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神経科学と質料・形相二元論

By: Michael Egnor
January 5, 2009

雑誌First Thingsの特集記事の編集をしたR・R・リーノ(Reno)が心脳問題に関して良質なエッセイを書いており、その中で、私がスティーブン・ノベラ(Steven Novella)とここ一年近くにわたってディベートしてきた多くの内容を扱っている。ノベラ博士の教条主義的な唯物論と、驚くほど傲慢な心脳問題に関する神経科学の適用(“唯物論的な予測はすべて証明された…”)に対して、私の反論は大きく分けて二つある。

第一に、心の唯物論的な理解は論理的観点からも辻褄が合わない。志向性、クオリア、自由意志、限定されたアクセス、時間を越えて自己が連続性を保つこと、不変性、意識の統一性、等の心の目立った特徴は物質の性質とは異なったものであり、心を物質であると言ったり、心はすべて物質から生じると主張することに対しては、哲学的にまた論理的に非常に強い反論が可能である。唯物論者の理論は経験的に確認することができないだけでなく、論理的整合性に欠けるものである。

私の第二の主張は、唯物論者の誇張した議論とは反対に、現代の神経科学は心と脳の関係に関する二元論的(そして質料・形相的)理解と一致している、ということである。脳と心の関係に関する科学的研究の開拓者は、カリフォルニア大学サンフランシスコ校 (UCSF)の神経生理学者であるベンジャミン・リベット(Benjamin Libet)で、彼は心脳問題に関する考えを実質的二元論の形で表現している。脳外科医のワイルダー・ペンフィールド(てんかん手術の父)、ジョン・エックルス卿(神経シナプスに関するパイオニア的仕事に対してノーベル医学賞が贈られている)、チャールズ・シェリントン(現代神経科学の父)等の神経科学者のリーダー達は明らかに二元論者であった。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の神経科学者であるジェフリー・シュウォーツ(Jeffrey Schwartz)は、精神的変化が脳機能の測定可能な変化をもたらすことを証拠によって示し、神経科学の分野での二元論的考察を行っている。もちろんこれらの実験結果 は決定的なものではない。唯物論者は、脳の変化は他の脳変化によってもたらされたもので、精神的な状態というものは付随現象であると主張するであろう。しかし強調すべきポイントは、神経科学における進歩は、唯物論的解釈だけではなく二元論的解釈をも許容したことなのだ。

リーノは『脳科学と魂』というエッセイの中で、心身問題に関してクリスチャンの立場から以下のように書いている:

現代科学は伝統的なクリスチャンの人間観を拒否するよう要求している、と我々はしばしば聞かされる。その主張は以下のようなものである――思考が連合され、感情が起き、決断がなされる物質的プロセスを見ることができるのであれば、我々人間は物理的実体以外の何ものでもないことを認めるべきだ。我々が語り聞かされてきた魂という概念は見当違いのものだ――。しかし今日、科学は我々をそれとは異なった方向に導こうとしている。現在では、MRIの技術を用いて認知科学者は、被験者が様々な経験をしたり、問題を解決したり、決断を下す最中の脳の状態を視覚化する実験を行っている。このようなアプローチによって科学者達は、我々が世界に対してどのように反応するかを示す脳の中のパターンの重要性と起源を、観察に基づいて理論付けすることを可能にした。我々は神経学的な動きのハイウェイシステムを学びつつあるが、それはとりもなおさず我々の心の働きを決定するものである…。神経活動のパターンについて新たに強調されたことは、それが魂についての伝統的なクリスチャンの理解を支持するということである。脳科学の最先端の成果 は、脳は単なるニューロンに過ぎないとする見方は、ハイウェイはコンクリートとアスファルトに過ぎないというのと同じ愚かな考えであることを明らかにしている。結局、運転者にとって重要なのは、コンクリートが走りうる道路に組まれるために、どのように組織化されているのかということである。我々の頭の中の灰白質でも同じことが言える。

リーノは伝統的な心についての二元論的観点に、極めて良く一致する新しい研究のあり方を指摘している:

しかし驚くべきことは、新しい科学的業績は、更に興味深くドラマチックに、魂についての伝統的な見方を確認させたことである。最近のMRIの研究で、『ヒトの脳の強化現象――認知と感情の相互作用についての神経学的見方』というものがあり、その中でプリンストンの脳科学者ジョナサン・D・コーエンは、被検者が道徳的ジレンマの中で道徳的決断を下す際の脳の活動パターンを観察している。そして道徳的決断に関する脳のパターンは、訓練されなければならないことが分かった。魂は鍛えられなければならないのだ…。コーエンの研究によれば、倫理的問題の解決は脳の様々な部位 の相互のコミュニケーションの影響を受ける。脳幹と前頭葉のニューロンの活動性の連結が強い被検者は、道徳的ジレンマに関する理性的判断を無視して感情的反応を許す傾向があった。一方、脳のより原始的な部位 の前頭葉への干渉が遮断されていると、被検者はより理性的な決断を下す。このような脳の部位 同士のコミュニケーションが開放された状態になるか遮断された状態になるかは、生まれつき固定されたものではない、とコーエンは結論付ける。それらは時間の経過とともに固まっていく。彼は、我々の脳のパターンは「固定化」(vulcanize)されるのだと表現し、これらのパターンを定常的に繰り返すことによって起こるものだと考えている。川がそれ自身の水路を刻むのだ。

実際、心と身体の関係のこの質料・形相という二元論的理解――それはアリストテレスに始まり聖トマス・アクィナスによって発展させられた――は、古典的ギリシア哲学だけではなく初期のキリスト教的人間理解にその起源がある、とリーノは言っている:

キリスト教の伝統では、アリストテレスの徳の理想に神聖さへの渇仰を加えているが、魂の見方は共通 である。超自然的な神の力によって注入されたか、禁欲的な修行の末に獲得されたかに関わらず、神と共にあるすぐれた魂とは、不思議な霊的な物質によって金メッキされたものではない。魂――身体のパターン、特に脳のパターン――が、「神の子の姿に合わせられている」(新約聖書、ローマ人への手紙、8章29節)のである。…真実は自分たちの側にあると考えていた確信的唯物論者については、これくらいにしておこう。今日の科学は、過去の科学的プロパガンダが誤りであることを立証している。デイビッド・ブルックスは最近のコラム記事で書いている――「がちがちの唯物論のかつての勢いは消滅してしまった。脳は冷たい機械のようには見えなくなった。脳はコンピュータのようには作動しない。そうでなく、意味や信念、意識が個性的なニューロンの発火現象のネットワークから、神秘的に創発するように見える。」

リーノは、この二元論対唯物論のディベートの研究の重要性を認識している:
ダニエル・デネットよ、よく聞くがよい(注:デネットは有名な唯物論者)――人間というものは、キリスト教の伝統が仮定してきた通 りの存在と考えてよいのだ。我々は単なる物質ではない。我々は特殊なやり方で生命を与えられた物的材料なのだ。我々は顕著な変化と発展が可能な、理性的な魂をもった動物なのだ。人間の魂は不安定で、影響を受けやすく、時間とともに硬化するものだが、まさにその性質のために、キリスト教の伝統では、正しい感情・思考・決断を導くことができるようなネットワークを「固定化する」ための道徳的でスピリチュアルな訓練を非常に重要視してきた。現在の脳科学は、道徳的でスピリチュアルな訓練を強調してきた伝統が、実際に正しいものであったことを示している。

リーノは、伝統的な二元論的な人間の心の理解が、神経科学によって確認されたと認識している:

アリストテレスは、美徳というものは関連性もつものだから、人間は勇敢であると同時に貪欲であったり、思慮深いが同時に不節制であったりすることはないと考えた。今日の科学は、このような古い物の見方の正当性を再び証明している。

心と脳の関連性についての私自身の見方は、質料・形相二元論的なものである。特に、伝統的なアリストテレス的質料・形相二元論の特殊形としてのトマス・アクィナスの二元論に近いものだ。つまり魂(その一部分が心である)を、身体(その一部分が脳である)の本質である形相として見る見方である。トマス・アクィナスの二元論は大きな強みをもっているが、その少なからぬ 部分は、心と脳の相互作用に関する本質的な説明を提供し、神経科学が明らかにした心の状態と脳の状態の相関関係と、完全に一致するところにある。心と脳は相関しているが、同一のものではなく、またどちらかに還元されるものではないという事は、まさにトマス・アクィナスの二元論から予測されることである。さらにトマス・アクィナス的観点では、「理性的な」魂は、幾つかの点において物質とは独立した魂の側面 (すなわち身体の形相の側面)である。このようにしてトマス・アクィナス的観点は、心の主観的な諸特質を一体化し、唯物論的理論を砕け散らせるような、志向性、自由意志、クオリアなどといった心の特有の性質を生じさせることもできるのである。

心脳関係に関する質料・形相的理解は、人間の心の主観的特質が人間の脳の客観的特質といかに関連しているかに関する我々の理解の、「説明のギャップ」にも橋を架けることができるだろう。過去数世紀にわたって科学的探求の柱であった、作用因、質料因のみならず、形相因と目的因をも自然の理解の要因とするという考え方を、この質料・形相理論は意味している。実際、実用的な目的のためには、自然の多くの側面 は作用因と質料因を調べるだけで理解することもできるが、心を唯物論的パラダイムによって説明しようとして我々が遭遇した根深い困難は、心の因果 関係を説明するのに、考察の範囲を誤って質料的・作用的な原因に限定してきたために起きてきたのかもしれない。質料的・作用的な原因に加えて、形相と目的という原因を考慮して初めて心を理解することができるのかもしれない。我々が心を理解する時の困難は、そして特に心の「ハード・プロブレム」の理解の困難性は、我々が、分子や運動には適合するが意味や目的には適合しないパラダイムを使用しているからであろう。

心脳問題は唯物論の危機である――生物学において豊富に存在するデザインの証拠が、唯物論の危機となるように。唯物論は現実の不完全な理解に過ぎない。

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