科学に救いを求める宗教と伝道者たち

Salvo Magazine (Summer 2009)
By Regis Nicoll

過去百年間における科学の成功は驚異的としか言いようがない。ほんのひと時に過ぎない人類歴史において、科学技術はほろ馬車隊からスペース・シャトルへ、瀉血(訳注1)から抗生物質へ、馬の力から原子力へ、煙信号からインターネットへと進歩した。

この前例のない成功ゆえに、「真理」に言及しただけでも冷笑する皮肉屋たちでさえ、かつては天上の存在とその化身に対して払われていた敬意をもって科学を扱う。

科学を一般に普及させたゲーリー・ズーカフを例に挙げる。ベストセラーThe Dancing Wu Li Masters(『踊る物理学者たち』)の著者である彼は、「インドやチベットに巡礼に行く必要はない。そこで学ぶことも多いが、国内のもっとも思いもよらない場所、粒子加速器やコンピューターの只中においても、私たちの“形なき道”は現れつつある」と驚嘆する。

故カール・セーガンは、現代科学も宗教的信仰と同じ畏敬の念や好奇心を生じさせると主張した。その上で、科学に基づく宗教が広く受け入れられるようになるだろうと予見した。同様に、ジュリアン・ハクスリーはその何年も前に、科学が真に生命力ある宗教の基礎となる時代を予測した。

もっとも偉大な物語

今日、ひも理論や気候変動、ブラック・ホール、最新の化石発見に関するテレビのスペシャル番組やニュース記事の数から判断して、メディアも一般 大衆も、科学者の難解な仮説に夢中になっているのは明らかだ。神託を告げる者たちでさえ自らの想像の魔力のとりこになっている。

例えば、ニュートリノ――原子以下の亡霊のごとき粒子――がビッグバンの最初の産物であるという最近の理論に言及したある科学者は、「私たちはニュートリノの子孫です!彼らは私たちの親です」と空想してみせた。別 の研究者も熱狂的に、「ニュートリノは私たちがなぜ存在するのかを教えてくれるかも知れません」と応じた。

しかし、カッシーニ・プロジェクトの研究者キャロリン・ポルコ(Carolyn Porco)ほど科学の宗教的特質を熱心に訴える人物はいない。ポルコ博士は、宗教が人類の文化から切り離すことのできない一部であることを認めているが、それは科学がよりよくとは言わないまでも、等しく満たし得る一部なのである。

エネルギーから物質、基本粒子からDNA、微生物からホモ・サピエンス、ビッグバンの特異点から広大な宇宙に至るまで、私たちの歴史はかつて語られた中でもっとも偉大な物語である。

もっとも偉大かどうかはともかく、彼女が崇拝する唯物論は間違いなく驚嘆すべきほら話だ。ポルコ博士は続ける――「私たちはあらゆる原子核の中、時空構造の中、直観に反する電磁力のメカニズムの中に神々を見出します。何と豊かなのでしょう!何と完成された美しさなのでしょう!」まあ、何でもよいが。

前提条件の犠牲者

ようこそ科学万能主義へ。科学万能主義は、ニュートリノから超新星、そしてそれらに驚嘆する意識存在に至るまで、すべてが科学によって説明可能な物質的プロセスに還元できるという確信に基づく信仰体系である。その確信は、観察された事実や実験で得た証拠ではなく、自然主義的科学へのドグマ的信仰に立脚している。科学万能主義では自然が神である。科学は啓示で、科学者は新たな釈義学者である。

ポルコ博士の言葉を繰り返すように、生物学者ステュアート・カウフマンも「『神』の再発明」としての宇宙を信奉することによって「神聖な存在を再発明しよう」と催促する。自然にゆるぎない信仰をもつ彼は、終始、ダーウィン進化を含む自然法則は我々の知る世界を説明できない、と認める。「自然法則のかなたに・・・やむことのない創造性が存在する」とまで言うが、神への扉を開こうとしているのかと思いきや、「超自然的な創造主は抜きにして」と付け加える。

ステュアート・カウフマンは自らの主張の前提条件の犠牲者である。神が排除された世界では、宇宙がそれ自体の原因であり結果 であるという不合理から逃れられない。「無からの創造」(creation ex nihilo)は畏敬の念を起させるが、「無による創造」(creation per nihilo)は、可能な限り遠慮した表現をしても、貧しい考え方だ。怪奇趣味ドラマ「Xファイル」から取り出したような理論でこの落とし穴を避けようと試みた人々もいる。

ドキュメンタリー映画『追放――インテリジェンスは許されない』でダーウィニズムの代弁者P. Z. マイヤーズとリチャード・ドーキンズは、生命はどのように「命を宿した」のかと尋ねられた。二人とも分からないと認めたが、さらに追及されると、マイヤーズは生命の素が水晶の背に乗って宇宙から運ばれてきた、などとつぶやいた。ドーキンズはたどたどしく、生命は地球外文明から始まったと言い出した。しかし、もし地球上で生命が芽生えるための時間が十分になかったとすれば、他の場所ではさらに短い時間しかなかったはずである。ドーキンズは確実にそれを知っているはずだ。

しかし「宇宙に存在するすべての生命、すべての知性、すべての創造、そしてすべての“デザイン”は直接間接的にダーウィンの自然選択の産物である」と一度認めてしまった者にとって、残された選択肢はほとんどない。

独断的傾向がそれほど強くない人びとから見れば、水晶や知性をもつ異星人といった理論は、科学というよりサイエントロジーの香りがする。実際、視野の狭い科学万能主義への信仰は、ロン・ハバードが喜びそうな「時空」宗教へとつながり、独自の教会的モデルまで持つようになった。

「末日科学者教会」

ポルコ博士は式典や儀式、宣教師、使徒を完備した「末日科学者教会」(Church of Latter Day Scientists)を構想している。粒子加速器や天文台を聖地とし、博物館やプラネタリウム、講堂を礼拝施設とする。福音伝道者たちはダーウィンの叡智を称えながら「福音のみことば」を伝える。彼女の宗教には教会での礼拝まで含まれる。

私たち皆を地球につなぎとめ、地球を太陽に、太陽を銀河系につなぎとめている重力。そのフォース(力)を称える信徒たちの集いを想像してみて下さい。・・・太古から続く宇宙に捧げられる讃美歌の歌声が聞えませんか?・・・彼らは「ハレルヤ!」と歌うでしょう。「フォースがあなたと共にありますように!」

キャロリン・ポルコが讃美歌のようにスター・ウォーズのキャッチフレーズを唱える一方、マイケル・ダウド(Michael Dowd)牧師は福音を説いて説教壇を飛び回る。――いや、イエス・キリストによる救いの福音ではなく、チャールズ・ダーウィンによる解放とエンパワーメントである。

ダウドは自身のウェブサイトで、ダーウィンは「原罪の物語などと比べてはるかに経験主義的な手法で人間の性質を論じている」と説明する。ニューヨークタイムズ紙の記事は、進化は「私たちの性格的なもろさや依存症、不誠実、その他の道徳的欠陥を、何十億年にもわたる適応の副産物として説明する。そして、ダウドによれば、そのことが私たちを解放してくれるかもしれない。つまり、罪の意識を持たなくても、ひとたび自分の罪深さを理解すれば、私たちはそれを克服することができる」と付け加えた。

それでも重荷が軽くなって楽にならないなら、「進化の日曜日」礼拝を試してみてはどうだろう。「進化の日曜日」はチャールズ・ダーウィンと彼の進化論を祝う教会行事だ。今年このような行事を指揮したある司祭は、Salvoのコラムニスト、デニーズ・オレアリーに次のような言い分を述べた。

私が話をする間、この集会のすべての参加者は650万年前の頭足動物の化石を手にしていました。・・・彼らは自分の想像力程度の神と出会うことにうんざりしているのです。・・・イエスの中に、私は生物学的、社会的、精神的変化の最前線に立つ「救世主」の姿を見出しました。彼はマタイ6章で自分自身の思考の進化を示しています。「あなたがたも聞いているとおり・・・しかし、わたしは言っておく・・・。」

思考(そしておそらくその本質も)が進化する救世主? それならリチャード・ドーキンズでも崇拝できるかもしれない。私には、これから何年も先、決して根付くことのない信仰に従う者たちが、もっと希望のあった時代を懐かしげに回顧しながら、次のように熱心に説教する姿が目に浮かぶ。

それはセーガンにとって十分(な救世主)だった。
ポルコにとっては十分だった。
ドーキンズにとっては十分だった。
私にとっても十分だ。

訳注1:治療の目的で、患者の静脈から血液の一部を体外に除去すること。(広辞苑第5版)

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