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ダーウィニズム道徳―彼らの真理は我々を元気づける

David Klinghoffer
September 8, 2010

ダーウィニズムに何も恐れるものはないのだから安心せよ、とは進化論弁明者からよく聞く言葉である。ダーウィン的思考は、道徳や宗教、また人生の究極の意味への信仰を脅かすものではない、と我々はよく聞かされる。それどころか、それは善良で美しいすべてのものを強化するのだ、と。Karl Giberson のHuffington Postに載った最近のコラム記事「ダーウィンは私のバプテストとしての真理の探究を支えてくれる」は、この種の弁明のほとんど完璧なサンプルとして、ガラスケースに納め保存しておくに値する。

誰でも自分に正直な人なら、これはプロパガンダであり希望的思考であることが分かる。しかし、それにもかかわらず、ダーウィニスト自身がその真理を告白し、宣伝さえするのを聞くと、我々には元気が出てくる。

ダーウィニズムを信奉する学者やジャーナリストは、彼らの仲間にとって、驚くほどの正直さと思えるに違いない書き方で物を書いている。こうした驚くようなあけすけの書きものの一例は、Christopher RyanとCacilda Jethaの最近の著書Sex at Dawn『原初のセックス』で、この本は、進化論的な人間の祖先が、子孫をつくる標準的な習慣として、集団セックスを楽しんだとして描いている。グループセックスは彼らのルールだったのであり、したがって彼らの子孫である我々に、夫婦関係の忠実さを求めるべき理由は全くないのだという。

Scientific American 誌のウェブサイトに、心理学者のJesse Beringが、一つのブログ記事を費やして、性的な正邪の構造をそっくり放棄する記事を書いている――

もちろん多くの重要な警告すべき点はあるが、基本的な論理は、人間とはもともと一夫一婦にできているのでなく、むしろ自然選択によって、はっきりと「婚外性交相手」を求めるように、つまり心をもたない自分の遺伝子の増殖のために配偶者以外の誰かとセックスするようにできているのだから、したがって、こうした深い哺乳類の本能を抑圧することは無意味であり、もっと悪いことに、それは本来の正直で健全な人間関係を必然的に破壊することになる。

ベーリング博士はある感情を込めて、進化論的心理学の観点からすれば、ふられたセックスパートナーへの感情移入もまた、ある役割を果 たすことを認めている。しかし概して言えば――

正邪は関係がない。あるのはただ、そのコンテクスト内で、生物学的適応という観点から、うまく行くか行かないかという問題である。

Philosophy Now誌の今月号で、Joel Marksは自分のことを、新たに生まれた無道徳主義者(amoralist)だと称している。彼はかつては道徳的無神論者だったが、今では昔の幻影を振り棄て、平然として「堅固な無神論者」hard atheistを自称し、「実際、私は道徳をすっかり捨てたのだ!」と言っている。自分の立場を支持してくれる科学について、彼はこう言う――

ダーウィニズムとの類比に注目してほしい。かつては、特に生物の見事な環境への適合に現れる、宇宙の明白で豊富なデザインの存在は、神的デザイナーの存在を示すものだというのが、標準的な神の存在証明であった。今では我々は、生物学的進化論が、神に訴えることなしに、完全にこの適合性を説明できることを知っている。したがって、いかなるデザイナーもデザインも存在しない。デザインに見えるものが自然界に存在するだけだ(ビーバーの作るダム、鳥の巣、建築家の青写 真のような工作物は除いて)。ちょうどそのように、道徳的な命令というものはなく、その見かけだけがあるのであり、それは選択――生物の生き残りを最もよく助ける振る舞いや動機(「道徳的直観」や「良心」)の選択――によって説明することができる。こうした現象を説明するのに神に訴える必要がないように、「道徳」に訴える必要はない。

「無道徳宣言(パート1)」と名付けられたこの論文は、マークス博士がこの新しく抱懐することになった自由によって何をしようとしているのか、我々にとって気懸りである。彼は現在、ニューヘイヴン大学を引退した哲学名誉教授である。しかしこのような人物でさえ、何か重大な悪なる行動に陥るということはありうる。何となく不安なことに、彼は結論として次のように書いている――「〈罪深い〉とか〈悪〉という言葉が、例えば子供を性の対象とすることについて自然に口に上ってくるが、そうした言葉は、現実の何について何の特質を指すものでもない。」

ロンドンのIndependent紙上でHelen Croydonは、『原初のセックス』によってスパークされた「ポップ人類学ブーム」に祝意を述べ、カナダのブリティッシュ・コロンビア州最高裁が、重婚的関係の不法性について再考し始めたことに賛辞を送っている。裁判所は「社会学者や進化学者の研究を参照しながら、一夫一婦の家族単位 が本当に理想郷に至る道かどうかを判定しようと試みている。」クロイドン女史は人間の思い上がりをこう言って叱っている――

我々ホモ・サピエンスは、現実にそうあるより、もっと進化の程度が進んでいるかの  ように思い込んでいる。我々はロマンティックな理想像の上で、(夫婦仲の良いとされる)白鳥程度にも進化していない。彼ら白鳥は、実際は、魅力ある若い娘に向かって鳴きたてることもなく、互いに羽をむしり合って喜んでいるのだ。

似つかわしくないことだが、ブリティッシュ・コロンビアは、まさに時代精神の最も濃厚な所である。最近、Cameron Diazとか、フランスのファーストレディCarla Bruniといった有名人たちが、生涯にわたる忠誠を小馬鹿にするような発言をしている。「ニューズウィーク」の書評欄で『原初のセックス』を評しながら、Kate Daileyは一夫一婦制に関して、「これは自然なことじゃないのね、ヒョ―!」と、新発見に安堵したかのようだ。

いやはや何と言えばよいのか。私の言った通 りではないか。これらの評論家たちは、ある科学的思考――もしそれが本当だとしたら、自己抑制、忠誠、家庭の基盤そのものをシュレッダーにかけるような思考――から出てくる道徳的意味を正直に認めているにすぎない。ダーウィン的前提を与えられるならば、我々の取り得る選択肢は3つしかない――ジバーソン流の自己欺瞞、それを真理と認めること(これは恐ろしい選択だ)、またはプロパガンダの点稼ぎのために嘘をつくこと。どれを選択ぶ? 男も女も、特に男にとって、よい人間であることのなんと難しい時代であることよ!

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