Evolution News & Views

米法と科学教育を台無しにするNature Immunology論説

Casey Luskin
July 21, 2010

5月のNature Immunology誌の編集論説は、宗教的な人々――Francis Collinsのようなネオダーウィン進化論者でさえ――が科学の権威ある地位 につくことを認めないことを明らかにしている。この論説は以下のように言っている――

NIH(国立衛生研究所)所長[Francis Collins] の公然と宗教的なスタンスは、米国の科学教育に好ましくない影響を及ぼす可能性がある。…コリンズはその著書の序や出版時のインタービューで、宇宙やその法則や、創造の究極目的としての人間を創った、非自然的で計測不能、証明不能の神格への信仰を表明している。科学者が、このような神の創造した法則や複雑な構造を理解しようと努力する人たちであるかのように言うことは、創造論信奉者のための機会を与えることになる、と憂慮する人たちもいるだろう。(“Of faith and reason,” Nature Immunology, Vol. 11(5):357 (May 2010).)

Nature Immunology誌の編集者たちが、明らかに臆面 もなく宗教に不寛容で、明らかに自分たちの宗教を根拠に人々を差別 しようとしている事実は脇に置くとして、果たしてこの雑誌に、アメリカ人の科学教育を引き受ける資格があるかどうかを我々は問わなければならない。彼らはこう書く――

驚くべきことに、アメリカは科学の世界的リーダーであるにもかかわらず、いまだに科学教育の問題になると悩み悶えている。クリエーショニズムがひそかに公立学校のカリキュラムに戻ってきつつある。そしてその最近の形であるインテリジェント・デザインが、2005年の「キッツミラー対ドーヴァー学区裁判」において、合衆国最高裁がこれを科学カリキュラムに取り入れることを違憲と裁定したとき、大敗北を喫したにもかかわらず、クリエーショニストがカムバックしつつある。(同上)

これほど多くの間違いに、我々はどこから手をつけたらよいのだろうか?

IDが「クリエーショニズム」だという主張のような基本的な誤ちは別 にして、この雑誌の編集者たちはアメリカの法律をよく知らないようだ。2005年にIDに不利な裁定を下したのは合衆国最高裁ではなく、米連邦法廷システムのある最も低いレベルの裁判所、ペンシルヴェニア州中央区の連邦地裁である。合衆国最高裁はまだIDの教育問題を扱っていない。

このコメントについてもう一つ面白いのは、アメリカがこれだけ多くのネオダーウィニズム懐疑者をもちながら、「科学の世界的リーダー」であるのは「驚くべき」だと言っている点である。これは多分、人は完全な科学者でありながら、ネオダーウィニズムの合意を拒否することがきるからであろう。

この論説はさらに進んでアメリカの科学教育に苦言を呈している。面 白いのは、「2008年、ルイジアナ州立法府は『現在研究されている科学諸理論――進化論や生命起源論を含むがそれに限らない――についての開かれた客観的な議論』を許容する法案を通 過させた」と不満を述べていることである。これはその通 りで間違いない。ルイジアナ州が進化についての「開かれた客観的な議論」をする自由を教師に認めたことは、恐怖の中の恐怖なのだ! 

論説の次の文章そのものが、もう一つの歴然たる間違いを含んでいる――

2009年、テキサス教育委員会は、化石記録が進化の説得力ある証拠だということに対する疑いを含む、インテリジェント・デザイン文献の考え方を取り込んだ新しい基準を採択した。「批判的な思考スキル」を推進するという名目を装ったこうした決定は、創造論者が論争を教えることを可能にするものだ。これは進化論の信用をなくさせ、インテリジェント・デザインを有力な代替案として取り入れることを目論む戦術である。これらの法案に反対する人々が、そのような議論は宗教や文化や哲学の授業に属するもので、科学のカリキュラムには属さないと指摘するのは正しい。

ここで問題は、テキサスの教育基準はどこにもID教育に言及もしておらず、許容もしていないということである。テキサスの採択した正確な文言は、学生が「科学的説明を分析・評価・批判すること、…それらの科学的説明の科学的証拠のすべての面 を吟味し、批判的思考を涵養すること」を要求するものである。それはまた学生が、コアとなる進化に関する主張――「共通 祖先」「自然選択」「突然変異」「突然の出現」「細胞の複雑さ」の起源、「自己複製する生命に対するDNA分子のような、情報をもつ長い複雑な分子」の形成など――を「分析し評価する」ことを要求するものである。

進化という問題に関しては、テキサスの新しい科学基準には、科学的分析と評価と批判以外には何も規定がない。IDのような進化論に代わるものを仮定するようなことは全くない。

進化論教育のテキサス流アプローチは、すぐれた科学教育の例である。サイエンス誌に載ったある最近の論文によれば、科学の学習では、教えられている概念を「サポートする、またサポートしない」証拠を学ぶことで教育効果 が上がることがわかった。この論文はさらに「科学においては議論や論争が普通 のことであるのに、科学教育にはそれがほとんどない」と嘆いている。

その結論でNature Immunologyの編集者は、「人間が恐竜と一緒に生きていたというような錯覚を抱いたまま、学校を卒業するような者があってはならない」と言っている。しかしそれは「ヤング・アース・クリエーショニズム」の話であって、ルイジアナやテキサスやその他アメリカ各州のカリキュラムには断じてないものである。

ではなぜNature Immunologyは、心配ごとをねつ造し、すぐれた科学教育を歎くのだろうか? 理由は単純である――

最近私がUniversity of St. Thomas Journal of Law & Public Policyで説明したように、主導的な科学の権威者たちは、批判的思考、懐疑、代替説明の考慮などを含めた、問いかけに基づく科学教育の重要さを認めている。がしかし進化論教育の方法を推奨する段になると、そのような教育学的哲学をうまく退けるのである。これこそNature Immunologyが、2008年、ルイジアナ州が「現在研究されている科学諸理論――進化論や生命起源論を含むがそれに限らない――についての開かれた客観的な議論」を許容する法案を通 過させたというだけの好ましい穏やかな出来事に、青くなりうろたえる理由である。

最新情報INDEX