Discovery Institute News

インテリジェント・デザインとは何か?

Stephen C. Meyer
National Post of Canada
January 5, 2006

2004年12月、ニューメキシコ公営テレビが、インテリジェント・デザインとして知られる生物起源の理論についての科学的な説明をするドキュメンタリーを、計画し、広告し、それから圧力を受けて取り消した。

同じ月に、著名な英国の哲学者Antony Flewが、長年信奉してきた無神論を放棄し、その理由の一つとして、DNA分子におけるインテリジェント・デザインの証拠をあげたことで、世界的なニュースとなった。

同じく12月に、ACLU(米国市民的自由連合)が、ペンシルヴェニア州ドーヴァー学区が生徒にID理論について教えることを禁止するよう求める提訴をした。

2月には、ウォール・ストリート・ジャーナルが、二つの学位 をもつ進化生物学者が、この理論を擁護する査読済みの科学論文を発表したといって処罰されたことを報道した。

もっと最近では、法王やアメリカ大統領やダライ・ラマが、それぞれこの問題に関心を示した。
しかしこのインテリジェント・デザイン理論というのは何なのか? そしてなぜそれがこれほど人を感情的にさせ、明らかにこれを抑えこもうとするこのような決然たる行動に走らせるのか?
最近の多くのメディアの伝えるところでは、IDとは進化論に対抗して新しく現れた信仰に基づく理論で、科学的根拠でなく全面 的に宗教に基づくものだという。

その手の話では、IDとは、宗教的ファンダメンタリスト(聖書を文字通 りに信ずる人々)によって外装を新たにされた創造論にすぎず、公立学校で創造論を教えることを禁じた1987年の最高裁判決をかわすためのものだと言っている。

昨年一年間にわたって、多くの主要なアメリカの新聞、雑誌、放送局が、この同じ粉飾話を繰り返してきた。

しかしそれは正確なのか?

ID理論の構築にかかわった一人として、またこの理論を発展させる科学者たちの仕事を支援する研究センターの所長として、私はそうでないことを知っている。

インテリジェント・デザインのこの現代版は、1987年の創造論者の敗訴に対するものとして現れてきたものではない。そうでなく、それは1970年代後半から1980年代初めにかけて、Charles Thaxton、Walter Bradley、Roger Olson、Dean Kenyonといった科学者グループによって形成されたもので、彼らは現代生物学の永続的な謎、すなわちDNA分子の背骨に沿ってコード化されたディジタル情報の起源を説明しようとしていた。

『生命起源の神秘』(The Mystery of Lifes Origin)という本で、サックストンとその同僚たちは、DNAの情報を帯びた特質は、それに先立つ、しかし特定できないデザインする知性の、強力な証拠を提供するものだという考えを初めて展開したのである。

すでに1960年代、70年代に、物理学者たちはデザイン仮説を再考し始めていた。彼らの多くが、物理学の法則や常数が生命を可能にするために、考えられないほどに「ファイン・チューニングされている」ことに驚きを感じていた。英国の天体物理学者Fred Hoyleが言ったように、宇宙のたくさんの物理的パラメーターのファイン・チュニング(微調整)は、我々のために「ある超知性が物理学をいじった」ことを示唆するものである。

にもかかわらず、陰謀説にはまり込んでいる者だけは、これらの知的展開に、隠された合法的策略、あるいはひそかに宗教を教室に持ち込もうとする試みを、見て取ろうとしたのである。

しかし正確なところ、インテリジェント・デザイン理論とは何なのか?

メディアの報道に反して、IDは宗教に基づく理論ではなく、生命の起源に関する証拠に基づく科学理論――厳密に唯物論的な進化の見方に挑戦する理論である。オックスフォードのリチャード・ドーキンズのようなダーウィン生物学者によれば、生命体は「目的のためにデザインされたかのようにみえる」が、(彼を含めた)現代のダーウィニストたちは、デザインのようにみえるのは実は完全な錯覚だと言うのである。

なぜだろうか? ネオ・ダーウィニストによれば、自然選択やランダムな変異のような完全に方向を持たぬ プロセスが、生命体の内部の複雑な、「デザインされたようにみえる」構造物を創り出す完全な能力をもっている。彼らの考えでは、自然選択が、それ自体インテリジェンスによって導かれることなしに、デザインするインテリジェンスの能力を模倣することができるのである。

対照的にID理論は、生命体や宇宙には、知的原因によって最も納得のいく説明のできる、自らそれを語っているようなものが沢山あると考える。この理論は、時間をかけての変化と定義された進化の概念、あるいは共通 の先祖という観念にすら反対するものではない。しかしそれは、生物学的変化の原因が完全に盲目的・無方向的だというダーウィンの考えには、真っ向から反対する。

生命は、純粋に無方向の物的過程によって生じたのか、それともそれを導くインテリジェンスがある役割を果 したのか、のいずれかである。デザイン理論家は後者を選択し、生き物がデザインされたようにみえるのは現実にデザインされたからだと言う。

しかしなぜ我々はそう言うのか? 自らそれを語るような、どんなインテリジェンスのしるしを、我々は生命体に見るか?

過去25年にわたって、科学者たちは生きた細胞の内部に絶妙なナノテクノロジーの世界を発見してきた。これら微小な迷路のような囲い込みの中に、科学者たちは機能するタービン、極小のポンプ、スライド式締め具、複雑な回路、ロータリー・エンジン、コピー・読み取り・編集をするディジタル情報など、とうていダーウィン時代の人たちが考えた単純な「プラズマの小球」からは程遠いものを発見してきた。

その上、こうした回路や機械の大部分は、多くの別 々の部品の統一調整された機能に依存している。例えば、あるバクテリアの細胞は、100,000rpmものスピードで回転する鞭毛モーターと呼ばれるミニチュアのロータリー・エンジンによって前進することが、科学者たちによって発見されている。これらのエンジンは、ローター、ステーター、Oリング、ブッシング、Uジョイント、それにドライブシャフトからなる多くの明確な(タンパク質の)機械部品を持っていて、どう見ても、マツダ工業のデザインしたもののようにしか見えないのである。

このデザインに見えるものは、そう見えるだけの錯覚にすぎないのだろうか? 自然選択が、ネオ・ダーウィニズム式に一度に少しずつ変化を積み重ねて、こんな「デザインに見えるもの」を創ったのだろうか? 生化学者のマイケル・ビーヒーは「否」と言う。彼は、鞭毛モーターは、30個のタンパク質の部品の統制された機能に依存していることを指摘する。しかしこれらの部品のどの一つが欠けてもモーター機能は完全に失われる。必要なタンパク質部品の一個を(科学者に実験的に可能であるように)取り去ると、ロータリー・モーターは全く働かなくなる。このモーターは、ビーヒーの名づけたように「還元不能の複雑性」をもつのである。

これはダーウィン的機械論にとって困った問題となる。自然選択は機能的に有利なものを保存あるいは「選択」する。もしランダムな変化の結果 一つの有機構造が生き残るなら、それは保存され次世代に引き継がれる。しかし鞭毛モーターは、その30個の部品が組み立てられるまで何の機能ももたない。だから、自然選択がモーターを「選択」あるいは保存するとしたら、それは機能する全体ができてからであって、そもそもの初めにモーターを組み立てるのに何の力も貸すことはできない。

このことは鞭毛モーターのような分子機械の起源が、ダーウィンがことさらデザイン仮説に取って代わるものとして提唱したメカニズム、すなわち「自然選択」によっては、説明ができないことを示している。

それに代わる、よりよい仮説はあるのだろうか? 万人に一様な、繰り返された経験に基づいて、我々は、還元不能の複雑さをもつシステムを創り出す、たった一つの種類の原因を知っている。すなわちインテリジェンス(知的主体)である。実際、我々が還元不能に複雑なシステム――統合調整された回路や内燃機関など――に遭遇するときはいつでも、それがどのようにして生じたかを我々は知っている。常にかならず、デザインする技師が役割を果 しているのである。

こうしてビーヒーは、機能的に統合調整された複雑なシステムを作るのに何が必要かという我々の知識に基づいて、インテリジェント・デザインが最も合理的に細胞の中の分子機械の起源を説明する、と結論したのである。分子機械がデザインされているように見えるのは、実際にデザインされたからである。

ビーヒーのデザイン議論の強みは、一つには、彼を批判する者たちの反応によって判断できる。ほとんど10年もたってから、彼ら批判者たちは、鞭毛モーターがモーターのより単純なサブシステムから生じたのだという、よく分からない「本当の話」をやっと作り上げることができた。それは(他のバクテリアに突き刺す)小さな注射器で、鞭毛モーターの他の部品を表に持たないバクテリアに見られるものである。この説の唱道者にとって気の毒なことに、最近の遺伝子の研究によって、この注射器は鞭毛モーターの後から生じたものであること、もし進化したとしたら、注射器がモーターから進化したのであって、モーターが注射器から進化したのではないことが分かっている。

しかしもっと基本的なデザインの証拠となる議論を考えてみよう。1953年にワトソンとクリックがDNA分子の構造を明らかにしたとき、彼らは驚くべき発見をした。DNAの構造は、4文字のディジタル・コードの形で情報をたくわえることを可能にするものであった。ヌクレオチド塩基と呼ばれる正確に配列された化学物質の紐が、重要なタンパク質分子や、細胞が生きていくのに必要な機械を作るための、組み立て指令(情報)をたくわえたり伝達したりするのである。

フランシス・クリックは後に、この考えを彼の有名な「配列仮説」によって発展させたが、それによれば、DNAの化学的構成要素が、書かれた言語の文字のように、あるいはコンピューター・コードの記号のように機能する。ちょうど英語の文字がその配列の仕方によってある特定のメッセージを伝えるように、一本のDNA分子の背骨に沿った化学塩基の特定の配列が、タンパク質製造のための正確な指令を伝える。化学文字の並べ方が全体としての配列の機能を決める。したがってDNA分子は、コードや言語の特徴である「配列特定性」と同じ属性を持つことになる。リチャード・ドーキンズも認めるように、「遺伝子の機械コードは不気味なほどコンピューターに似ている。」ビル・ゲイツが言ったように、「DNAはコンピューター・プログラムに似ているが、我々の創り出したいかなるソフトウェアより、遥かにはるかに進んでいる。」

1960年代初頭以後、更なる発見がなされて、DNAやRNAのディジタル情報は、複雑な情報処理システム――その複雑さ、デザイン論理、情報蓄積密度において、我々自身のものによく似ていると同時に、それを越える高度な形のナノテクノロジー――のほんの一部にすぎないことが明らかになった。

細胞内のディジタル情報はどこから来たのだろうか? また細胞の複雑な情報処理システムはどのようにして生じたのだろうか? 今日、これらの疑問は生命の起源研究の中心に横たわる。明らかに、細胞の情報的特性は少なくともデザインされたように見える。そして今日まで、いかなる無方向的化学進化論も、最初の生きた細胞をつくるのに必要なディジタル情報の起源を説明していない。なぜだろうか? 細胞の中には、ただあまりにも多くの情報が存在するために、これを偶然だけによって説明することはできないのである。そしてDNA内の情報もまた、化学の法則による説明がとうてい不可能なことが分かってきた。これを否定するのは、新聞の見出しがインクと紙の間の化学的牽引によって生ずるかもしれない、と言うようなものである。明らかに「何か別 のもの」が働いている。

しかしインテリジェント・デザインを唱える科学者たちは、ただ単に、自然のプロセス――偶然、法則、その二つの結合――が、細胞の中の情報や情報処理システムの起源を説明できないという理由だけで、そうしているのではない。そうでなく、彼らがデザインを主張するもう一つの理由は、我々が経験から、こういった特性をもつシステムは常に必ず、知的原因から生ずるものであることを知っているからである。コンピューターのスクリーン上の情報は、ユーザーかプログラマーに遡って説明することができる。新聞紙上の情報は、記者、すなわち厳密に物的な原因でなく、心という原因から来たものである。情報理論の草分けであるHenry Quastlerが言ったように、「情報は常に意識活動から生ずるものである。」

この情報とそれに先立つインテリジェンスの連合は、遠い過去の観察できない根源からのものであっても、知的活動を見分け、推論することを可能にする。考古学者はヒエログリフの文字盤から古代の書記官を推論する。SETI(地球外知性探査計画)のET探査は、宇宙からの電磁波信号に託された情報が、知的生物の存在を示すだろうという想定でやっている。今のところ、電波天文学者たちは、遠い恒星系からの情報を含んだ信号を受け取ってはいない。しかしもっと手近なところで、分子生物学者たちは細胞の中に情報を発見した。そしてこれは――SETIの計画や、他の情報を発する制作物についての通 常の科学的推理を保証する同じ論理によって――DNAの情報にも知的発信源があることを示唆しているのである。

DNAはソフトウェアのプログラムのように機能する。我々は経験からソフトウェアがプログラマーからやってくることを知っている。我々は一般 的に、情報は――それがヒエログリフで刻まれていようが、本に印刷されていようが、電波シグナルによる暗号だろうが――常に知的根源から発することを知っている。したがってDNA分子における情報の発見は、たとえ我々がそこに居合わせてそのシステムが生ずるところを見ていなくとも、DNAの起源において、インテリジェンスが一つの役割を果 したと推理する強力な根拠を提供するのである。

だからメディアの報道とは逆に、インテリジェント・デザインの理論は、無知や宗教に基づくものでなく、最近の科学上の発見や――我々の原因結果 についての一様な経験が、過去に起こったことについて我々の推論を導くような――標準的な科学的推理の方法に基づいているのである。

もちろん多くの人々は、それでも、IDがクリエーショニズムの焼き直しにすぎないとか、「科学の仮面 をかぶった宗教」だとか言って切り捨てようとするだろう。しかしIDは、クリエーショニズムとは違って聖書に基づくものではない。デザインは生物学のデータから推論されるものであって、宗教的権威から導出されるものではない。

とはいえ、ID理論は有神論的信仰に支持を与えるものでありうる。しかしだからと言ってそれがIDを切り捨てる根拠にはならない。これを否定するのは、一つの理論に対する根拠と、そこに含まれる可能な意味合いを混同することである。多くの科学者が最初はビッグバン説を拒否した。それはこの説が、永遠に自存する宇宙という観念に挑むものであり、物質・時間・空間に、超越的原因がなければならないことを指し示すものであったからである。しかし科学者たちが究極的にこの説を、そのような不愉快な意味合いがあったにもかかわらず受け入れたのは、証拠が強力にそれを支持したからである。今日、同じような形而上的な偏見が、インテリジェント・デザインに立ち向かっている。にもかかわらず、これもまた、我々の哲学上の好みや、その可能な宗教的含意についての関心でなく、証拠という根拠に基づいて評価されなければならない。長年にわたって無神論哲学者であったが、デザインの論点を受け入れるようになったアントニー・フルーが、我々は「それがどこへ導こうと証拠には従わなければならない」と言ったのは正しいのである。

最新情報INDEX

 

創造デザイン学会 〒107-0062 東京都港区南青山6-12-3-903