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「贖罪の日」に有神論的進化論の道徳的意味を考える

David Klinghoffer
September 17, 2010

今夜はヨム・キプル(Yom Kippur)、ユダヤ教の「贖罪の日」、過ぎ去った一年の我々の道徳的な罪を振り返り、我々の父であり王としての神に、悔悛を受け入れて下さるように願う日である。これまでこの場所で、我々は折にふれて、人間がいかにしてこの世界に存在するようになったかについてダーウィン的見方を受け入れることの、神学的意味合いを考えてきた。いわゆる有神論的進化論の見方では、神は、何か人間のようなものが、他の点では盲目的で目的のないダーウィン進化論の過程から出現することを望んだかもしれないが、神を我々の創造者またはデザイナーと見るのは行き過ぎだ、というものだ。そのような考え方の道徳的意味はどうなるだろうか?

ヨム・キプルの連祷の言葉に、「この魂はあなたのもの、この肉体もあなたの創られたものです。あなたの労作に憐れみを垂れ給え」と神に願うところがある。ラビJoseph Soloveitchikによるこの箇所の解説に、このように問題が提起されている――「創造者は彼の創造物に憐れみをもっている。これは何であれ許しを乞うことの最大の根拠の一つである。なぜなら、どうして神が、その創造物に対して怒り続けられることがありえようか? たとえ我々が自分の立場では許しに値しないとしても、神は我々に、我々の創造者として慈悲をかけ給うのである。」

神とは、有神論的進化論者が考えるように、非常に限られた意味でのみ我々の創造者だと考えてもよいのであろうか? 私はそうは思わない。神が許すに値しない者を許してくださる存在だという我々の主張は、神が我々を――個人的にも人種としても――意図され、デザインされ、製作されたことに大きく依存している。個人的なことを言えば、私は父親として、私の子供たちが本当にひどい行いをしたときでさえ、ずっと怒り続けることはできないが、それは私が彼らを愛していて、私の子供だからというだけでなく、そもそも彼らのこの世での存在の責任の一端を私が負うているからである。彼らはいわば私の労苦の結果 である。どうして私は、彼らに腹を立て続けることができるだろう? 

もし父親と、いずれにせよ罪のない子供の関係がそういうものであるなら、良心に多くのやましい所をもつ大人は、彼自身の天なる父にもっと許しを乞わなければなるまい。我々は現実に神の創造の目的を反映する存在で、正真正銘の神の「作品」であり「神の労苦の結実」である可能性を認める科学的見解のもとでは、我々は神の許しの現実性を主張することができる。それは非常に大きな現実性で、おそらく子供にとっての現世の父親の許しの現実性以上のものであろう。

しかし有神論的進化論に見られるように、我々がこの世に生まれたことへの神の関与という見方が極端に希薄な現代では、私が神の許しということを主張しても、理解してもらうことははるかにもっと難しいだろう。意味があるという意味で神の作品でなければ、いったいどんな関係を私は神に対して持つのだろうか?

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