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アヤラ惑星からの眺め

David Klinghoffer
March 22, 2010

カリフォルニア大学アーヴィン校の、2010テンプルトン賞を受賞した生物学者Francisco J. Ayalaは、ID攻撃によってよく知られた学者だ。彼はIDを一種の神聖冒涜だとさえ言って非難するが、その理由は、生物の発展を導くデザイナーに意図と目的を持たせようとするからだと言う。何と奇妙なことを聞くものだ。そんなことを言えば、キリスト教やユダヤ教のほとんどの主流神学も「神聖冒涜」ということになってしまう。こんな特別 過激な言葉を使う前に、アヤラ教授ほどのすぐれた学者なら、もう少し注意深く考える時間を取るべきだと人は思うであろう。

アヤラに関する限り、この期待はしばしば失望に終わる。読者は記憶されているかもしれないが、彼がスティーヴン・マイヤーの近著『細胞の中の署名』を批判するように勧誘されたとき、彼はこれを引き受け、この本を読んだかのように書評を書いた。しかし実は、マイヤー本の目次を一瞥すれば誰の目にも明らかなことだが、彼はそれさえしていなかった。この勧誘は、ダーウィンの応援をキリスト教の立場からする、Darrel Falk博士が主筆を務めるウェブサイトBioLogosからのものである。フォークは『細胞の中の署名』を読んでいて、所見を書いているのである。だから、彼はアヤラのエッセイを発表する前に、目を通 していると思われる。

このエピソードは、誰でもID陣営の一人が公平に声を聞いてもらうことが、いかに難しいかを物語るものである。アヤラは、マイヤー博士の本に何が書いてあるのかも知らないで、これを批判したのである。フォークは、それがマイヤーの本のテーマを歪めるものであることを知りながら、アヤラの攻撃を発表した。しかしこれは同時に、過去10年間、哲学者、生物学者、物理学者、その他の科学者たちが論じてきたレベルの高いID問題を、アヤラが全く知らないことを暴露したことにもなる。アヤラが有名になったのは、科学と宗教の仲を取り持つ距離を置いた調停者としてであり、これは彼自身の学識や判断や知性を、究極の諸問題に振り向ける能力があるという想定に基づいている。もしあなたが、ある考え方について十分に知識を得るための時間を取っていないとしたら、それに対するどれだけ意味のある反応をする自信があるか? 

私はアヤラ博士を傷つけるつもりはない。しかし彼が反応しているのは、ありのままの人々や考え方に対してでなく、彼自身の頭の中で作り上げたもの、彼の想像したものに対してであるらしい、と言ってもよいだろう。彼が最近行われたIDをめぐる討論の中で、ひどく叩かれたのはそのせいであろう。ロスアンゼルス・タイムズでさえ、このテンプルトン賞受賞者を扱った記事の中でこう言っている――

昨秋アヤラは、ID支持者として著名なインディアナ大学のWilliam Lane Craigと論争をした。さまざまなインターネットによる評価によると、この一夕はアヤラの勝利とは言えなかったようだ。(「彼は完全にやっつけられたHe got womped」と、あるアヤラの同調者は書いている。)アヤラによれば、彼が討論するのだとは了解していなかったし、いずれにせよ討論はこの論戦にけりをつけるよい方法だとは思わない、のだそうだ。

おかしな話である。数年前、私は雑誌Townhallに、大学や他の研究機関のID支持者たちが弾圧されている現状について書いたことがある。これを書くと同時に、私は数人の著名な有神論的進化論者や他のダーウィン弁護者たちにeメールによる質問状を送ったが、その中の一人がフランシスコ・アヤラだった。私はこう質問した――

ID批判者たちは、ID理論にいろいろ欠点がある中の1つは、それが調査研究のバックアップを受けたことがないことだと言っています。試みに想像してみてください――大学に雇用されている科学者でこのような研究をしたいと思っている人がいると。彼はそのようにする完全な自由を持つでしょうか? それともID支持者が言っているように、彼は同僚や監督者からの圧力によって、それを諦めてしまう可能性の方が大きいでしょうか? 

これに対してアヤラはこう回答した――

彼はそうする自由を持つでしょう。真摯な科学者や大学管理者ならだれでも、だれか他の研究者が立派に計画された研究プロジェクト(実は、ほとんどいかなるプロジェクトでも)を実行するのをやめさせようとするなどとは、私には想像もできません。我々が望むどんな研究でも、これを追求する我々の自由は、どんな他の学問的価値にも劣らぬ 価値をもつ貴重なものです。

いったいこの人はどこの惑星に住んでいるのだろう? スターンバーグ、ゴンザレス、クロッカー、マークス、ミニック、デムスキー、その他ここに名をあげない人たち、更には復讐を恐れて名を明かすことのできない大勢の人たち――こういった人たちの経験のあとで、アヤラの言明が全く、完全に、全面 的に誤っていることは明らかだろう。ダーウィンを疑うという問題になると、真摯な科学者たちが怖気づくのは正当な理由がある。声をあげることに対する恐れは、そのことを口に出しても、あなたの見解は批判されるだけということもあるが、それだけではない。それは一般 の人々の、また職業仲間の偏見を助長するように曲解されて、あなたの不利に働くからである。

スティーヴン・マイヤーの本のアヤラ博士の書評という形で我々がもつのは、それがいかに強力に働いているかを示す縮図のような、明白な例証である。

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