して神なる創造主の存在と衝突するものでもなければ、これを否定するものでもないことを証言した。

実のところは、このジョーンズの考えは間違っている。ダーウィニズムはまさに「至高の存在への信仰や宗教一般 と矛盾対立するもの」である。これには三つの理由があるが、このことを把握するのに神学の知識は必要がない。

第一に、主導的なダーウィニスト自身の宗教に対する見方を考えてみよう。オックスフォードの生物学教授であり、現代の最も著名なダーウィン擁護者であるRichard Dawkinsは、「宗教信仰は世界の最大の悪の一つであり、天然痘のウィルスに似ているがしかしもっと根絶の難しいものである」と言っている。

『ダーウィンの危険思想』(注、題とは裏腹にダーウィン賛美の書)の中で、Tufts UniversityのDaniel Dennettは、保守的なキリスト教徒を非難する理由の一つとして「自然界について間違った情報を子供たちに与えている」と言い、そのような宗教を猛獣にたとえて、「安全のためには、どうしても必要であれば、宗教は檻に閉じ込めなければならない」と言っている。

テキサス大学のノーベル賞受賞者Steven Weinbergは、「個人的には私は、現代科学を教えることは宗教信仰を弱体化することであり、それは良いことだと感じている」と宣言している。

ミネソタ大学の生物学者でダーウィンのブルドッグといわれるP. Z. Myersは、もしタイムマシーンがあれば過去の世界に遡って、信仰の父アブラハムを亡き者にしたいものだと書いている。「私はヒトラーを暗殺するというような小さなことのために、それを使おうとは思わない」のだそうである。

等々である。これらはほんの数例にすぎないが、少なくとも次のように言わなければならないのは疑いの余地がない:――最も有名で最も尊敬を受けているダーウィニストを含めて、ダーウィニストたちのすべてが、ジョーンズ判事の言うような、ダーウィンと神は平和に共存できるという考えを持っているわけではない。

第二に、もっと基本的なことだが、ダーウィニズムと宗教的信仰は正反対の形而上学的前提から始まっている。『種の起源』でのダーウィンの作業的前提は、神は生命の歴史の展開において何の役目をも果 していないというものである。ダーウィンはそれを決して口に出して弁明せず、ただ仮定しているのだが、そういう考えを頭において、自然選択がランダムな変異に働きかけるという彼の理論を詳細に展開しているのである。そもそも、至高の存在が生命進化においてその意志を実現しつつあると考えたのでは、ダーウィン的な研究に取り掛かることすらできないのである。それはいかにして複雑な生命体が生ずるかということの、純粋に唯物論的な説明を求めるものであった。

ダーウィン自身が手紙の中で明らかにしたように、「もしそれが系統のどんな段階ででも、奇跡が加わることを要求するようなものなら、私は自然選択説にびた一文払うつもりはありません。」

宗教はこれに反して、物的現実が存在するすべてだという仮説は取らないのである。

第三そして最後に、このことは、神とダーウィンが両立しうると主張しようとした人々が常に必ず、言葉の意味のあれやこれやを変えなければならなかった事情を説明するであろう。例えば、神はダーウィン的進化という形を通 じて働いてこられたのかもしれないと言う人々は、矛盾した論理に訴えているのである。再び言えば、ダーウィンの理論の目的全体は、生命は神を必要とせずに進化することができたというモデルを発見することにある。完全な形でのダーウィニズムを主張する人は誰でも、定義によって、神を余計な関係のないものとしてきたのである。

ジョーンズ判事が明言した、我々は神もダーウィンもともに抱擁できるのだというありがたい思想は、激しいダーウィニストの何人かが自ら認めているように、とうてい吟味に耐えるものではない。

このことが公的な方針の問題――何を学校で教えたらよいか?――にどうかかわるかは十分に明らかであろう。子供たちが唯物論(ダーウィニズム)を教えられようと、自然を超えるものに対する開かれた態度(ID)を教えられようと、彼らは単に科学だけでなく、生命(人生)と存在そのものについての哲学を教えられることになるのである。

青少年をその一つの世界観に触れさせるのは合憲だが、もう一つの方を教えるのは不法行為であるという考え方は、教育と言えるようなものではない。それは洗脳である。

(デイヴィッド・クリングホファーはJewish Forward紙のコラムニスト、ディスカヴァリー・インスティテュート上級研究員、近著に『なぜユダヤ人はイエスを拒否したか――西洋史の転換点』(Why the Jews Rejected Jesus: The Turning Point in Western History (Doubleday) がある)

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