Discovery Institute News
書評 穴埋めのダーウィン
フランシス・コリンズ著『神の言葉――科学者が信仰のための証拠を提供する』
By: Jonathan Wells
Discovery Institute
March 26, 2008
[解説]Dawkins やP. Z. Myers
やEugenie Scottといった無神論ダーウィニストによる高圧的な問答無用のID攻撃に対しては、ID派は、迫害という現実的な被害は別
として、何らの痛痒も感じず、応対する必要すら認めていない。彼らはいわば御し易い相手であって、これは映画Expelledをめぐって起きた恐慌などを通
じてもわかることである。
しかし信仰者でダーウィニストの立場を取る科学者によるID批判に対しては、IDはどう応えるのか? 彼らは宇宙も人間も目的をもって創られたものと認めながら、その過程はダーウィンの盲目的な(インテリジェント・デザイン抜きの)漸次進化によるものだと主張する。このような不可解な立場を取る学者(過去にはDobzhansky、現在はKenneth
Millerなど)や一般クリスチャンがかなりいること自体の不可解と、彼らは何をどう誤解してIDに敵対するのかという不可解に、多くの人は悩むであろう。
アメリカの「人間ゲノム計画」を指揮したFrancis
Collinsの『神の言葉』(The Language of God: A Scientist
Presents Evidence of Belief, 2006) は、まさにそういう立場を代表する本であり、ジョナサン・ウエルズによるこの書評は、問題がどこにあるのかを明瞭にするだけでなく、それによってIDとは何であるかを改めて示すものなので、このかなり長い書評をあえて翻訳することにした。
一般の理解のためであるのは勿論だが、IDを認めたがらないわが国の学者たちが、この本に飛びついて宣伝したり翻訳したりする前に(それはむろん自由だが)、この書評を読んでもらうためでもある。
―創造デザイン学会
―――――――――――――――――――――――――――――
[概要]フランシス・コリンズは、インテリジェント・デザイン(ID)が実験による確認という方法を取っていないといって批判する。しかし彼がそのために引証するのは、IDの間違いを証明していると彼の言う実験である。彼はまた、IDが「穴埋めの神」(God-of
-the-gaps)という議論をするものだとして批判するが、それはIDを無知からする議論と決め付けた上でのことである。コリンズは、IDはキリスト教信仰にとって深刻な問題となると感じているが、それは彼が圧倒的な証拠に支えられていると考えているダーウィン進化論をIDが拒否するからである。しかしコリンズがダーウィンの変異と選択のメカニズムとして引いている唯一の証拠は、小進化、すなわち存在する種の内部での小さな変化である。そしてダーウィンの共通
祖先の主張を支持するために彼が言及する主たる証拠は、彼が機能を持たないと考えるDNA配列部分であるが、これはその多くが機能を持つものであることが、ゲノム研究者たちによって発見されつつある。コリンズのダーウィン擁護は、我々がゲノムについて知れば知るほど後退していかなければならない無知からの議論、すなわち「穴埋めのダーウィン」議論であることが、次第に明らかになってきている。
2000年6月26日に、ビル・クリントン大統領は、人間の細胞のDNA配列の解読を終えたばかりの「人間ゲノム計画」の完了を宣言した。「今日我々は、生命を創造した神の言葉を学びつつあります」と彼は言った。大統領の傍らには、このスピーチの草稿を作ったこのプロジェクトの指揮者フランシス・コリンズがいた。「以前には神にしか知られていなかった我々自身の仕様書を初めて瞥見したということを考えると、我々は謙虚と畏怖の念を覚えます」とコリンズは言った。
その副題が示すように、『神の言葉』はキリスト教信仰の証拠を提供するものである。しかしながら奇妙なことに、その証拠にはDNAは含まれていないのである。コリンズによればDNAは、ダーウィン進化論の「有無を言わさぬ
」証拠となるものである。ダーウィン進化論が「疑問の余地なく正しい」ものであると弁護する過程において、コリンズは、インテリジェント・デザインは「科学理論としての基本的な資格を欠いている」ばかりでなく、「信仰に対して深刻な障害となる」ものだと言っている。
無神論から信仰へ
コリンズのこの本の一部は、彼が少年時代の無神論から神への信仰に至る心の旅にあてられている。ある患者が彼に彼の信仰を尋ねるという、医者として「最もきまりの悪い」瞬間があった。そして彼は、自分が科学者であるにもかかわらず、「信仰が正しいとする証拠も、間違いとする証拠も本当に真剣に考えてみたことがない」ことに気付く。その時以来、彼は「結果
がどうなろうと事実を見つめる決意をした。」
コリンズが見つめた事実の一つ、そして最も感銘を受けた事実は、「道徳の法則」すなわち「すべての人間のあいだで普遍的であるらしい」善悪の概念であった。C・S・ルイスの著書に影響を受け、道徳法則は「文化の作り出したものとか進化の副産物などと説明して片付けることのできない」ものだと確信して、コリンズはその根源は神にあるに違いないと結論した。
コリンズは自分の信念の更なる証拠を求めた。その一部はビッグバンにあり、これは「神の観点からの説明を要求するもの」であった。彼は更に多くの証拠を、自然法則の整然たる秩序と、人間原理すなわち「我々の宇宙は人間を生み出すべく特別
に調整されているという考え方」に見出した。コリンズによれば、「宇宙には始まりがあり、数学によって正確に表現できる秩序ある法則に従っているという事実と、自然法則が生命を維持できるようにする注目すべき一連の“偶然の一致”の存在は…ある知性をもつ心の方向を指し示すものである。」
これは「インテリジェント・デザイン」と呼ばれるようになった考えと同じではない(と彼は判断した)。実際コリンズは、IDは、キリスト教徒がその信仰の根拠を、新しい科学的発見からみれば蒸発してしまうような空疎な証拠に求めるようにすることによって、信仰を危機にさらすものだと憂慮するのである。
穴埋めの神?
コリンズは、IDは3つの命題の上に立っていると言う――(1)「進化(論)は無神論的な世界観を助長する」(2)「進化(論)は根本的に欠陥がある、なぜならそれは自然界の込み入った複雑性を説明できないからである」(3)「もし進化(論)が還元不能の複雑性を説明できなければ、知的なデザイナーがいなければならない」。
多くの他のID批判者と同じく、コリンズもこのように提唱者の定義とは異なったIDの定義から出発する。ディスカヴァリー・インスティテュート「科学と文化センター」のウエブサイトによれば、「インテリジェント・デザインは、宇宙と生物の特徴のあるものは自然選択のような導かれない過程によってでなく、知的な原因(intelligent
cause)によって最もうまく説明されると主張するものである。」1
コリンズの最初の命題とは違って、IDは「進化(論)は無神論的な世界観を助長する」とは言っていない。進化は単に時間をかけての変化という意味になりうる。これは宗教的、反宗教的のいずれの意味合いをも含まない。あるいは存在する種の内部での小さな変化を意味することもある。これは論争の余地のない現象で、やはりこれも宗教的に中立である。しかし問題が生ずるのは、生物のどの部分においてもデザインを認めないダーウィン理論に関してである。ダーウィン自身がこう書いている――「私が生物の多様化や自然選択の働きにデザインを認めないのは、風の吹く向きにデザインを認めないのと同じである。」だから「すべては計画された法則の結果
として生ずるが、一々の細部は、悪いものも良いものも、偶然と呼んでよいものの働きにまかされていると考えたい」と言っている2。確かに、ダーウィニズムは個々の特徴のデザインを認めないために、多くの人たちが(多くのダーウィニストを含めて!)それは「無神論的な世界観を助長する」ものだと主張してきた。しかしダーウィニズムとIDの衝突は、生物の特徴のあるものが、知的原因によってよりよく説明できるか、導かれない自然の過程によってよりよく説明できるか、という問題だけに関わるものである。
コリンズの2番目と3番目の命題は、IDは単に否定的な議論からのみ成り立っているかのような、間違った印象を与える。あたかもダーウィニズムの証拠がなければ、自動的にデザインを推論する根拠が生ずるかのようである。しかし(下に述べるように)デザインの推定は、結果
として存在するものが、我々の経験からして、知的原因によって生ずる結果
に似ている場合にのみ保証されるのである。ダーウィン理論が何かを説明できないという事実は、知的デザインを推定する必要条件かもしれないが、十分条件ではない。
コリンズは(彼の定義する)IDは科学ではないと言う――「IDは基本的な意味において科学理論としての資格を欠くものである。すべて科学理論というものは、一群の経験的に観察されたものが意味をなすようにする枠組みのことである。しかし一つの理論の主たる有用性は、ただ過去を振り返ることでなく予見することである。一つの有効な科学理論は他の発見を予言し、更なる実験による確証の方法を提案する。IDはこの点において深い欠陥をもっている。」
コリンズはそこで生化学者マイケル・ビーヒーの、細胞のある特徴は還元不能に複雑だという主張を批判する。ビーヒーは1996年にこう書いた――「“還元不能に複雑”というとき私の意味するのは、一つの基本的な機能に寄与する、いくつかのよく適合し相互作用する部品から構成された単一のシステムで、そのどれか一つの部品を取り除いても、そのシステムがうまく機能しなくなるようなもののことである。3」ビーヒーは、我々が日常生活で還元不能の複雑性に出会うときにはいつも、全く当然のこととしてそれを知的な作用者(intelligent
agent)に帰するが、それは唯一そのものだけがそれを作り出すことができるからだ、と論じた。
ビーヒーは還元不能に複雑だとする生物のいくつかの特徴を説明してみせたが、その一つは、人間の血液凝固のカスケード(多層作用システム)、すなわち凝固が必要な時と所でのみ起こるようにするタンパク質の相互作用システムである。しかしコリンズは、「遺伝子重複(gene
duplication)のよく確認された現象」は、血液凝固カスケードの構成部品が「古い時代の遺伝子重複を反映するものだということ、そしてそこから、自然選択の力に押されて新しいコピーが徐々に進化し、新しい機能を獲得するようになった結果
であることを示している」と主張している。ビーヒーは2000年、この批判に対する反論を書いたが4、コリンズはこれを無視している。
もっと驚くべきことは、コリンズが、実験によって確認できないから非科学的だという理論を反証するための、実験による証拠を引いていることである。遺伝子重複からの証拠がIDを反証すると主張することによって、コリンズはIDが科学的証拠によって検証が可能であることを証明していることになる。IDが非科学的であるとすれば、証拠などは無意味である。IDに反する証拠を引くことができれば、IDは科学理論である。コリンズはこの両方を取ることはできない。
しかしコリンズにとって、「IDの土台の最も致命的な亀裂」は、バクテリアの鞭毛(極微の高速モーターによる推進システム)の還元不能の複雑性についてのビーヒーの議論を切り崩すものだという最近の研究である。コリンズはまず初めに、還元不能の複雑性のビーヒーの考え方を、「鞭毛の一つ一つのサブユニットが、それ以前に何らかの別
の有益な機能をもっていたということはあり得ない」という主張に解釈し直した上で、この主張に対する反論に取り掛かる5。
証拠としてコリンズが引証するのは、タイプ3分泌装置(TTSS)といわれるものである。これは「ある種のバクテリアが、攻撃する相手のバクテリアに毒液を注射するのに用いる全く別
の装置」で、鞭毛モーターに使われているタンパク質の一部に似たタンパク質から成っている。コリンズによれば、「おそらく」TTSSの要素は「何億年も前に重複コピー
(duplicate)され、それから(それに一回以上突然変異が起こり――訳者)新しい用途のために組み込まれた(recruited)。これが、それ以前にはより単純な機能を果
していた他のタンパク質と結びつき、最後にはモーターの全体ができた。確かに、タイプ3分泌装置は鞭毛というパズルの一片であるにすぎず、その全体像を組み立てるには(もし可能として)ほど遠いであろう。しかしこのような一つ一つの新しいパズルのピースは、IDが超自然の力に帰し、そのためにその提唱者がますます窮地に追いやられている、自然的な説明の一つのステップを提供するものである。」
血液凝固のカスケードの場合と同じく、コリンズは、これに対するビーヒーの反論――この場合には「還元不能の複雑性をもつシステムの一部またはサブ・アッセンブリーが、一つあるいはそれ以上の別
の機能を持たないという理由はない6」というもの――を無視している。燃料ポンプが他の目的のためにも使えるという事実は、それがその一部をなす車のエンジンがデザインされたものでないということを意味しはしない。その上、バクテリアの鞭毛はTTSSより前からあったことを示す証拠が示されている。もし進化というなら、おそらくTTSSは鞭毛から逆進化(de-volve)したのである!7
いずれにせよコリンズは再び(上でもそうしたように)、証拠に照らしてテストできないと彼のいう理論に対して、反論の証拠を引いているのである。この矛盾に気付くことなく彼はこう結論する――「IDは実験による確認の機会も、還元不能の複雑性という中心的主張の健全な基礎も提供できないのだから、科学として成り立たない。」
コリンズはそこで更に新しい一捻りを付け加える――「しかしそれ以上にIDはまた、無感動な科学者よりも信仰者の抱く関心という点でも失敗である。IDは、その主唱者が科学では説明できないという場所に、超自然の介入を必要と考えて挿入するわけだから、「穴埋めの神」理論である。伝統的に様々な文化が、その時代の科学では説明がつかない様々な自然現象(日蝕であれ花の美しさであれ)を、神のせいにしようとしてきた。しかしこれらの理論は暗澹とした歴史を持つ。科学の進歩が究極的にこれらのギャップを埋め、それらに信仰を寄せていた人々を狼狽させるのである。究極的に「穴埋めの神」宗教は、単に信仰というものの信用をなくさせるだけの大きなリスクを負うものである。我々は現代においてこの過ちを繰り返してはならない。IDはまさにこのげんなりするような伝統に属するもので、同じ究極的な敗退に直面
している。」
しかしコリンズの「穴埋めの神」という科学史の説明は正確ではない――おそらくアニミズムの敗退の説明として以外は。物理学者David
Snokeが書いているように、「いったい磁石とか惑星の軌道が理解できないからといって、神の存在を主張した者がいるだろうか? きっとどこかの異教のシャーマンがそんな風に言ったかもしれない。しかしまともなキリスト教徒がそんな風に議論したという証拠は見当たらない。8」更にコリンズの、科学の進歩はインテリジェント・デザインを排除してきたというような言い方は、控えめに言っても誇張である。結局のところ、血液凝固のカスケードやバクテリアの鞭毛の説明としてコリンズが示唆する唯一のものは、遠い昔の遺伝子重複についての空想である。
しかしコリンズの言説の中の最もひどい欠陥は、IDを誤って伝えていることである。
第一に、IDは超自然の介入で穴を埋めたりはしない――ただインテリジェンスそのものが超自然と定義されれば別
だが。IDは単に、自然界のある特徴またはパタンは、導かれないプロセスによるよりも、知的な原因によってよりうまく説明される、と自然の証拠から推論して言えるという最低限の主張をするだけである。確かに、ではそのインテリジェンスとは何なのかという質問になるであろう。そしてその最も常識的な答えは神であろう。しかしIDは我々をそこまでは導かない。IDは自然神学ではない。
第二に、もっと重要なことだが、デザインの推定は無知からする議論ではない。正常な人間なら誰も「私はXの原因を知らない、だからそれはデザインされたに違いない」とは言わない。我々は日常生活で、インテリジェンスによって生じたことが分かっているものにXが似ており、それなしにはXはとうてい生じ得ないというときに、デザインを推定するのである。還元不能の複雑性はデザインされたものの一つの確かなしるしである。ウィリアム・デムスキーの「特定された複雑性」も一つのしるしである9。どちらの場合も我々は、より多くの証拠があれば、より確実にデザインを推定できるのである。
ダーウィンや彼の同時代人は、生きた細胞を原形質の塊りと考えた。彼らがそのような塊りをデザインされたものでないと考えたのは当然であった。しかし現代の生物学者が還元不能に複雑な生化学的カスケードや、それに必要な分子機械について、ますます多くのことを知るにつれて、細胞を導かれない自然の力の偶然的な副産物として片付けることは、ますます説得力がなくなっている。
コリンズは、本当のIDを知った上でこれを批判するのでなく、それを別
物に変えようと試み、それを批判しているのである。現実に彼の標的になっているのはIDでなく、「穴埋めの神」の論理であり、彼はこれを、彼の思い込みのダーウィン進化の圧倒的な証拠のゆえに、宗教的信仰に対する重大な危険と考えているのである。
圧倒的な証拠?
国立人間ゲノム研究所(NHGRI)の指揮者としてコリンズは、DNA配列解読からのデータは「ダーウィン進化論、すなわち自然選択がランダムに起こる変異種に働くことによる共通
祖先からの血統的下降、に対する強力な支持」を提供していると主張する。この説の、自然選択がランダムな変異に働くという部分について、コリンズはこう書いている――「ダーウィンは彼の理論のディジタルな証明として、我々が現在多くの生物のDNAの研究から発見していること以上に、説得力のあるものを考えることはできなかっただろう。19世紀半ばには、自然選択による進化のメカニズムがどんなものであるのか知る方法がなかった。現在の我々には、彼の想定したような変異種が、自然に起こるDNAの変異によって支持されていることがわかる。」ほとんどの変異は中立か有害であるのだが、「ごくまれに、ほんのわずかに選択的有利さを持った変異が、偶然によって生じることがある。この新しいDNAの“スペリング”が、将来の子孫に引き渡されるわずかにより高い可能性をもつのである。非常に長い時間経過の中で、そのような有利さを持つまれな出来事がすべての種において起こることができ、究極的に生物の機能の大変化をもたらすのである。」
コリンズは続けて言う――「ダーウィニズムを批判する者の中には、化石上の大進化(macroevolution、種そのものの変化)の証拠はなく、小進化(microevolution、同一種内の変化)だけがあると論ずる者がいる。」しかし(と彼は言う)「この区別
は次第に恣意的なものとみなされるようになった。」この点を証明するためにコリンズは、スタンフォード大学のトゲウオ(stickleback
fish)の研究を引証する10。海のトゲウオは典型的に頭から尾まで鎧の板に覆われているが、多くの淡水のトゲウオは鎧をもたない。そこで生物学者たちはこの違いと、Ectodysplasin
(EDA) すなわち鎧の板の形成にかかわる分子を指令する遺伝子の変異との相関関係を発見した。コリンズはこう結論する――「この淡水のトゲウオと海のそれの違いを拡張することで、あらゆる種類の魚が産み出されたと考えるのは難しいことではない。従って大進化と小進化の区別
はかなり恣意的なものと見られる。新しい種を産み出す大きな変化は、より小さな漸増的ステップの連続の産み出したものである。」
しかし海と淡水のトゲウオは同じ種Gasterosteus
aculeatusの変種であるにすぎない。EDA を指令する彼らの遺伝子の変異が、新しい種の起源に結びつくとは考えられず、まして大進化に必要な新しい器官や体の構造の大変化をもたらすことはあり得ない。同じことは、コリンズの引いている唯一の他の例である病気を引き起こすウイルス、バクテリア、寄生生物についても言える。
1937年に、進化生物学者のテオドシウス・ドブジャンスキーはこう書いた――「地質学的時間を要求する大進化の変化のメカニズムについては、我々人間の生命スパン内で観察できる小進化のプロセスの十分な理解による以外に、理解の方法はない。」そしてこう結論付けた――「この理由によって、今日の知識のレベルでは、大進化と小進化を不承不承ながら等号で結ばざるを得ず、この仮定の上に立って、この作業仮説が許すかぎりの極限まで、我々の研究を押し進めるよりほかはない。11」
ドブジャンスキーと同じようにコリンズも、小進化から大進化を推論できると仮定しているにすぎない。70年間の遺伝子研究にもかかわらず、この推論(外挿)は仮定のままであり、大進化と小進化の区別
は、以前とかわらず「恣意的」なものではない。
ダーウィン説の「共通祖先からの血統的下降」という点については、コリンズは、「多くのゲノムの研究によって、我々の自身のDNA配列と他の生物のそれとの詳細な比較ができるようになった」と書いている。DNA変異は時間をかけて蓄積されるから、より新しい共通
祖先をもつ生物同士は、もっと早くに分かれた生物同士よりも少ない違いを示すだろうと予想される。「全体としてのゲノムのレベルにおいて」とコリンズは書く、「コンピューターはDNA配列の相似ということだけに基づいて系統樹を作ることができる。」そして彼は、そのようにして作った哺乳類の進化の樹(phylogeny、系統発生図)をもそこに含ませる。コリンズの結論はこうである――「この分析は、化石記録や現存の生物の解剖学的観察からの情報は利用していない。にもかかわらず、この分析と、現存の生物や化石生物についての比較解剖研究から引き出せる結論との相似は、驚くばかりである。」
コリンズが言っていないのは、DNAのデータはしばしば相矛盾する系統発生図を作り出すということである。例えば『神の言語』に出ている彼の進化の樹は、flying
lemur(ヒヨケザル)とtree shrew(ツバイ)を類縁とし、ウサギとサルをもっと離れた枝に置いている。しかし2002年のProceedings
of the National Academy of Science USAに発表された系統発生図では、flying
lemurとサルを類縁、tree shrewとウサギを類縁として示している12。DNAに基づく進化の樹の食い違いは、進化生物学者にとって頭痛の種であり、彼らの中にはこれを解決するために生涯を捧げている人たちもいる。
DNAをもとに作られた系統発生図が、それら同士で矛盾するだけでなく、それらはまた形態学に基づいた系統発生図とも食い違う。例えばコリンズが、その化石が「関係の近い生物の生命の樹の概念と矛盾しない」と言っているクジラを取ってみよう。形態学的根拠に基づいて、進化生物学者のLeigh
Van Valenは1960年代に、現代のクジラは絶滅したハイエナのような動物グループの子孫だという説を唱えた13。その後1990年代に、分子の比較によって、クジラはカバにより近い親戚
らしいことがわかった14。しかし2001年、進化生物学者Kenneth
D. Roseは、形態学と分子の証拠の間に「依然としてかなり大きな不一致が存在する」と報告した15。そして2007年、J.
G. M. Thewissenとその共同研究者が、クジラはカバの3500万年前の化石記録に現れるのだから、「この2つのグループが近い親戚
である可能性はない」と指摘した。Thewissenらは形態学的比較から、クジラはアライグマのような動物の子孫だと結論した16。
形態学と分子による系統発生図の間の食い違いは今も続いており、問題はクジラよりも大きい。2007年にイギリスの科学者たちが、分子による181の、また形態学による49の系統樹を分析し、「分子と形態学の系統発生図はしばしば相争って(at
odds)いるようだ」と述べた17。一般的な言い方として、コリンズの、DNAの系統樹は比較解剖学から得られた系統樹に驚くほど似ている、という主張は明らかに間違いである。
ダーウィン説によれば、自然選択は害のあるDNA変化を消すが、機能に影響を及ぼさない変化は消さない。分子生物学者たちが1970年代に、哺乳動物のゲノムの大半がタンパク質を作る指令をしないDNAから成ることを発見したとき、ある者は、これは進化の歴史の過程で蓄積した単なる変異のゴミだと考えた。コリンズは、この「年老いた反復する要素」(ancient
repetitive elements, AREs)ともいわれる「ジャンクDNA」のある部分を例に引き、これは転移因子(「ジャンプする遺伝子」)に始まるものだと論じている。コリンズは人間ゲノムのほとんど半分が「こうした遺伝子の漂流物でできている」と書いている。特筆すべきことに、マウスと人間のAREを比較すると、「その多くは、それらがある共通
の哺乳類の祖先のゲノムに現れ、それ以来、それが受け継がれてきたと考えると最も納得できる位
置に残っている」と彼は言っている。
コリンズの主張の根底にある想定は、AREには機能はないということである。そのことをわからせるコリンズの文章がある――「中には、これらはしかるべき理由があって、創造者によってそこに置かれた実際は機能を持った要素なのだ、そして我々が“ジャンクDNA”としてそれらを考慮に入れないのは、ただ我々の現在の無知のレベルを暴露するだけなのだ、と主張する人があるかもしれない。そして実際、それらのあるわずかな部分は重要な統制的役割を果
しているのかもしれない。転移の過程でしばしば“ジャンプする遺伝子”が損なわれることがある。人間やマウスのゲノムの至るところに、それらが着地したときに途中で切られ、その機能の可能性を失ったAREがある。多くの例において、人間とマウスのゲノムの平行した位
置に、頭を切り落とされ機能不全になったAREを確認することができる。もし我々が、神がこれらの頭を切られたAREをちょうどこれらの位
置に置いて、我々を戸惑わせようとしたという立場を好んで取らない限り、人間とマウスが共通
の祖先を持つという結論はほとんど避けられないものとなる。」
ここで(そしてこの本の他の場所でも)コリンズは、この顕著にダーウィン流の議論を用いている。『種の起源』でダーウィンは、神の創造は間違いなのだから自分の説が正しくなければならない、という議論を繰り返し用いている。これは科学理論を弁護するには奇妙な論法である。にもかかわらず、それはダーウィニストの文献に普通
に見られる。例えば、2005年の大学教科書『進化』の「進化の証拠」のセクションにおいて、ダグラス・フツイマ(Douglas
J. Futuyma)はこう書いている――「脊椎動物と頭足類軟体動物(タコ・イカなど)の眼のように、機能的に同じ部位
が、構造においては非常に異なる多くの例がある。このような違いは、もし構造が異なった祖先の異なる部分が変形してできたとすれば予想できるが、全能の創造者――最上のデザインに固執するはずの存在――がこれを創ったという考えとは調和しない。18」
フツイマやコリンズは、創造者のするであろうことがどうして分かるのか? 科学の世界でこれ以外のどこに、創造者についての論述が一つの理論を支持するために使われているだろうか? 明らかに、ダーウィンの「科学」にはきわめて奇妙なことが付いてまわる。
疑わしい神学的内容を取り除けば、コリンズの議論は結局こういうことになる――ダーウィン説は、DNAの機能を持たない特異部分の蓄積を予言しているが、それこそ我々の見出しているものだ――。しかし最近のゲノム研究によって、「ジャンクDNA」の多くは機能を持っているという証拠がますます増えつつある。例えば2006年、日本とアメリカの研究者グループが「非常に多くのタンパク質を指令しないゲノムの領域が、強い選択的束縛のもとにある」ことを発見した。その意味は、それらは機能を持っている、そうでなかったら選択がそれらに影響を及ぼすことはないだろう、ということである。彼らはこう書いた――「転移因子(transposable
element)は通常、ゲノムの寄生者とみなされ、その固定した、しばしば不活発化されたコピーは“ジャンクDNA”と考えられている。…(しかし多くのそのような)配列は純粋化の選択を受けており、宿主の生命力に貢献する重要な機能を持っている。19」言い換えれば、コリンズが自分の最上の証拠と考える「頭を切り取られた全く機能不全の」転移因子そのものが、機能がないどころではないことが明らかになりつつあるのである。
同じような結果が、2007年、カリフォルニアの科学者たちによって報告されている。彼らは人間ゲノムの10,402のコードしない要素を調査し、それらの驚くほど高いパーセンテージが、遺伝子の統制機能を持っていることを発見した。彼らは「可動要素は今まで認められていたより大きな機能を果
たしてきたのかもしれない」と結論した20。同じ年に、オーストラリアの分子生物学者たちがこう報告した――「哺乳類のゲノムはその1.5%以下しかタンパク質を指令しないのだが、今その大多数が、主としてタンパク質を指令しないRNAに転写
されていることが明らかになってきた…(そのうちの)ますます多くが機能を持つことが示されつつある。」これらオーストラリアの科学者たちは、機能する情報をコードするゲノムのパーセンテージは、「以前に考えられていたよりかなり高いかもしれない」と結論した21。更に2008年、アメリカの研究者たちが、これまでジャンク(ごみ)と考えられてきた、反復するDNAの分節から転写
されたコードしないRNAに、ある重要な機能があることを証明した22。科学が進歩する一歩ごとに、コリンズの「避けようのない」共通
祖先の証拠は縮んでいくようである。
「ジャンクDNA」のほかにコリンズはまた、DNAの、タンパク質をコードする分節の「サイレントな変異」を引証している。DNAコードの3文字が1つのアミノ酸を特定するのに必要であり、そのような組み合わせは64通
りが可能だが、アミノ酸は20種類だけだから、ほとんどのアミノ酸は1つより多い3文字「単語」によって特定されることになる。このことは、タンパク質をコードするDNAの部分でさえ、起こった変異が、結果
としてのアミノ酸配列に変化を与えない場合があるということを意味する。これらは「サイレントな変異」と呼ばれることがある。
進化の過程において、自然選択は、アミノ酸配列の変化によって損傷を受けたタンパク質を除去する傾向があるだろう。従ってダーウィン説に従うなら、生物は、そのような変化を起こすより、起こさないDNA変異をもっている可能性が高い。コリンズによれば、類縁の種のDNA配列同士を比較してみると、「サイレントな異同の方が、コードする領域において、アミノ酸を変えてしまう異同よりも、はるかに多く見られる。これはまさにダーウィンの理論によって予言されることだ。もし、誰かが言うであろうように、これらのゲノムが特別
の創造行為の個々の行為によって創造されたとするなら、この特定の特徴がどうして現れるであろうか?」
ここでまたしても、科学理論と考えられているものを支持するために神学的議論を用いるということが行われている。神学はさておいて、彼の議論は(上のように)「サイレントな」変異は機能を持たないという前提に依存している。しかし2002年に、ウルグアイの科学者たちが、バクテリアのある遺伝子の「サイレントな」変異は、そのアミノ酸配列を変えはしないが、結果
として生ずるタンパク質の可溶性(solubility)を減ずることを発見した23。更に2007年には、米国国立ガン研究所の科学者たちが、哺乳動物の細胞の「サイレントな」変異は、そのアミノ酸配列を変えないままで、多剤耐性タンパク質(a
multi-drug resistance protein)の機能的特質を大幅に変化させることを発見した24。もし「サイレントな」変異が結局サイレントでないとしたら、コリンズの議論は崩壊することになる。
そういうわけでコリンズのダーウィン説弁護は、小進化は大進化に拡張できるという仮定と、増えてきた反対の証拠にもかかわらず、DNAの特定の分節は機能を持たないという仮定によるものである。
穴埋めのダーウィン
コリンズのIDに対する主たる反対理由を思い出していただきたい――「IDとは“穴埋めの神”理論であり、その主唱者が科学では説明できないという場所に、超自然の介入を必要と考えて挿入するものだ。…しかしこれらの理論は暗澹たる歴史をもつ。科学の進歩は究極的にこれらの隙間を埋め、そういうものに信仰を寄せていた人々を狼狽させることになる。究極的に“穴埋めの神”宗教は、単に信仰というものの信用を失わせるというリスクを犯すだけである。我々は現代においてこのような過ちを犯してはならない。IDはこのげんなりさせるような伝統に属するもので、同じ究極の敗退に直面
している。」
「超自然」というところを除けば、これは実のところ、コリンズがDNAの無機能と考えた部分に頼ることによってダーウィニズムを弁護する、彼自身の戦略のように聞こえる。彼は繰り返し、もし我々が一連のDNA部分の機能を知らなければ、それは機能を持たないものと想定している。それは共通
祖先から偶然によって伝えられた遺物にすぎないということである。しかし分子生物学者がDNAについて知れば知るほど、以前には機能がないと思われていた部分に機能があることがますます発見されている。コリンズのダーウィン進化論擁護は、科学の新しい進展とともにますます信頼できないものとなる。
何という皮肉であろうか。コリンズは彼のダーウィニズム支持を、ゲノム解読からの新しい知識に根拠付けている。しかし彼は実は、その知識のギャップに根拠を置こうとしているのである。コリンズ自身が、そのようなアプローチは「暗澹たる歴史をもつ」と言っているのである。科学の進歩は究極的にそのような隙間を埋めていき、そういったものに信仰を寄せていた人々を狼狽させることになる。究極的に“穴埋めのダーウィン”式アプローチは、単に科学というものの信用を失わせるという大きなリスクを負うのである。我々はこのような過ちを現代において繰り返してはならない。ダーウィニズムはこのげんなりさせるような伝統に属するものであり、同じ究極の敗退に直面
している。
出典と引用文の箇所については、Discovery
Institute (www.discovery.org),
Center for Science & Culture, "Latest News
& Views"欄の同書評を参照されよ。
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