Evolution News & Views

新無神論者の「無神学」

Michael Egnor
November 2, 2010

P. Z. Myers が「新無神論者は現実に何を信じているのか?」(October 21, 2010)という私の質問状の8項目の質問に回答してきた。マイヤーズは「即席で手軽な」(fast and flippant)回答と断っているが、それでもそれは「新無神論無神学」のけっこうな要約となっている。もっと詳しい、本の形の新無神論者(ドーキンズやハリスなど)の弁護論は、これほど速答ではないが、同じくらい手軽なものだ。

まず私からの元の質問を記し、次にマイヤーズの回答、最後に私のそれへの応答を述べることにする――

1)そもそもなぜ、ものが存在するのか?

マイヤーズ: 無は不安定だ。

私: 無は不安定ではない。無は安定ではない。無は超安定でも、準安定でも、疑似安定でもない。無は無である。無は何の特性ももたない。「無は不安定だ」というのは訳のわからない詭弁である。だからこそこれが新無神論無神学の中心的位 置を占める。

もし「無」という言葉で、マイヤーズが量子的ゆらぎによる物質の出現(今はやりの新無神論の有神論回避法)を言っているのなら、私は量 子場は「無」ではないと言う。量子場は、説明はできないが、非常に強く何ものかである。量 子場は粒子を生じさせるのであって、それ自体を生じさせるのではない。あなたは量 子場の存在を説明しなければならない。やってみる価値がある。

「なぜものが、そもそも存在するのか」という問いは根本的なものである。古典的な有神論者の答えは、神の本質は神の存在であり、神は存在の根拠だというものであった。神(古典的に理解された神)は説明も原因も必要としていないことに注目せよ。神の原因を必要としない性質は、古典的有神論によって証明されたのであって、取りきめられたのではない。(アリストテレスの第一動者(Prime Mover)論やアクイナスの第一、第二、第三の道論を見ればよい。)その上、第一動者論(アクイナスの第一の道)は、たとえ宇宙が永遠で始まりをもたないとしても、神の存在が必要だということ、神の存在は、宇宙の存在のために一瞬ごとに必要なことを証明しているのである。

新無神論者はこの問題を理解できず、学術用語が理解できず、彼ら自身の初歩的な論理矛盾を理解できない。新無神論者が無知であることが古典的有神論が真理であったことを意味するわけではない。新無神論が言うべきことを何も持たないだけである。しかし私は何となくそのように感じた。

2)何が宇宙を生ぜしめたのか(何が宇宙の原因となったのか)?

マイヤーズ: 無が原因となった。

私: 「無」はどんなものの原因にもならない。無とは存在の欠如である。無は作用力をもたない。「無が原因となる」というのは撞着語法である。


この質問に対する首尾一貫した回答を見てみよう。基本的な宇宙論の議論はこうなる ――1)何にせよ存在し始めるものは別のものが原因となる。2)この宇宙は存在し始めた。3)この宇宙は何か別 のものが原因となった。存在し始めるあるものは自分自身の原因であることはできない。なぜなら、それは自分自身より先にあったことになるからで、これはナンセンスである。

宇宙は137.5プラス/マイナス1.7億年前に存在し始めた。だから別 のものがその原因となった。宇宙は自然であるから、その原因は「超自然」である。宇宙の超自然的原因は、科学と理性によって与えられる洞察的事実である。宇宙の超自然的原因を否定することは、科学(ビッグバン宇宙論)と理性(基本的論理)を否定することである。

代替説明を考えてみよう――

1)宇宙の生まれる原因となったのは、量子のゆらぎかもしれず、ブラックホールかもしれず、うんざりするような多重宇宙の多産能力かもしれない。しかしその場合、因果 の問題が量子場、ブラックホール、あるいは多重宇宙に移行するだけである。何が量 子場を、母胎となるブラックホールを、忌々しい全多重宇宙そのものを生ぜしめたのか? 主題をすり替えることはできない。

2)「原因」という言葉がそもそも宇宙にはあてはまらないのかもしれない。宇宙はカントの言う物自体(noumenon)であって現象(phenomenon)ではなく、我々が感知するものを支配するルールに従うものでないかもしれない。(これは宇宙論の議論を制止するカントの先手である。)

しかし2)の主張が本当だとすると、「充足理由の原理」(principle of sufficient reason)が根拠のないものになる。充足理由の原理というのは、あなた方新無神論者に突きつけられた、何であれ生起するものには理由があるという原理である。それは存在し始めるすべてに原因があるということである。もしあなた方が充足理由の原理を、有神論へのかかわりを避けるために否定するなら、宇宙の中のより小さいもの(ウサギとか原人とか)も同様に、理由なしにポンと現れたと主張しても何の問題もないことになる。もし仕組み全体が理由を必要としなければ、その中の何一つ理由を必要としない。どんな場合にでも「理由なしにできた」と言うことができる。生物がすべて理由なしにできたのであれば、自然選択などを持ち出して説明する必要もなく、進化生物学の必要もない。もし宇宙が原因を必要としなければ、そのいかなる部分も原因を必要としない。充足理由の原理を否定することは、論理も科学も歴史も、すべてを否定することである。

3)なぜ自然界には規則性(法則)があるのか?

マイヤーズの答え: もしそれがなかったら我々はここにいない。

私の答え: 「もしそれがなかったら我々はここにいない」というマイヤーズの回答は、供述であって説明ではない。供述と説明の違いを理解するために、あなたが今、銃殺隊の前に立たされていると想像しよう。20人の射撃の名手が、よく手入れされた銃を構えて、あなたの胸から6フィートの所に立っている。彼らは一斉に発砲するが、あなたは無傷でいる。すべての弾丸がそれたのだ。誰かがあなたに尋ねる、「なぜ彼らははずしたのだろう?」これに対してあなたが、「もし彼らがはずさなかったら、私はここにいない」と答えたとすれば、それは単なる供述であって、確かに真実だが、「なぜ」はずしたのかという質問に答えていない。「なぜ」に答えるには説明が必要である――彼らはあなたが好きだった、彼らはみんな酔っぱらっていた、本当は彼らは射撃が下手だったのだ、など。

私の質問は「なぜ」ということ、何が働いて自然の法則があるようになったのか、ということだ。新無神論者は明らかに答えることができない。そしてこの質問が答えを要することを理解さえしていないようだ。私のこれに対する答えは、自然には目的がある(目的因が働いている)からだ、というものである。生物でない宇宙に目的因が働いているなら、それは知的作用者が存在するということである。インテリジェンスをもたないものはすべて、インテリジェンスによって目的へと動かされるよりほかない。

ここに合理的な答えがある: 神――第一動者、原因をもたない原因、必然的存在――が自然の法則の知的原因である。

4)アリストテレスの言う自然界の4つの原因(質料因、形相因、作用因、目的因)のどれが本物なのか? 目的因は存在するか?

マイヤーズの答え: 質料因と作用因。アリストテレスが歴史的要因であること以外に、また古代のカテゴリーが適切であったという以外に、何か関係があると考えることすら奇怪なことだ! 

私の答え: マイヤーズはアリストテレスについて間違っている。彼の形而上学はすべての西洋哲学とすべての西洋科学の基礎であり、スコラ哲学者、啓蒙主義者、現代の哲学者を通 じて発展させられた。アリストテレス以降のすべての形而上学的学問は、アリストテレスのカテゴリーの肯定か否定のどちらかである。彼の論理は20世紀までのすべての論理の基礎であり、彼の心理学は現在も最も深い心への洞察である。彼の生物学は特筆すべきで――組織立てられた最初の経験科学――彼こそ最初の「存在の大いなる連鎖」の提唱者である(ダーウィンはずっと後代の等外馬)。古代のカテゴリーがマイヤーズにとって無価値なのは、新無神論者が哲学的「機械打ちこわし運動者」Ludditesだからだ。彼らは何の答えももたず、質問のどれ一つとして理解しない。
        
アリストテレスの4つの原因のすべてが現実的で、それは十分な理由による。質料因(何かが作られる素材)は形相因(その素材を選ぶ内的形、構想)がなければ無意味であり、作用因(変化をもたらす力)は目的因(何かがそれに向かって変えられる目的・目標)がなければ理解できない。原因(作用因)は必ず結果 (目的因)を予定する。

目的因は他の3つに優先する(アクイナスは「目的因は原因の中の原因だ」と言った)。目的因は質料因と形相因を決定し、作用因を理解可能にする。

上に述べたように、インテリジェンスを持たないものは、インテリジェンスを持つ何ものかによって目的へと方向付けられるよりほかない。目的因は新無神論者に突きつけられた真の問題である。なぜならそれは自然界におけるインテリジェンスを必然的に要求するからだ。目的論についてのマイヤーズの無知は筋道が通 っている。

[質問5)、6)については省略]

7)道徳法則はそれ自体で存在するのか、それとも何か自然(自然選択など)の作り出したものか?

マイヤーズの答え: 道徳法則は存在しない。

私の答え: もちろん客観的な「道徳法則」が存在する。それはそれ自体で存在し、我々はみなそれが存在することを知っている。 新無神論者の、道徳法則は耳垢と同じ、単なる進化の産物だという笑うべき主張は、純粋な洞察からあまりにもかけ離れているので、弁護はおろか風刺することさえ難しい。道徳法則が存在しないというなら、なぜドーキンズが、仲間の新無神論者であるJosh Timonen-―ドーキンズのオンライン店を経営していた――を何十万ドルも横領したといって訴えるのか? もし道徳法則が単なる見解であるなら、ドーキンズがティモネンを、単に生存闘争に携わったことで訴える権利がどこにあるのか? もし道徳法則がそれ自体で存在しなければ、すべての道徳的見解が主観的で相対的なものになる。児童虐待? あるやっかいな宗教団体に対する「最終解決」? 私はそれは間違っていると思うが、あなたがそうするのは間違いだと、何の権利があって私に言えるのか? 

古典的な有神論の道徳法則解釈は、それが自然法則の一つの側面 であって、自然界に おける「神の法則」の表れだとするものだ。人は自然の目的をもっていて、人生は目的論的なものである。我々の自然の目的は神を知り、神を愛することであり、道徳法則に従うことがその目的を達成する道の一部である。

新無神論者による道徳法則の客観的存在の否定は、首尾一貫しない自己矛盾的たわご とである。もしあなたが、P・Z・マイヤーズが道徳法則の客観的存在性を認めているかどうか知りたければ、彼から何かを盗んでみればよい。

8)なぜ悪が存在するのか?

マイヤーズの答え: 悪は単に反人間的ということ。宇宙のほとんどのものは我々に敵対的だ。

私の答え: 「宇宙のほとんどのもの」は「我々に敵対的」ではない。水素より重い原子は星の内部で作られた。我々の体は文字通 り星屑である。人間原理的な一致は驚くべきもので、宇宙は、人間の出現とその継続的存在に不可欠の多くの微調整された特質をもっている。「宇宙のほとんどのものは我々に敵対的だ」と言うほど、宇宙についての馬鹿げた主張は考えられない。古典的有神論者たちは数千年にわたって、宇宙は絶妙に人間に合わせられていることを知っていた。人間原理の理論家は、今それに追いつきつつあるにすぎない。マイヤーズはこのニュースを聞いていないらしい。

「悪」の存在の話に戻る。もし「道徳法則」の客観的存在を否定するなら、そもそも「悪」について話ができるのか? ある行為が悪だという主張そのものが、その悪によって犯された客観的道徳法則を前提している。客観的道徳法則がなければ悪というものはありえない。単に見解の違いがあるだけだ。レイプは衝動の満足にすぎない。レイプに対する抵抗は、レイプされまいとする衝動の満足にすぎない。泣く赤ん坊を揺さぶって死なせることは、夜中に眠りを妨げられないための親の解決法にすぎない。私は無実の人々に残虐を働くことに反対だが、しかし「おいおい、それはお前の意見だ」と言われるだろう。道徳法則がなければ、強い者が自分の「見解」を弱い者に押しつけるだろう。これが20世紀の国家無神論の簡単な説明だ。客観的道徳法則の否定には結果 が伴う。無神論にはその結果が伴うのだ。

新無神論は一つの知的・道徳的な真空である。それはただ嘲笑、軽蔑に終始する自己矛盾する幼稚な思想である。新無神論者たちは彼らの言うような「科学と理性」の擁護者ではない。その逆である。彼らはイデオロギーのために、科学と理性の間違った姿を伝えている。新無神論者たちは、人間の基本的な問題に対して何ら回答をもっていない。質問に答える首尾一貫した試みさえしない。彼らは古典的有神論の深い洞察を理解できない。彼らのほとんどは質問さえ理解できない。そして彼らの虚無的な無神論的迷信は、道徳法則の最も基本的な命令をも否定する。

これが妥協主義的無神論者と戦闘的無神論者の間の激しい衝突の理由である。妥協主義者も形而上学的に解決の糸口をもたないのは同じだが、彼らは「意図的に作られる」悪夢をそれと知るだけの才覚はもっている。P・Z・マイヤーズやドーキンズやジェリー・コインのような虚無的な「機械破壊者」Ludditesは、知的詐欺としての新無神論の真の姿を露わにしようとしている。

私はそれに格別反対はしない。

最新情報INDEX