Evolution News & Views

エリック・ホッファーのダーウィニズム批判

Tom Bethell (The American Spectator編集主任、ゲスト・ブロッガ−)
August 30, 2010

何年も前に、私はEric Hoffer(1896-1983)をインタビューしたことがある。多分私がそれを行った最後のジャーナリストであろう。沖仲士哲学者として広く知られたホッファーは長年、サンフランシスコの港湾労働者組合のメンバーであったが、彼の見解は、予想される沖仲士のものではなかった。彼は1951年にすでにThe True Believerを出版しており、その後もさらに多くの本を出版した。私は彼の心の広さと見解の非凡さに強く心を動かされ、手紙を書いて訪問インタビューを願い出た。1980年のことだった。彼は私を自宅に招いてくれた。

彼は著書にこう書いていた――「19世紀中ごろに神が死んだとき、直ちにそれに続いて、自然と人間性の分離を逆転しようとする傾向が現れてきた。」 ダーウィニズムと彼の時代の知的潮流は、「人間性を自然に還元することを目指していた。」生物学的には、人間は今や「高級な猿」以上のものではないと見られた。政治学的には、人間は毛沢東やスターリンによって自由に操作される自動機械であった。

人間は思い上がった猿以上のものではないという考えを受け入れていた多くの思想家たちに同調することを拒否したとき、ホッファーは哲学者としての最もすばらしい面 を示した。それは彼の最も独立不羈の側面を示すものだった。そして人間だけのもつ特質を自覚することから、彼は人間をつくった創造者の考察に向かっていった。

サンフランシスコの彼の家に着くなり、私はいきなり進化を信じているかどうか彼に尋ねた。彼は即座に答えて言った――「神を信じる方がずっと楽ですよ。」

後に私は、彼の書きものが研究者に公開されているHoover研究所で、彼の論文を調べてみた。私はあるノートブックに次のような言葉を発見した――

自然が心をもたないという考えは我々をぞっとさせる――特に自然の構造の細部の統一的つながり(dovetailing)や数学的正確さを考えるならば。…最も緻密な知力のみが考案し得ることを、偶然が途方もなく長い時間をかけてやってのけるというのは、我々をぞっとさせる考えだ。そしてこの恐怖(気味悪さ)は、自然の働きにおける全知なる神の手を認めるように我々を仕向ける。我々は偶然というものには耐えられず、心の底では本当はそんなものを信じていない。我々は神を信じる方がよほど容易いのだ。

彼はまた、宗教と科学が対立するかのように考える現代の傾向に抵抗した。それどころか初期の科学者たちは、歴然として彼らの回りに存在する創造物からインスピレーションを得たのだ。彼らは神がどのようにしてそうしたのかを解き明かそうとした。科学はこのような神の作品の研究から生まれたものである。

「神と機械の時代」という評論でホッファーは、ガリレオとかケプラーのような初期の科学者は、「創造物の全体を計画しデザインした神――数学と技術の大家である神――本当に心から信じていた」と強調しこう書いている――

近代科学の誕生期の人々を動かし導いたのは、ある特別 の神の概念であったと言えば、現代人の耳には奇妙に聞こえるだろう。彼らは何かを発見するたびごとに、神との接触を感じていたのだ。自然界の数学的法則を求める彼らの探究は、ある程度まで宗教的探求であった。自然は神のテキストであり、数学の記号は神のアルファベットであった。

ホッファーが進化論を疑ったことはあまり知られていない。しかし多くの思慮深い人々は、たとえこの問題について研究したことがなくても、心の中ではダーウィニズムを拒否していると私は思う。法律家のNorman Macbethが昔私に語ったように、「我々はそれが真理ではないことを身体の芯で知っている。」

マクベスは『ダーウィンの引退』(Darwin Retired)という偉大な小さな本を1970年代に書いたが、私がこの問題を研究し始めたのは、彼との会話が発端である。マクベスの言葉が私の頭に残っていて、なぜ進化論への反対がこれほど広まっているのかを説明するのに、今でもこれが役立っている。

リチャード・ドーキンズは最近の著The Greatest Show on Earth(邦訳、『進化の存在証明』)でこう言っている――

進化の証拠は日ごとに増していて、今ほど強力なことはかつてなかった。同時に逆説的なことに、体をなさないそれへの反対論も、今ほど強力だった時代は私の記憶にはない。

進化の証拠が増していると彼は言うが、事実はその正反対である。実際は、それはますます希薄になっている。このことを理解する鍵は、ホッファーの「自然の構造の細部の統一的つながりや数学的正確さ」という言葉である。我々が生命を分子レベルにおいて研究すればするほど、その統一的つながりはますます正確なものになっていく。現在、これがランダムな変種の自然選択によって起こったと信ずるのは不可能になっている。

19世紀には、マックス・シュルツやエルンスト・ヘッケルのような、ダーウィンのドイツの同時代人たちは、細胞とは「単純な原形質の塊」であると考えていた。これは純粋な作りごとであり、当時の唯物論者たちが、ダーウィン進化論をよりもっともらしくするためにそう考えたのであった。それ以後150年の間に我々の学んだすべてが、細胞は「未分化の原形質」どころか、その複雑さにおいて現代のハイテク工場を凌ぐものであることを示している。

「人間ゲノム計画」以前には、我々は遺伝子とは何かを知っていると考えていた――それはきちんとした形のヌクレオチド配列であった。現在、それはあまりにも複雑であるために、おそらく旧来の遺伝子概念は棄てなければならなくなっている(“What Is a Gene?”Nature, 2006を見よ)。研究が進むにつれて、細部の統一的つながりは、あらゆるレベルにおいて、ますます正確なものであることが示されている。それがどのようにして起こったかを我々が知っているかのように言うのは、まぎれもない欺瞞である。

ドーキンズの言い草とは逆に、進化の証拠とされるものは、一日ごとにもっともらしさを失っている。

最新情報INDEX