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化石「イーダ」の空騒ぎ、無知の遡及的告白、宣伝の狙い

Casey Luskin
April 10, 2010

前にもここで論じたように(リンク)、進化論者はしばしば、「ミッシング・リンク」をやっと発見したと考えたときに初めて、問題となっていた進化的移行とされているものについて、自分たちが実はいかに無知だったかを告白しても安全と考えるようだ。化石「イーダ」(Ida、注:ダーウィン生誕200年に合わせて大々的に宣伝され、人類とサルをつなぐとされたキツネザルの化石、発見者の娘の名にちなむ)の場合にそうであったように、この「リンク」が信用できないものと分かったときに、どういうことが起きるか? 後に残されるのは、進化についての多くの無知の告白と、新ためて露呈されたギャップを埋めるべきリンクが何もないという認識である。

イーダについて書かれたColin Tudgeの著書The Link: Uncovering Our Earliest Ancestor (Little Brown & Co, 2009)がとても面白いのは、その意味においてである。タッジは、霊長類が人類へとつながっていくと想定される、初期の進化を説明するミッシング・リンクを手に入れたと考えた。そのためこの本は、霊長類の進化についての進化論者の無知を、後から遡及的に認める告白のようなものに満ちている。例えばこんな具合だ――

化石記録のギャップのために、古生物学者は、原始的な霊長類より後に何が起こったのかについて仮説に頼らざるを得なかったのだが、今彼らは、4000万年前までに、2つの別 の霊長類グループ――濡れた鼻をもつキツネザル(lemur)やドウケザル(loris)の仲間と乾いた鼻をもつメガネザル(tarsier)や類人猿や小型猿の仲間――が存在していたことを知るに至った。始新世(the Eocene)のどの時点かで、霊長類進化のこの重要な分裂が起こったのである。それがなければ、我々の知るような人類は存在しなかっただろう。写 真の化石[イーダ]が発見されるまでは、この分裂を証明する中間種の完全な骨格が発見されたことはなかった。Hurumは早くも(fast)、彼が目にしているこの種は、科学の聖杯の一つ――決定的な時代のミッシング・リンク――でありうると結論付けている。(同書p.13)

ただもちろん現在では、Jorn Hurum(ノルウェイの古生物学者、オスロ大学地質学博物館勤務、The Linkの序文を書いている)がミッシング・リンクを発見したと結論したのは、少し早すぎた(too fast)ことが明らかになりつつある(リンク)。その意味は、明らかに我々は「この分裂を証明する中間種」を、必ずしも手にしているわけではないということだ。

タッジは続けて、始新世の霊長類進化の化石証拠が欠如していることを認めている――

霊長類進化の根本的な移行が、始新世を通 じて、5600万年から3400万年前に起こっている。多くの科学者が、人類に直結する霊長類が始新世のアフリカ・サハラ砂漠南部に生存していたに違いないと論じているが、化石記録の広大なギャップのために、それらが正確にはどんな種類の霊長類であったかは分かっていなかった。そこで初めて、その完全な状態の、そして将来への展望をもつIdaの研究が、霊長類進化の新しい章を開くことになるのだ。イーダは類人猿の歴史を複雑にすると同時に、それは複雑な類人猿の軌跡を1つの骨格の形にまとめて示してくれることによって、移行が類人猿の偉大な筋書きのどこで起こったのかのヒントを与えてくれる。(pp.101-102)

ただ現在では、これには多くの批判があり(リンク)、例えば「多くの証拠の系列が、Darwinius(イーダの学名)は人間の進化とは全く何の関係もないことを示している」とか、「Darwiniusについて驚くべきことは、その保存状態がほぼ完全であるにもかかわらず、我々がすでに、非常に近い種の多くの化石から知っていること以外には、ほとんど何も教えてくれないことである」とか言われている。

それで始新世以後はどうなったのだろうか? この本The Linkは、「始新世後の類人猿について我々は実のところどれくらい知っているのだろうか?」と問うたあと、こう認めている――「どれくらい知っているかという問いに対する短い答えは、相変わらずNot much(大して知らない)というものだ。」(p.173) もっと詳しく言えば、この本は、過去500万年の類人猿進化を記録する化石証拠が、きわめて少ないことを認めている――

類人猿の化石記録はきわめて乏しく、過去500万年の意味ある見本として存在する ものは50ほどにすぎない。最も有名なのは、1974年11月Donald Johansonによって発見された320万年前のアウストラロピテクスLucyである。ルーシーは直立歩行した類人猿の最初の証拠――我々を他の類人猿から分ける我々自身の進化の決定的なリンク――を供することによって科学に革命をもたらした。しかし驚くべき見本と考えられているこのルーシーも、40%の完全さにすぎない。(pp.16-17)

本書The LinkがイーダについてJorn Hurumの言葉を引いて言っているように,あなたが「初期の類人猿進化のイコン」(p.243)、「その後何世代にもわたる我々人類の初期の進化のイメージ」(p.229)となるものを手にしていると考えているときに、この種の告白がいとも容易くなされているのである。

イーダの神学的/環境保護的落とし所
タッジの著書The Linkは、高校生や大学生に向けて書かれているようで、彼らの科学や古生物学への関心を喚起しようとしているようだ。そのこと自体に問題はない。ただこの本には同時に、イーダの売り込みに伴って我々の慣らされてしまった、あらゆる誇大虚偽宣伝を用いて、学生たちがダーウィニズムを受け入れるように導こうとする意図がありありと見えている。それは学生たちに対して、ダーウィニズムを受け入れるために、彼らの宗教的信仰は修正されるべきだと説得しようとさえしている。興味深い次のような一節を読んでみよ――

その上、と[リチャード]オーウェンは言った、もしある種の(熊のような)動物が連続的に徐々に変化することによって、全く違った(鯨のような)何かに変わることができたとしたら、化石記録には中間型が多く含まれていなければならない。ところがそういうことはなく、中間型は見当たらない。要するにミッシング・リンクが存在する。オーウェンは、化石記録がダーウィンの考え方を粉砕したと言った。我々は、あらゆる理由をもって、ダーウィンが正しい――必ずしも細目においてではないが原理的には確かに正しい、と言うことができる。生き物は時間をかけて、通 常はより単純な始まりから進化してきた。いかなる割り込みもなく、概して変化はゆっくりしていた。しかしオーウェンの批判は、昔も現在も正当なものでもある。もし我々の頼りにするものが化石記録だけだったら、我々は創世記の文字通 りの解釈を信ずる方に傾くかもしれない。ではこの矛盾に我々はどう対処すべきなのか? そしてこのことがイーダとどう関係するのか?(pp.16-17)


私著者が、あたかもホモ・サピエンスがサルの一種であるかのように、サルと我々自身を一緒にして「我々」と言っていることに、違和感を覚える読者がおられるであろう。実際、4700万年も前の、類人猿とさえ言えない動物イーダを、家族のアルバムの中の祖先として、大叔母さんのように見ることは奇妙なことではないだろうか? 確かに我々はこれらの動物よりすぐれている。そうでないかのように言うのは冒涜であろう。多くの人がそう考えてきた。多くの哲学者や僧職者が、生物学者が大胆にも我々と他の動物たちとの近縁関係を強調することを非難してきた。・・・しかしまた多くの哲学者や僧職者、それにもちろん生物学者が、他の動物との近縁関係を恥じることがなかったのである。アッシジの聖フランシスは、キリスト教聖者の中でも最もキリストに近いと感じられる人だが、彼は動物も植物も彼の兄弟姉妹だと宣言した。チャールズ・ダーウィンも、すべての動物は遠い昔に共通 の祖先から生じたに違いないと論ずることによって、実質的にこれが文字通 り真実だと言ったのである。もしすべてが神の創造物だとしたら、なぜ我々だけが超然としていられるだろうか? そんなに偉いと自分を考える我々とは何なのか?(pp.245-46)

仮想的学生の読者に対して、有神論的・進化論的・宗教的ものの見方を押し出した後で、The Linkは環境保護の大切さを強調する切り口上で結ばれる。しかしここには深い考え違いがある。つまりタッジは、もしあなたがダーウィン進化論を支持しないなら、あなたは環境保護を支持しないことになると想定しているのである。しかし私の経験では、あらゆる系統の多くのクリスチャン――有神論的進化論者やダーウィン懐疑者――が環境保護の重要さを認識している。

確実なのは、人は、われわれの世界の特別 さとそれを保護し維持することの重要さを認識するのに、自分がイーダの親戚 であると信ずる必要はないということである。それにタッジの過ちは、環境保護主義を動機づけるためには、人間の例外的な位 置を否定しなければならないと考えるところにある。

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