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無神論が質問を恐れるのは必然
By: Michael Egnor
June 19, 2009
Life's Private Bookというブログを張っているDavid T.は、現代の僧侶支配について的確な見方をしている。デイヴィドは18世紀のドルバック男爵の言葉を引用する――
人間は原始的な愚かさの状態で生きていくよりほかないものである。目に見えない力の物語以外には、何一つ彼に与えられたものはなく、彼はその上に自分の幸福を築いて暮らしている。心を恐怖とわけのわからない夢想でいっぱいにして、人間は常に僧侶たちにすべてをまかせてきた。僧侶たちが彼らに代わって考えてやり、彼らの行動を指図する権利を保持してきたのである。
デイヴィドは、我々は現在も僧侶たちをもっている、ただしそれは「専門家」と呼ばれる世俗の僧侶で、彼らが意味や癒しに似たものを供給するのだという。
それが指すものが変わったのだ。今日「目に見えない力」として我々に与えられているのは、天使や悪魔でなく、得体の知れぬ
物質的な力である・・・
現代人はかつての僧侶の代わりに、
うつ病を軽くする治療法や薬物を与えてくれる「専門家」をもち、また政府による教育や福祉計画を作ってくれる他の専門家がおり、彼らなしには得体の知れぬ
社会的な諸力が彼を確実に犯罪者にしてしまうだろう。また遺伝子コードを紅茶の葉のように調べ、あなたはいずれにしても滅びる運命にあると占う別
の専門家もいる。告解の代わりに治療法、洗礼の秘跡の代わりに堕胎の秘跡、カルヴィンの予定運命の代わりに遺伝学的予定運命をもつ。
我々は、人間の基本的なあり方が不確定なもの(contingency)であるがゆえに僧侶を必要とする。我々が「原始的な愚かさの状態」にあるというのは、我々は本来的に形而上的真理を知らず、「なぜものが存在するか」「なぜ自分はここにいるか」といった問いに対する答えを知らないという意味においてである。我々の人生の多くは、ひそかにあるいは表立って、このような問いに答えることに捧げられ、その答えを我々は過去も現在も僧侶に求めてきた。答えは崇拝せよということ、ただ忠告を求める僧侶と、何によって崇拝するかが違うだけである。
我々の科学的探究は、我々の不確かなあり方を理解し、自分の人生をある程度支配する努力の一部である。この科学的努力は、熱烈な宗教的信仰――一般
的には正統的なユダヤ・キリスト教信仰――から起こってきたものであって、それに逆らって起こってきたのではない。近代科学の勃興が、ユダヤ・キリスト教の神学、哲学、および社会的・経済的構造に依存するものであることは歴史的事実の問題である。
現在、無神論科学者や哲学者の、少数だがかなりの数の発言力をもった人々が、科学は無神論と唯物論を証拠立て、かつそれに依存するという主張をひっさげて登場してきている。ダーウィン派のブログ世界では、この問題をめぐってすさまじい喧嘩が起こっている。哲学的自然主義と無神論はよい科学にとって必須のものか? 宗教を取り入れることを容認する側の一部は、明らかに、宗教的信仰との妥協は戦略的理由で必要だと考える無神論者である。一方、ケン・ミラーやフランシス・コリンズのような人々は、キリスト教徒であり、かつ彼らの科学は彼らの有神論と全く矛盾しないと言う科学者である。
この論争は、唯物論・無神論の祭壇での崇拝はよい科学にとって絶対必要条件であるか否かにかかわるものである。どうやら宗教容認派が簡単に優位
に立ったようだ。科学は無神論に依存しかつそれを証拠立てるという無神論者の主張は、歴史的な無知と哲学的な論理矛盾を露呈するものである。
論争のダーウィン側の、有神論者と正直な不可知論者と無神論者が、ID唱道者たちが数十年来取り組んできた同じ原理主義的無神論ドグマに、やっと取り組むようになったのはよい兆候である。原理主義的無神論者はもちろん激しい反撃に出ている。それはおそらく宗教容認派にはわかっていないこと、因果
論的に閉ざされていない自然界という見方に含まれる深刻な意味合いが、彼らにはわかっているからである。
自然界に目的があるのは誰の目にも明らかだ。無神論者・唯物論者は、本来的に目的というものは存在しない、アリストテレス流の目的因のようなものは存在しないと主張する。しかし自然界の何一つとして、目的を考えないで理解できるものはない。科学は自然物の目的と目標への言及に浸透されている。無神論者が目的論を否定するのは、自然界における目的論を受け入れるなら、彼らの無神論信仰にとって破壊的な問題を引き起こすからである。原理主義的無神論者――世俗的僧侶たち−―は、彼らの信仰への挑戦をもみ消そうと必死に戦っているが、それは自然界の目的という問題を持ち出すことが、彼らへの返答になることがわかっているからである。無神論が質問を恐れるのには十分な理由がある。
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