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ダーウィンと毛沢東

David Klinghoffer
December 26, 2009

私のブログの読者Paul Burnettがこう言って私をからかった――

いいぞ、デイヴィド、いっそ「ダーウィンは、ヒトラーとスターリンと毛沢東とポル・ポトに大量 殺人のやり方を教えた」と言ったらどうだ。

もちろんこれは、ダーウィニズムとその歴史的影響について私が書いたことの滑稽なパロディーである。私はダーウィンと毛沢東の関係についてひと言も書いてはいない。・・・しかし、ポール、あなたがそう言うなら、今私の机の上に『中国とチャールズ・ダーウィン』という本がある。これはバックネル大学の中国学者James Reeve Puseyによる1983年ハーヴァード大学出版の本だ。Puseyは有名なハーヴァード大学総長・故Nathan Puseyの息子だ。ひとつ、この本の結論部分を読んでみようじゃないか。こう書いてある――

毛沢東は最後には、マルクス・レーニン主義はたった一つの文句に煮詰めることができる、それは「造反有理」(反逆は正当化される)というものだ、と主張した。しかしこの標準的翻訳は、反逆が有しているとここで言われている「理」(理由あるいは原理)のもつ力を曖昧にしている。新しいコンテクストでのこの新儒教の「理」は、反逆は自然の法則であるということを意味しており、毛沢東がこの教えを学んだのはマルクスからでなく、梁啓超や孫文からで、後者二人は理解の当否はどうであれ、これをダーウィンから学んだのである。なぜなら革命の「理」は進化ということにある、と彼らは言っているからである。

ダーウィンは革命を正当化し、そのことによって梁啓超、胡適、毛沢東(そしてもちろん他の多くの人々)の文化革命、そして孫文、蒋介石、毛沢東の政治革命に力を与えたのであった。だからこの事実から見ると、ダーウィンを最も必要としたのは毛沢東のようであり、現にその通 りなのである。マルクス主義者を(生き残るべき)最適者にするにはダーウィンが必要だった。

ダーウィンは(伝統的思想を覆すことによって)何かマルクス主義のようなものを大声で求めるイデオロギー的空白を作り出した。そして彼は、その何ものかがどういうものであるべきかの基準を確立したのである。新しい時代の、適応する、ふさわしいイデオロギーは、進化論的進歩という西洋科学に基づいたものでなければならなかった。それは人間の社会的発展の、不可避的で自然な諸段階を明確にするものでなければならなかった。それは歴史的必然性を約束するが、同時に人間の行動を決定的に重要なものと認めるものでなければならなかった。それは闘争を基礎にしなければならないが、同時に党員間の相互扶助を強調するものでなければならなかった。それは中国の内外の憂患を中国人を責めることなしに説明するために、非人種的な敵を設定するものでなければならなかった。そしてそれは負け犬にチャンスを与えるものでなければならなかった。

この最後の規定は想像力をどう働かせてもダーウィンのものではない。しかし我々の見てきた中国のすべてのダーウィニストが、負け犬にチャンスを与えるものとダーウィンを解釈した・・・

またこうも言っている――

人は進化の「道」(方向)を予見できるという考えから、予見能力をもつ者は、その「道」が要求すると考えられる闘争における、義務と言わないまでも、特別 の権利を有するものと考えられるようになった。したがってダーウィンは皮肉にも、一種の新しい宗教的全知主義と、それに伴う新しい種類の宗教的自尊と宗教的不寛容を作り出す力になったのである。・・・

毛沢東は1964年になっても、腹を立てた時には「すべての悪鬼どもは殲滅しなければならない」と毒づき、時には伝統的な誇張を用い、時には社会ダーウィニズム的な「リアリズム」を用いて彼の敵を非人間化した。他の無政府主義者と同じく、彼は反動分子を絶滅に値する、進化の逆を行く者とみた。人民の敵は非人間であり、人間として扱われるに値しない者たちであった。

Puseyは同じテーマでもっと簡潔に「ネイチャー」11月号に書いている。

誤解をしないでほしい。Puseyはこの問題については公平な、学者としてふさわしい資格をもった人である。ダーウィンの影響力は大きかった。しかし彼はまた特に中国との関連で正しい理解をされていなかった。もちろんいずれにせよ、毛はダーウィンの物語の一番あとにくるだろう。

にもかかわらず、あなたがダーウィンと毛沢東の関係の話を聞くのはきっと初めてだろうと思う。もっともほとんどの人が、マルクスやレーニンやヒトラーとダーウィンの関係を知らないでいる。それを聞いたほとんどの人が、それを通 ぶった態度だとして退ける。

私はなぜ、話のこの関連性が抑圧されているのか不思議だ。私の言いたいのは、宗教への濡れ衣はおなじみのもので、十字軍の話はキリスト教物語の一部になっている。新約聖書のどこを見てもそんな濡れ衣を導き出せる箇所がないにもかかわらず、である。9・11より前、キリスト教バッシングの流行が絶頂期だったころ、同じような非難がイスラム教に向けられて、その歴史的残虐行為の理由にされるということはなかった。イスラム教バッシングが盛んになった今、アラブ人やイラン人の一部がイスラム教を誤解しているのだという論調はめったに聞かれない。そう言う人があっても、それはイスラム・ファッシズムに甘いのだとあざけられる。

思想とその影響の話になると、なぜきまって、ダーウィニズムは真実を糊塗されて無罪放免ということになるのに、宗教は厳しく責任を問われるのだろうか? これは単なる修辞的疑問ではない。本当にわからないから教えてほしいと言っているのだ。

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