人を誤らせる罪深い思考枠
渡辺 久義
世界日報 May 20, 2010
学者の世界には読まずに書評をする人がいる。まさかと思われるだろうが、これは代表的ID(インテリジェント・デザイン)主唱者スティーヴン・マイヤーの大著『細胞の中の署名』に対して起こったことである。
この本は昨年出版されベストセラーとなり、高い評価を得て、権威ある書評紙「タイムズ文芸付録」の「ブックス・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。一方で、反IDのある高名な米生物学者の書評が出たが、彼はこの本の目次にさえ目を通
していないことが判明した。言語道断の話だが、これはID派への攻撃を象徴するものだといってよい。
なぜ読まずに批評したか? それは読んでも冷静に読めないからであり、彼らから見れば、読まなくてもわかっているロクでもない本だからであろう。これは自分の信仰を崩されるような本は読めない、従って読まない、という人間に共通
の心理に基づくものである。ただ問題はこれが科学者の所業だということで、唯物論科学というものが、いかに理性でなく信仰の対象であるかをこれは物語っている。
この本は意見でなく証拠をあげての論証だから、なおさら読んでみる勇気が出ないのであろう。まさに科学的精神に逆行するものである。この本は論述そのものからみてもすぐれている。的確な言葉で対象を正確に狙い撃ちするように明瞭に書かれている。これは科学だろうと文芸批評だろうと小説だろうと同じことで、すぐれた本の条件である。ある好意的な書評によれば、「冷たくして供するのが最上の料理のように、しかし唯物論的パラダイムの根幹を揺るがすのに十分な熱を帯びて」この本は書かれている。
ところがこの本に限らないが、反対派はこういう本を批評するのに「不正直」「不誠実」といった言葉をよく使う。この一事からみても、教育上この上なく悪いことが起こっているのが、我々の唯物論文化というものである。(我々の翻訳書『意味に満ちた宇宙』に対しても「犯罪的な」本だと批評した人がいる。)
私と原田正氏の近著『ダーウィニズム150年の偽装』でも強調したが、人間を根本的に狂わせるものが唯物論文化に内在するのである。ID派が知能・人格ともにすぐれており、反ID派が知能・人格とも劣っているとは考えられない。これは明らかに唯物論パラダイムという歪んだ思考枠のせいである。生命も心も物質から発生すると教えるような哲学(宗教)は、どんな優秀な人間をも愚か者にしてしまうのである。このような哲学をもつ者にとっては、科学的探究と人間の生き方の探究は全く別
物で、これを統一的に見るような者は宗教かぶれの似非科学者だと主張する。
パラダイム・シフトというのは、旧来の物の見方をすっかり変えてしまうことでなく、より高次の観点からの再統合・再構成であって、いわば世界を照らし出す電灯の、さらに上からもう一つの電灯が照らすようなものである。これは旧来の電灯しかあり得ないと考える人には、間違った見方、反科学、科学破壊に見えるのである。
『細胞の中の署名』は、反対派の立場も公平に考慮しながら、慎重な論理展開によって生命起源の問題を論ずるものだが、これまでの科学的成果
を踏まえ、伝統的な歴史科学の方法と常識的推論に従って突き詰めていけば、デザイン(構想、情報、意志の働き)が最初にあったという結論しか残らないではないか、と言っているのである。要するに、「最初に言葉(ロゴス)があった」(ヨハネ伝冒頭)ということである。
しかし初めから「聞く耳をもたない」者には何も聞こえない。唯物論者は、言葉(細胞内の遺伝子情報、デジタル・コード)も物理的な偶然の産物として説明できると依怙地に言い張る。IDに対する守旧派の頑迷さや執拗な曲解を、「ドッグ・ホイッスル」の効果
にたとえた人がいる。これは犬には聞こえるが人間には聞こえない高周波音のことで、(読まないで書評をするような)頑迷な人々には、このドッグ・ホイッスル(サイレント・ホイッスルともいう)をその面
前でどんなに強く吹き鳴らし続けても、何も聞こえないのだと言う。結局人は、自分の信ずる、あるいは信ずるように躾けられた世界観以外は、受け付けないように出来ているということであろう。
IDに対する迫害は現在も続いている。つい最近も、NASAの優秀な研究技術リーダーが、ID関係のDVDを同僚たちに(勤務時間外に)見るように貸し与えたというだけで、職責を解かれた。同僚たちから苦情が出たわけでもなく、NASAでは生命起源問題が公的な課題になっているのだから、むしろこれは当然の行動と言ってよいという。これなども唯物論パラダイムの危機を感じ、これを護ろうとする崇高な使命感をもった上司から出ているとしか考えられない。
我が国でも、大新聞やNHKが時々ダーウィンの大特集をやるが、これも北朝鮮で時々行われる、危機感から来る「思想的引き締め」に似たものである。
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