世界日報ビューポイント

ファウストと悪魔とID理論
―「初めに言あり」をめぐる解釈

渡辺 久義
2010. 7. 26

「初めに言(ことば)があった、言は神と共にあった、言は神であった」という新約聖書「ヨハネによる福音書」冒頭は有名だが、大多数の人々にとって、これは現実離れしたキリスト教の特殊な教義を述べたもののように聞こえるであろう。私自身も長い間そう考えていた。これは唯物論文化の中では、人はこの聖書の言葉が理解できるようになっていないからである。ほとんど誰もが、初めにあったのは物質とか物力といったものだろうと考える。

ゲーテの『ファウスト』でさえ、主人公が聖書を翻訳しながら、この箇所には「最初からつかえてしまう」と嘆く場面 がある。それでファウストは「言」でなく「意(こころ)」か「力」か、いっそのこと「行い」ならどうだろうと独り言をいう。これを聞きつけたメフィストフェレス(悪魔)が、聖書ではこれに続いて、「すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」とあるのを受けて、本当はどうなのか悪魔の正しい解釈を言って聞かせる。

本当は闇が光を生んだのだから「まず光に勝算はありませんな。どうあせっても、なにせ光は物体にへばりついているのですからね。光というやつは物体から流れ出て、それを美しく見せますが、光の行く手は物体に阻まれるのです。だから光などというものは、遠からず物体と一緒に滅んでしまうでしょうよ」(高橋義孝訳)と、冷笑して言う。この冷笑的解釈こそ、今日の唯物論科学者の解釈であることを銘記すべきである。結局ファウスト(ゲーテ)にも、心の底にこの悪魔の解釈に傾くものがあったがゆえに、堕落への道が開かれたのだと考えることができる。

もしもゲーテが、新しい科学パラダイムとして台頭しつつあるインテリジェント・デザイン理論(ID)や今日の分子生物学を知ったとしら、仰天するとともに、『ファウスト』は根本から成り立たなくなったかもしれない。ID(特にスティーヴン・マイヤーの『細胞の中の署名』)とは、生命や宇宙の起源について、「最初に言葉があった」つまり最初にインテリジェンス――心、計画、意志、意図、情報――があったことを論証する理論である。ファウストが「言(ことば)」の代替案として考えた「意(こころ)」「力」「行い」もすべて、このインテリジェンス概念に含まれている。それは創造意志だからである。言い換えに悩む必要はなかった。

生命起源を考える現代の科学者は、生命のためにはそれを構成するタンパク質の製造を指令する情報、すなわちDNAの担うデジタル・コードが不可欠であることを一致して認める。しかしその情報の起源を、偶然あるいは必然(物理化学的法則)によって、あるいは単なるアルゴリズムによって説明しようとするいかなる彼らの試みも、ついにうまくいかなかった、とマイヤーは、これまでの科学者の試みを丹念に分析吟味しながら指摘する。それらは成功したように見えても、何らかのインテリジェンスをあらかじめひそかに介入させていること、つまり生命を説明するのに「一つとしてこれ(初めにあった言)によらないものはなかった」ことを指摘する。唯物論的な生命起源論は実は、「説明しなければならないもの、すなわち情報を前提としなければ成り立たない」のである。

実はマイヤー自身もメフィストテレス的前提から出発したのである。それが疑問を増幅させていくうちに、唯物論科学者自身が皮肉にも自らを否定する証拠を提供していることに気付き、聖書的結論に導かれることになった。目に見えないものが最初にあり、目に見えないものを目に見えるものから説明することはできないのである。

この本が多くの支持者とともに、多くの敵――実は読む勇気をもたない者――をもつことは前に指摘した。これは「世界を奥の奥で統べているものは何か」を究めようとするゲーテのファウストでさえ、正しく理解できなかった近代科学の宿痾である。IDの導く結論はある意味で当たり前のことなのだが、その当たり前のことを理解困難にしているものは何か。それは「自然科学の訓練を受けている我々には、心という領域に訴えることは頼りなく曖昧で、計測不能で、非科学的なことに思える。我々は反射的に、内省や通 常の経験から得られる、心がなしうることについての知識を軽視し、代わりに、実験的研究を通 じて学んだことだけを信用する」からだとマイヤーは言う。

この本の結論は、IDに対する守旧派の異常な敵意にもかかわらず、いたって控え目である――「ID理論と、現在現れている、これに有利な有無を言わさぬ 証拠について、私を興奮させるものは、この理論がこれらの問題に解答を与えるということでなく、それらが問うに価する問題だと考えるべき理由を、再び提出したことである。」

最新情報INDEX