Discovery Institute News

サルをしてサルたらしめよ

Wesley J. Smith
San Francisco Chronicle
June 18, 2006

「わたしはサルだ」と、最近、スペイン類人猿計画の事務総長であるPedro Pozasは宣言した。

いや、ポザスは自分の容姿のことを言っていたのではない。そうでなく、彼は類人猿に人権のような権利を認めるスペインの法制定を煽っていたのだ。

動物は権利の概念を理解することはできない。だとしたら、なぜそのような資格を彼らに与えようとするのか? この法制定の支持者たちは、我々がチンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータンなどに近い遺伝子をもつことを、その正当な理由としている。確かにそれは当たっている。彼らと我々のそれぞれのゲノムのDNA配列は、ほんのわずかしか違わない。しかしこのわずかの違いが大きな違いを作り出しているのである。実際、我々人間と、これら我々の遠い親戚 の類人猿との間には、何千万という計測しうる生物学上の差異がある。だからこそ我々は、はるかに大きな脳の容量 をもち、二本の足で歩き、この地球上の他のあらゆる生物と我々を分ける、我々だけの多くの属性を示すのである。

ところがこういう事実は、このスペインの法制化のほとんどの支持者にとっては問題にならない。彼らの最終目的は、究極的にすべての哺乳動物を人間と同じ道徳的レベルにまで引き上げようとする、広い動物解放計画の実現なのである。

「動物解放運動」の名付け親であるPeter Singerらが推進協力者となって、この計画は、すべての類人猿が「同等者の共同体」の中で、完全な人間の地位 を与えられることを主張する。そこには「生きる権利」「個人の自由の保護」「拷問の禁止」などがうたわれている。

あらゆる動物虐待は明らかに間違いで、福祉法の厳密な適用によって禁止されるべきである。それは、このようなすぐれた動物たちがひどい扱いを受けているときに我々が強く同情する感情を考えれば、特別 の我々の関心事である。しかし彼らの保護の改善を推進するのでなく、類人猿に権利を与えようとするならば、この計画の唱道者たちは人間への大きな危害を発生させるリスクを犯すのである。

一つの例として、言われている拷問を受けない権利を取ってみよう。これはこの計画の拷問の定義を読むまではもっともなことに思える。それは「気まぐれによるものであろうと、他者の利益のためと主張されるものであろうと、同等者の共同体の構成員に激しい苦痛を故意に与えること」と定義されている。明らかにここで意図されているのは、打ったり殴ったりや不服従の処罰を禁止することでなく、個人の自由の権利に訴えて、類人猿が医療研究に用いられるのを禁止することである。

2005年のネイチャー誌に載ったJohn VendeBerg とStuart Zolaによる論文は、このような禁止を普及せることがいかに愚かなことかを論証している。チンパンジーのゲノムが人間のそれに近いこと――この運動の根拠となっている――が、まさにこれらの動物を医療実験のために「貴重な価値をもつもの」にしているのである。

一つの素晴らしい例は、単クローン抗体と呼ばれる革命的なバイオ技術による物質の開発で、これは癌や「ウイルス感染によるほとんどあらゆる病気」といわれる広範囲の人間の疾病を治療する恐るべき可能性をもっている。

この研究にはチンパンジーが絶対に必要だが、その理由は、他の動物と違ってチンパンジーの免疫システムは、これらの遺伝子技術によって作られた抗体を攻撃しないからである。従ってこの実験物質は、長期間チンパンジーの血液の中にとどまって、人間への使用を始める前に、研究者たちがその安全性と効力を十分に確かめることを可能にする。チンパンジーはまた、ある領域の薬品テストにおいても必要である。

しかしおそらく最も説得力のあるのは、人間以外の動物の中で彼らが唯一のHIV-1ウイルスに感染することのできる動物で、しかも今のところ不明の理由で、通 常、発症することがないということである。そこでヴェンデバーグとゾラはこう書く――「チンパンジーは、HIV-1感染を防ぎ、または感染した個人のウイルス量 を減らすことを狙ったワクチンをテストするのに必要である。」

重要な医療研究を助けるものとしてのチンパンジーを失うことは、この計画を拒否する十分な理由であろう。しかし、サルに権利を認めることに対する、実はもっと重要な、いわば隠れた理由がある。この計画の根本的な目的は、人間が特別 な存在であるという信念――人間の命はただ人間であるがゆえに掛け替えのない道徳的価値をもっているという原理――を覆すことにある。動物解放論者は人間が特別 の存在だという考えを、動物差別の迷信だとして忌み嫌う。だから彼らは、サルを「同等者の共同体」の中に組み入れようと提案することによって、人間の命の掛け替えのない重要さという社会的な信念を徐々に腐食させようとするのである。

こうした方向を間違った努力は最も肝心の点を見落としている。すなわち、我々の行動の仕方は、我々が自分をそういうものと信ずる存在のあり方に、しっかり基づいていることである。この観点から、最も重要な種としての我々の自己概念は、きわめて有益なものである。なぜならそのような自己像は、普遍的な人権の概念を押し進めるだけでなく、思いやりをもって動物を扱うという我々の明確な人間的義務を根拠付けるものとなるからである。

スペインのポザス氏は自分のことを単なるサルだというかもしれないが、我々残りの者はこのばかばかしい道徳的還元主義を拒否すべきである。もし我々が本当にこの世の中をよくしようと思うならば、なすべきことはサルに根拠のない権利を与えることでなく、生きた十全なる人間の命の本質としての、自らの比類のない重要さと神聖な責任感を認識することである。

(ウエズリー・J・スミスはディスカヴァリー・インスティテュートの上級研究員、生命倫理と文化センターの特別 コンサルタント)

最新情報INDEX

 

創造デザイン学会 〒107-0062 東京都港区南青山6-12-3-903