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宗教家に正しい信仰を教える無神論ダーウィニスト
Casey Luskin
May 13, 2010
無神論者が宗教家たちに、正しい神信仰のあり方を教えているのを見るのは面
白い光景だ。これは無神論者が宗教家たちに、神を信じないように説得しているという話ではない。それならわかる。私が言っているのは、無神論者たちが宗教家に対して、いかに正しく神信仰を続けるかを教えようとしているという話である。私にとってこれが無上に面
白いのは、無神論者は知っての通り、信仰を堅持することにかけては専門家だからである。マイケル・ルース(Ruse)はその代表的な例である。
ルースは無神論者で(彼は「もはや神を信じないことで私の肩の荷が下りた」と言っている)自称「前クリスチャン」だが、彼は数年前、『ダーウィニストはクリスチャンであり得るか』という本を書き、「もちろん!」(Absolutely!)
と答えている(p.217)。ところでルースは最近UK Guardianに論文を書き、余人ならぬ
カンタベリー大司教に正しい信仰のあり方を教えている。
日常の物事の働きから神を切り離すべきだ。もしカンタベリー大司教のように、どうしても神は法則を破って奇跡を起こさなければならないと言うなら――もし三日目に墓が空になっていなかったら、彼はきっと大司教にならずクエーカー信徒になっていただろう――それならせめて、神の活動を我々の救済の原因に限定すべきだ。
神(と大司教)はきっと、マイケル・ルースの言葉には耳を傾けなければなるまいと思うことだろう。ルースのこの書き物は、進化論者が彼らの立場を主張するために神学を用いるという最近の傾向の延長にある。彼はIDは「非常に悪い神学」だと非難し、我々がデザインを推論するとき、「悪の問題がその醜い頭をもたげてくる」と不平を言う。しかしルースの神学的反論は、ユダヤ・キリスト教の何千年にもわたる「悪の問題」への解答を注意深く無視することを要求するものである。神学的な意味合いはどうであれ、私はこうした問題には科学的なアプローチを選び、IDを科学的なレンズを通
して判断することを選ぶ。もし科学的証拠がIDの方向を指しているなら、なぜ神学的な懸念(この場合大いに考え違いな懸念)が科学的結論の邪魔をしなければならないのか?
このありさまは二重に滑稽である。無神論者が宗教的な人々に信仰の持ち方を指南するだけではない。無神論的進化論のロビイストたちが、公然と臆面
もなく、神学に科学的探究の道を妨害させようとしているのである。これは彼らが常にIDに向ける同じ非難を利用するものである。Cornelius
Hunterの本のテーマ――ダーウィニズムの多くの議論は科学でなく神学に基づいているという――を確認するものである。なぜこういう、進化論ロビーの無神論者たちが、神と進化論の両立可能を宣伝するために、神学的議論を利用するという妙なことが起こるのだろうか? 答えは、彼らの言動が何よりも政治的に動機付けられているということである。
そのいい例としてChris Mooneyがいる。2009年11月のPublic
Radio Internationalとのインタビューで、ムーニーは宗教的な人々に向かって「聖典の伝統的な読み方は、いろいろな意味のレベルを認めています。聖典は、科学が科学のレベルで言っているのとは違うレベルで何かを言っていることがあり、両方とも正しいのです」と忠告している。もちろん彼は、それよりあまり遠くない過去に、「私は今までと全く変わらず無神論者だ」と明言している。
これが面白いのは、2001年のState誌のムーニー論文では、ダーウィニズムは、聖典のある解釈との単なる矛盾をはるかに超えた、本来的な反有神論的意味合いをもっている、と言っているからである――
ダーウィニズムは生命の起源について、いかなる超自然的要素ももたない説明を提供 するもので、好意あふれる神という観念とは折り合わない自然選択の残酷で暴力的なプロセスを強調するものである。そのため進化論を学ぶ多くの学生は、彼らが教え込まれてきた宗教を疑問視するようになるのだ。
(Chris Mooney, “Darwin’s Sanitized Idea,” State,
September 24, 2001.)
もちろんムーニーはどんなことでも信ずる権利をもつが、どうして調子を変えたのだろうか? そこには単純な政治的動機があって、ルースやムーニーのような無神論者たちは、進化論と宗教とは両立するという説教を始めるようになったのである。
ルースの、IDは「合衆国憲法を政治的・合法的にうまくかわすために科学を装っているにすぎない」という偽った非難にもかかわらず、真実は、彼の運動の方が憲法上の懸念につき動かされて、進化論と宗教の両立性を宣伝しているのである。ルースと新無神論者ダニエル・デネットの間に交わされた、その内情のよくわかる、次のやり取りをご覧いただきたい。これはルースが2006年、ウィリアム・デムスキーに公然と洩らしたものである――
私はあなた[ダニエル・デネット]とリチャード[ドーキンズ]は、インテリジェント・デザインとの戦いにおいて完全にダメ人間(absolute
disasters)だと思っている。我々はこの戦いに負けかかっているのだ。その要因のかなりの部分は、これを教室へ持ち込むことに賛意を示している二人の最高裁判事だ。我々が必要としているのは型通
りの無神論(knee-jerk atheism)ではなくて、この問題との真剣な取り組みだ。あなたがたはどちらも、キリスト教を真剣に学んでその考え方に関わろうとしない。リチャードが言っているような、キリスト教は単に悪の勢力だなどという主張は、全く馬鹿げていてグロテスクに非道徳的だ。もっと大事なことは我々が戦っているということで、戦いに必要なのは同盟者であって、善意の人たちを誰もかれも遠ざけることではない。
次にあげるのはムーニーの発言だが、その趣旨はほとんど変わらない――
[ジェリー]コインや新無神論者たちの言うことが正しくて、進化論(あるいは科学そのもの)が本当は中立ではないとしても、それが何だ。科学と宗教の間に本当は根本的な反目があったとしても、それが何だ。方法論的自然主義と哲学的自然主義の区別
が本当はなくて、前者は後者を必然的にするとしても、それが何だ。…私が恐れるのは、新無神論者たちがこの点を強調することになったら、反進化論者どもが今後の法廷において、深刻な面
倒を引き起こすだろうということである。これが新無神論について憂慮される一つの理由である。
ここでわかってきたことは、ルースやムーニーのような無神論者は、憲法上の懸念から神と進化論との両立性を宣伝しているということである。彼らは、もし無神論と進化論があまりにも強く結びついたら、進化論教育が憲法違反になる恐れがあることを恐れているのである。そのため彼らは、神と進化論は両立すると説教して廻ることによって、この問題を繕うのがよいと思っているのである。
ところで彼らは、神と進化論を両立させることは可能だと純粋に信じているのかもしれない。しかしそうだとしても忘れてはならないのは、彼らはともに、個人的には神への信仰を拒絶する熱心な進化論者、無神論者であり、両立論者の観点を推進することの法的・政治的な動機を公然と認めていることである。少なくともこれは、少し胡散臭い話ではないか?
いずれにしてもこれによって、神と進化論の両立可能性を説いて廻るこの奇妙な無神論者たちの運動を、説明することができるだろう。
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