Discovery Institute News
インテリジェンスは許さない!
―映画試写感想―
By: Tom Bethell
The American Spectator
Feb. 19, 2008
(このコラム記事は、アメリカン・スペクテーター誌2008年2月号に掲載されている)
映画の試写会に出かけることはあまりないので、あのベン・スタインの出演する映画Expelled:
No Intelligence Allowed(追放――インテリジェンスは許さない)の未修正版を見るように招待されたときには、私は喜んでこの機会に飛びついた。それはワシントンDC繁華街の「ゲーテ・インスティテュート」で行われた。
ドキュメンタリーであるこの映画は、生命世界の知的デザインの科学的証拠を認めるがゆえに、村八分になったり、テニュア(終身在職権)を否定されたりした科学者や研究者たちについての記録である。一言でいえば、彼らは学界から「追放された」のである。
この論争の噂を聞いたベン・スタインは、やぼったいスーツを着て調査の旅に出かける。彼の履いている不恰好なスニーカーは挑戦の意味をもつのだろう。いつものように彼は我々を笑わせるが、それは言葉というより、わざと大仰な言葉の使い方をすることによってである。これほどに言論の公開性、多様性、自由が尊重されるアメリカで、一つの十分に理由のある物の見方が抑圧されるなどということがあるのか? ベンにはとうていそれが信じられない。もちろん我々観客はそれが本当だと知っている。だからショッキングな発見にそなえて身構えしながら、真実を求めて次々に扉を叩く彼の姿を見ながら、我々はその成り行きを楽しむことになる。
私に言えることはただ、パリからエルサレム、ロンドンからシアトルに至る広範囲な場所で行われた彼のインタヴューが抜群だということである。インタヴューは数多く行われ、巧みに編集され、巧みにまとめられているので、映画全体が見て楽しいものになっている。真剣な場面
と愉快な場面が交互しながら、それは教え諭すことなしに教育的なものになっている。(強調しておくが、私はこれを完成された形で見たのではない。カットされる部分も追加される部分もあるかもしれない。)
両立しない宇宙観が争点であり、無神論者と宗教信者の代理戦争にもなりうる、偶然とデザインの立場を主張する両者の論争は、苛烈なものになりうる。映画では、スタインが第二次世界大戦の死の収容所を訪問し、ナチス哲学の根源に遡って、適者であることがすべてであり、あらゆることが許される神なきダーウィニズムの世界に至る、暗然とした場面
がある。しかし全体的には、この映画は、底流の緊張感を軽いコメディーのタッチで和らげるものになっている。
これは確かにすべての媒体の中で、この問題を扱った最上の作品である。しばしば私の目には喜びの涙があふれた。私はこの問題について30年以上にもわたって書いてきたので、この映画が終わるころには、ダーウィニズムは間違っており、生命は確かにデザインされたものだと主張してきた我々の側が、勝利しつつあるのを実感した。
我々に紹介される主要な追放された人々には、キャロライン・クロッカー(ジョージ・メイソン大学)、リック・スターンバーグ(スミソニアン国立自然史博物館)、ギエルモ・ゴンザレス(アイオワ州立大学)、ウィリアム・デムスキー(ベイラー大学)などがいる。我々はまた数々の最も有名な反逆者とも出会う。ベンはディスカヴァリー・インスティテュートのブルース・チャップマンの部屋の戸を叩く。ここはIDの実質上唯一の推進組織としてあまりにも有名なので、彼がそのシアトルの住所を尋ねてやってきたときには、一つのビル全体を占めているのかと思う。ところがこの研究所は一つの事務所がそのすべてであった。スティーヴン・マイヤー、ジョナサン・ウエルズ、ポール・ネルソンといった人々がカメラに登場する。パリのアパートからは、評論寄稿者のデイヴィド・ベルリンスキーが優雅な軽蔑をもってダーウィニズムを退ける。
私が予期していなかったことは、この映画が敵側に話をもちかけていることである。ベン・スタインは、オックスフォード大学のリチャード・ドーキンズ、コーネル大学のウィリアム・プロヴァイン、ミネソタ大学のP・Z・マイヤーズ、といった名だたるダーウィニストを訪問する。ドーキンズら一部の人々からは、後に、この映画が彼らに反対の立場のものだったことを知らされていなかったと苦情が出た。しかしベン・スタインは、彼がインタヴユーした誰一人としてこれが何の映画かを聞かなかったと言い、共同プロデューサーのウォルト・ルーロフは試写
会で、インタヴユーを申し込んだ人々には謝礼を払い、事前に何が問題かを話してあったと述べた。
二重の皮肉は、ドーキンズとベン・スタインとの二度目の会合が、おそらくこの映画の最大のポイントになっていることである。ドーキンズは爽やかな正直さで話しながら、動揺しているとか不意を襲われたといった感じは全くない。彼は、科学は生命の起源について何もわかっていないと認め、確かにダーウィン進化論のメッセージは宗教と対立するものだと言う。しかしドーキンズは同時に、もし生命が本当にデザインされているとすれば、そのデザインのわざは、宇宙のどこか別
の場所の、それ自体は自然的手段によって進化した知的存在によるものに違いない、と言って我々を驚かせる。彼らのデザインがどのようにしてか、この地球へ伝えられたのだと言う。(DNA構造の発見で有名なフランシス・クリックが1980年代に同じようなことを言っていた。)コーネル大学のプロヴァインもまた、彼自身若い頃は信仰を持っていたのだが、ダーウィン教理(Darwinian
catechism)を教えられて以後は、それは敗退したのだと堂々と主張するのは見事である。
ドーキンズもプロヴァインも、全くひるむことなく自分の立場の論理を引き受けて、外交的曖昧ともいうべきものを拒否する進化論者の部類に入る。ところがこの発言は、進化はスケジュール通
り起こったのだが、神がそうなるように計らったのだと言って、両方の立場の機嫌を取ろうとするものである。これはブラウン大学のケネス・ミラーや、人間ゲノム研究所のフランシス・コリンズ、また多くの宗教家の主張でもある。それは外交を真理に優先させて「まあここらで手を打つことにしようではないか」という態度である。
ドーキンズは彼のベストセラー『神は妄想である』の中で、そういうチェンバレン外交流の妥協を否定しているのである。I
Dの側も妥協を退ける点では同じである。なぜなら彼らは、生命はデザインされたものでなければならないと考えるからである。しかしデザインはアプリオリに、ダーウィンの自然主義的世界観から締め出されている。ダーウィン方式による生命進化についての真の問題は、それが残忍冷酷であるかないか、(信仰的)保守主義にとって利益となるか害となるか、ということではなく、それが真理であるか否かということである。ID派はそれは真理ではないと言う。
科学はどういう事実を示しているか? かつて生息した種の大多数は今は絶滅している。新しい動物のデザインや「モデル」が、それに先行するものが発見されることなく、化石記録に現れている。しかし化石はいずれにせよ、祖先を明らかにすることはできないのだから、あまり役に立たない。今日の主戦場は、生きた生物の微視的研究の世界である。ところがここで発見されつつあるのは、分子レベルにおける驚くべき複雑さの世界である。
ダーウィンの時代には、細胞は「単純な原形質の塊り」あるいは「等質の透明な液体」に満たされた「空洞」以上のものではないと思われていた。現在、細胞はハイテク工場に似たものと考えられている。どのようにしてそんなものが出来たのか? それに対する説明はダーウィン理論の中にはない――永遠の試行錯誤を除いては。細胞内部のDNAは、かつてはほとんど(98%)「ジャンク」と思われていたが、今はその全体がすべて機能を果
していると考えられている(人間ゲノム研究の報酬として)。これまで進化論者は、そこには基本的に単純な世界があるのだと考えざるを得なかった。なぜなら、それを説明すべきものとして彼らの頭にあるのは、基本的なメカニズム――ランダムな変異と自然選択――だけだったからである。
新しい研究は――そしてそれはディスカヴァリー・インスティテュートが主導しようが全米科学財団が主導しようが関係ない――奇跡のような複雑さの世界を明らかにしつつある。科学文献の中にますます頻繁に現れる「分子機械」というものが、マイク・ジーン(Mike
Gene)と自称するある生物学者に閃きを与えて、『デザイン・マトリックス』(The
Design Matrix)という本を出版させた。私は彼の正体を知らない。彼はそれを明らかな理由によって隠している。映画『追放』は「冷戦」のイメージを用いて展開される。製作者はこの比喩を延長して、いま我々は「ベルリンの壁」崩壊の直前の状況にあると言ってもよかっただろう。それは、最も興味あるソヴィエトの物書きたちが、偽名を用いて「追放」――強制収容所への――を回避していた時期であった。
ウォルト・ルーロフは試写会前のアナウンスで、プレミス・メディアは400時間にのぼるインタヴューを収録したと言っていた。私はこのすばらしいプロジェクトをもっと詳細に見たいと思う。おそらくそのいくらかは、DVDに収められているものと期待する。4月に封切りの予定という『追放』についての私の唯一の不満は、それがあまりにも早く終わってしまうことだ。
(トム・ベセルはThe American Spectatorの編集主任)
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