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進化についての明晰な思考を要求する
―スティーヴン・バーへの3つの質問

By: John West
June 26, 2009

(編集者注――このところ、IDの主張を認めざるをえず、しかしその台頭を挫こうとして、無神論と有神論の「習合」のような議論、ダーウィニズムの恣意的解釈とIDの曲解に基づく奇怪なこじつけ理論など、いたずらに頭を混乱させるだけの議論や著書が出回っている。このような混乱した現状を分析し、何が問題なのかをはっきりさせる明晰なすぐれた文章として、ジョン・ウエストの反ID論者へのこの反論を訳出することにした。)

ダーウィン進化論とIDをめぐる論争の最も不幸な様相の一つは、その多くが誤解や戯画化、本当の対話を避けようとする態度に基づいていることである。悲しいことに、包み隠さぬ 対話をしようと言っている人々自身がそれを避けている。その意味で、進化、有神論、インテリジェント・デザインについて真剣に意見を交わそうとするStephen Barrの意欲は、推奨すべきもの、気持のよいものである。たとえお互いの立場を相手に納得させることはできなくても、それは真の論点がどこにあるのかを明らかにすることができ、確実に有益な結果 をもたらすだろう。

最近のバーの言い逃れのような議論を聞いた上で、私は少なくとも一つのことについて合意ができると思っている――ダーウィン進化論の問題について「明晰な思考をする」必要があるということだ。残念ながら、この明晰な思考の仕方が我々の間で違っているらしいのである。双方が望むこの明晰な思考のために、私は3つの質問をバー博士に問いかけてみたい――

1.あなたは進化が方向と導きを持たないというダーウィンの考え方を拒否されるのなら、なぜあなたは、自分の見解を「ダーウィニズム」とか「ダーウィン進化論」という言葉で呼んで、いたずらに議論を混乱させるようなことをしないで、その不一致を完全にはっきりさせるために、ご自身の進化論を「目的論的進化」あるいは「導かれた進化」と呼ばないのか? 

バーは私への応答の最新版の中で、「非常に多くの、おそらく大多数の進化生物学者は無神論者で、進化の原動力となるランダムな遺伝子変異という考え方は、進化が神によって導かれるという考え方に矛盾すると考えている。しかし私は、多くの人々がAはBを意味すると考えているからといって、我々がそれを信じなければならないとは考えない」と認めている。(この一節はその後バーによって削除された。)

バーは私の立場を誤って述べている。私は、進化生物学者たちが進化は導きと方向を持たないと信じているからといって、我々が進化は導きと方向を持たないと信ずべきだとは言っていない。私が言っているのは、現代の進化生物学者たちは、(ダーウィン自身が考えた通 りに)進化を盲目的で導きと方向を持たないものと規定しているということであり、したがって、異なった進化の規定をする人は、自分の考え方を「ダーウィニズム」だと言わない方が、より明確な思考を助けることになるということである。それを同一だとするバーの態度は、明確さでなく混乱をもたらすだけである。ところで前に指摘したように、バーはそう見ようとしているようだが、進化を導きと方向を持たないものと規定するのは無神論的進化論者だけではない。ケン・ミラーやジョージ・コインのように、進化は導きと方向を持たないと考える主流派の有神論的進化論者もいるのである。

バーは、私が科学者でないと指摘することを重要と考えている。まあそれはいいとしよう。しかしバーもまた進化生物学者ではない。そしてバーと違って私は喜んで、進化生物学者に彼ら自身の進化の定義をしてもらおうとしている。私は人が自分勝手にダーウィニズムを再定義して、本来のものでない意味を持たせることができると考えるのは、出すぎたことのように思える。バーは、彼自身が「ランダム」は導き・方向のないことを必ずしも意味しないと考えるがゆえに、生物学者がダーウィン進化を導き・方向のないプロセスと定義するのは非科学的だと考える。よろしい。しかしダーウィン理論は最初からそのようなものとして定義されてきたのである。バーは、新しい自分の考えによるダーウィニズムの定義を持ちだすより、単純にダーウィンの(導き・方向のない)進化論が非科学的だと言う方がいいのではないのか? なぜバーは、事実はそうでないのに、自分の考え方は「ダーウィニズム」と矛盾しないのだと、これほど主張したがるのだろうか? ダーウィニズムの意味を混乱させるバーのやり方は、彼が避けたいと言っているまさにその混乱と明確な思考の欠如を助長するだけである。

バーの試みるダーウィン進化論の再定義は、マルキシズムは――正しく定義すれば――キリスト教と衝突する必要がないと主張する人に似ている。その人はこう言うだろう――そうだ、ほとんどのマルクス主義者は無神論が彼らの哲学の中心にあると考えている、しかし我々はそう考えるのは間違いだということを知っている。ほら見ての通 り、マルキシズムとキリスト教は現在仲良くやっているではないか――。ほとんどの人は、マルキシズムとキリスト教の敵対関係のこのような「解決」がいかに空虚かを理解するだろう。もしマルキシズムから唯物論を抜き取るならば、それはもはやマルキシズムではなく、何か別 のものである。更に付け加えて言えることは、キリスト教徒に対してマルキシズムはキリスト教と対立するものでないと納得させたところで、その結果 マルキシズムはキリスト教にとって安全なものにはならない、ということである。それはキリスト教徒を騙して、マルキシズムは彼らの世界観にとって脅威ではないと(間違った)考えを持たせるためである。そのことのもう一つの結果 は、1980年代に流行ったような「解放神学」のような、奇妙なキリスト教の品位 下落へと道を開くことである。マルキシズムへのはるかにより有効な近づき方は、それが神への信仰と対立するものだと認めること、しかしそこから更に進んで、そうではない社会主義の他の形態もあると言うことではなかろうか?

同様に、進化は導かれたものと信ずる有神論的進化論者は、活動しているほとんどの進化生物学者が拒絶するような個人的信念によるダーウィニズムの再定義を提示するより、別 のタームを打ち出す方が、思考をよりはっきりさせることになるのではないか? 再び言うが、実際には相矛盾する見方を一つに融合しようと試みることに、どんな有用性があるだろうか? それは断じてバーの言う思考をはっきりさせる目的のために役立たない。(進化は導かれたものでないという)ダーウィニズムの中心思想を拒絶する(私のような)者には、バーは、ダーウィン進化論と折り合わないように思われるのを避けるためには、どんなことでもするかのように見える。なぜなのか?

2.あなたは、神が進化の結果 を知っておりかつ導いていることを認めると明言しているのだから、なぜ、あなたやフランシス・コリンズは、ケン・ミラーやジョージ・コインのような、導き・目的のない進化を唱える主流の有神論的進化論者の見解を、はっきりと拒否しないのか?

私への応答の中で、バーは全くひと言も、私が批判した生物学者ケネス・ミラーや前ヴァチカン天文学者のジョージ・コインのような、神は進化の特定の結果 を導くことも知ることもなかったと主張する主流の有神論的進化論者に、言及していない。なぜなのか? バーやフランシス・コリンズは共に公然と、IDと意見が違うがゆえにID唱道者たちを批判する。なぜ彼らは同じように率直に、神は進化の特定の結果 を知ることも計画することもなかったと主張する主流の有神論的進化論者たちを批判しないのか? そのように考える有神論的進化論者を批判するどころか、フランシス・コリンズはケネス・ミラーの仕事を褒め称え、神は未来を知らないとはっきり主張する「開かれた有神論者」の会議で、基調演説をしているのである。バーは、彼が何の疑問も感じないというコリンズの主張の中に、私がごまかしを見出していると言って批判するが、コリンズは彼の立場を誤解されても当然であるように私には思える。もしコリンズがバーと全く同じ考え(神は進化の結果 をすべて特定的に知っているという)を持っているのなら、なぜコリンズはわざわざ自分とは違う主張をする人々と組み、彼らを褒めるようなことをするのだろうか? 

彼の最近のブログ記事の終わり近くで、バーは、神は「その被造物によって知ることができる」(ロマ書1:20)という使徒パウロの言葉を不当にゆがめた読み方をすることによって、キリスト教神学伝統におけるデザインの役割を低く見ようといている。バーによれば、パウロは「知恵の書」の一節を繰り返しているのであり、その一節は明らかに天空の神のデザインを指している。しかしパウロは(知恵の書の著者と違って)天の星や惑星のことは言っていない。ある一節を著者の言っていないことに基づいて解釈するのは、いかがわしい戦略的読み方である。それ自体の言葉によって解釈すれば、パウロは明らかにあらゆる被造物に当てはまる原理を述べているのであって、天空の被造物のことだけを言っているのではない。面 白いことに、「知恵の書」のこの一節からでさえ、バーの指摘は信用できないことがわかる。この書の著者は更に進んで、「被造物の偉大さと美しさから、類推によってその作者が見て取れる」という一般 的な命題を述べているのである。ここで著者はおそらく天空だけでなく、一つの類別 としての被造物全体に当てはまる原則的な主張をしているのである。

かりにパウロと「知恵の書」についてのバーのゆがんだ読み方を受け入れるとしても、イエスが野の百合を取って、神のこの世界に対する配慮と思いやりの証拠としたことは無効にはならないし、生物世界のデザインの証拠に絶えず言及する初期の教父たちの一貫した文章も無効にはならない。正直に言えば、デザイン理論を生物学から閉め出そうとするバーの努力は、歴史上のキリスト教の教えの公平な解釈というより、何がなんでもダーウィニズムに逆らわないようにしようという動機から出ているようにみえる。

こう言った上で、私はバーが「世界にはデザインの証拠があると言っても、それはこの世界のすべてのものが、単独にそれだけを取ってみたとき、デザインの説得力ある証拠になるということを意味しない」と言っていることには同意する。誰が反対しているというのか? しかしダーウィニズムは、デザインの証拠がたくさんある中から一つ二つの例外を取り出してみせる理論ではない。それは人間の発達を含めた複雑な生命世界の発達のすべてを、盲目的で導かれないプロセスの産物として説明する理論である。それは、神が自然界を通 じて自分自身を顕現したという考えとは、かなり激しく正面 衝突する理論であるように思える。バーは、物理学や宇宙学においてデザインを論ずることはできるが、生物学でそれをわざわざ言う必要はないと確信しているようだ。しかし歴史的なキリスト教神学では間違いなく、人間を含めた生き物が、星や惑星と変わらずそれ以上にデザインの証拠となっているのである。

悲しいことは、バーの歴史的キリスト教神学の修正版は、ネオダーウィニズムへの無制限の、しかも無根拠の、信仰を動機としているようにみえることである。ランダムな変異に自然選択が働きかけることによって今日見られる生物の微調整された複雑さが生じたという考えは、科学的証拠によって支持されるものでは全くない。ダーウィン的メカニズムはせいぜいごく些細な変化をもたらすことができるだけのようである。これを疑う人はマイケル・ビーヒーのThe Edge of Evolutionや、これら[リンクの指示あり]の議論のいくつかを読んでみられるがよい。

ブログ記事の終わり近くでは、バーは、生物学において完全にデザインを否定することは支持できないと認めているようだ。そこで彼は、いろいろ言ってみたが結局、生物学のデザインの証拠はあるのかもしれないと示唆している――

私がある種の生物学のデザイン論を、あやふやで素朴だと批判しようとしたからといって、それはすべての生物学的デザイン論がそうだと私が考えているということではない。私は有効な生物学的デザイン論はありうると思う。しかしそれを今日の知識ある人々を納得させるような方法で定式化するのは、かなり難しい課題だろうと思う。

もしバーが本当に「有効な生物学的デザイン論がありうる」と考えているのなら、私は彼のことをID唱道者だと考えたい。しかしバーは、「生物学に基づくすべてのデザイン論が「インテリジェント・デザイン運動」の推進しているような種類のものではなく、そのすべてがダーウィン進化論をウソだと前提しているわけではない」とも言っている。

私には、どんな種類の生物学的議論をインテリジェント・デザイン運動が推進しているとバーが考えているのか、よくわからない。確かにデザイン唱道者の間にはいろいろな議論があり、すべてのデザイン唱道者がすべての問題において合意しているわけではない。デザイン唱道者が間違いなく共有しているのは、自然界を通 じての、証拠に基づく、そして聖書やその他の聖典に基づくのでない推理を根拠とする、デザインの検出可能性に対する開かれた姿勢である。もしバーに、この約束を共有する気があるなら、彼は「インテリジェント・デザイン運動」にかかわっている科学者・哲学者に合意するのではないかと思われる。

にもかかわらず、彼が「すべての生物学に基づくデザイン論が、ダーウィン進化論をウソだと前提しているわけでない」と言っているのには、私は混乱させられる。私の知っている生物学のデザイン論は、ダーウィニズムをウソだと「前提」してはいない。そうでなく、それらは証拠に基づいて、ネオダーウィニズムの自然選択とランダムな変異のメカニズムは、それが主張するような結果 を生みだすことはできない、と論じているのである。その上で彼らは、意図をもつデザインを想定する方がよりよい説明だろう、と言っているのである。しかしおそらくバーの言いたいのは単に、ダーウィン進化論と矛盾しない生物学のデザイン論があるということだろう。もしバーがそう主張するなら、彼が考えている他の種類の理論についてもっと語ってほしいものだ――彼は我々が合意できることを発見するかもしれないのだから。

もしバーの言う意味が、生物学のデザイン論はダーウィンの共通 祖先の理論(ダーウィンの導かれない選択のメカニズムとランダムな変異に対して)に敵対する必要がないというだけなら、彼は確かに正しい。生物学のデザイン論は共通 祖先という考えと必ずしも対立しない。もちろんこれは過去数十年、繰り返しID唱道者の間で議論されてきたことで、私はこれをDarwin’s Conservativesの中で強調している。

同様に、バーの言う意味が、ダーウィンは最初の自己複製する生物の存在を想定しただけだから、生物の起源についての理論でダーウィニズムと衝突する必要のないデザイン論があるということなら、それも私は同意することができる。「インテリジェント・デザイン運動」の主唱者たちもおそらく同意するだろう。実際スティーヴン・マイヤーの新著Signature in the Cellは、最初の生命の起源ということについて説得力あるデザイン論を打ち出している。マイヤーははっきりと、ダーウィン理論は生命の起源に関するものではないと言っている。

しかしながらバーの言いたいのが、最初の生命より以後の、生物学的複雑さの発達についてダーウィニズムと衝突しないデザイン理論があるということなら、その主張を支持することは難しいと思われる。バーによって再定義されたダーウィニズムにおいてさえ、生命世界の発展は「ランダムな」変異によって推進されるものと思われる。私の理解するところでは、バーは「ランダム」という言葉を、人間の立場から、一つの出来事が見分けうるパターンを何ら示さず、いかなる予言も可能でないという意味に定義している。しかしもし進化がこの意味での「ランダムな」出来事によって推進されるのなら、複雑な生命の発達がどうしてデザインの証拠を示すことができるのか、理解することができない。「ランダムな」変異は、人間の目にははっきりしたパターンは見えないが、神は知っており神によって計画されたものだと主張することと、そのような「ランダムな」出来事がデザインの証拠を示していると主張することとは、全く別 のことである。

このことはバー博士への最後の質問へと私を導く――

3.もしダーウィニズムが真理であり、生命の発達が本当に、見分けうるパターンも示さず予言することもできないランダムな変異によって推進されるのなら、ではいかなる意味において、あなたは生物学がデザインの証拠を我々に与えていると考えるのか?

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