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哲学誌SyntheseのID特集における傲慢、嘲笑、あからさまな曲解
Casey Luskin
January 19, 2011
すでにブログで指摘したように、2010年中頃、哲学雑誌Syntheseは、Richard
Johnsによるネオダーウィニズムと自己組織化を批判するすぐれた論文を載せた。ジョンズの論文はIDを支持するわけではないが、生物学の神聖な牛を批判するものであった。どうやら誰かが、この罪に対する贖罪をするように「ジュンテーゼ」に要求したようだ。「ジュンテーゼ」の最新号がID特集を組んでいる。しかし奇妙なことに、ここにはID唱道者による論文は一つも含まれていない。代わりに、ここに掲載されている論文の多くは(全部ではないが)、多数の、IDをあからさまに曲解したもののほかに、IDを貶め、これを傲慢な態度で見下す調子のものが支配的だ。あたかも全米科学教育センター(NCSE、ダーウィン教育の中心機関)が台本を書いて与えたかのようである。以下に、この特集号の論文をいくつか論評してみる。
NCSEが実際に関わっていたのか。それはこの号の総序論文が、NCSEの副所長Glenn
Branchによって書かれているという事実を考えてみればよい。ブランチの論文は、なんとダーウィン批判者を天動説論者にたとえるというようなことまでやっている。
Synthese最新号の一つの悲劇的に滑稽な論文は、John
Wilkinsの「創造論者は理性的か?」という無礼な題の論文である。もちろんお察しの通
り、創造論(creationism, 聖書通りの創造説)と同じものとして十把一からげに扱われているのはIDである。ウィルキンズはこう述べる――「ついでながら、創造論者やID論者はしばしば、科学はもう一つの宗教にすぎないので、彼らの神学的見解と同等に扱うことができるかのように言う。」彼は「創造論は通
常、不合理な信仰体系とみなされる」と言うが、では創造論を「排除する」ための彼の方法はどういうものか? それは彼らがまだ若いうちに、進化論的見方に「改宗」させるよう務めることである!――
歳を取ってからの改宗は難しいことを考えると、課題は、若い世代ほど科学の認識論 的価値に気付きやすいという事実を確認しておくことである。早いうちに経験的・実験的知識をよしとする概念的発達を奨励すれば、結果
は、より効果的に科学的になる可能性が高い。我々は決して反科学を排除することはできないだろう。なぜならそれはしばしば不合理な(伝統的な、また拘束的な意味で)選択だからである。しかし我々は社会と文化の力によって、拘束的に合理的な信仰の選択をする学習者たちを、現在よりもっと確かな根拠に基づいて、そのようにさせることができる。(強調引用者、訳者注:これは頭の悪い人の粗雑な文章の典型である)
なるほど、何とか言いたいことはわかる――これは「若いうちに彼らを改宗させよ」ということの、もって回った言い方である。たぶんこれが「進化論初期教育プロジェクト」を説明するものだ。(2010.10.8
「NSFの進化論初期教育プロジェクト」参照)
しかし、傲慢と嘲笑という点では、Kelly
C. Smithの論文が一番であろう。戦闘的な言い回しをふんだんに用いて、スミス論文は、なぜもっと多くの科学者が「創造論者の脅威と戦うことに参加しないのか」と言って嘆いている。彼はさらに「この脅威への反撃の多くがこれまであまりにも不成功であった」ことを嘆き、「創造論者との戦い」を強調し「この戦闘」が必要であると言っている。また彼は論争に当たっては、「創造論者側があまり先の鋭くない武器を使っている事実を考慮すべきだ」と、奇妙なことまで言っている。そして言うまでもなく、IDを創造論と同じものとして扱い、「インテリジェント・デザイン創造論(IDC)はアメリカの創造論が最新の形を取ったものだ」というユージェニー・スコットの言葉を引用している。
スミスの「創造論者ども」に対する軽蔑は、次のような戦闘的な比喩によって極点に達する――
この戦いにおける最も重要な要素は、我々が我々の側に有利となる(あるいは少なくとも悪者ども(bad
guys)に有利にならないような)条件で、敵と戦うことのできる発表機関を見つけることである。
少なくともスミスは、ID批判者たちが論戦において負けないような条件の、段取りをしようとしていることを認めている。
スミス論文の他者を見下す傲慢な調子は、いくら強調しても足りない――「だが平均的な創造論者は、科学の問題のこんな細かい点は理解もできず、理解しようともしない連中である。」彼らはしばしば「知識の足りない意見」をもち、「恐ろしく無知である」(owefully
ignorant--awfullyの間違い)。実際、この調子はもっとひどいものになる。というのは彼の最大の論点は「創造論は理性の病理だ」ということだからである――
私の見解では、創造論論争は、理性の病理症状の研究にとって豊かな場となるものだ。私は、証拠と論理の圧倒的なウエイトは、創造論に対して進化論の真理を支持する方にかかっていることを、1つの与件として認識している。
またこんな戦闘的な言い方をする――「創造論者を扱うのに時間を費やしたことのある人なら、敵に対するものだけでない欲求不満を理解するだろう。…自分の同僚を説得しようと試みるとき、ほとんど創造論者と議論するくらいに欲求不満を感ずることがある。」スミスはこう続ける――
創造論者と議論するのは、別の比喩を使えば、庭の雑草取りをするようなものだ。丸一日かかる大変な仕事だが、またすぐに、抜いたのと同じもっとたくさんの雑草が生えてくる。
ところで、このIDという「理性の病理」を打ち負かすための、スミスの策は何か? 彼自身の言葉で「もっと激しく叩け」というものだ――
しかし今、好むと好まざるにかかわらず、敗者が(いわば死んだことによって)誰の目にも明らかになった正面
闘争の日々は終わり、片がついた。今我々は、群衆が興奮し、プロレスリングらしい手に感銘を受けている観覧席の雰囲気を感じている。この状況下で、前回にうまくいかなかったことも、同じことをもっとやりさえすれば、今度はうまくいくと考えてよい、どんな理由があるだろう?
ではスミスは「正面闘争」を推奨しないのか?
どうやらスミスも、彼が必要とする進化の証拠が存在しないことを感じているようだ。そこで彼はこのように指図する――「我々がなすべきことは、連続進化構築の背後にある証拠の代表的な例となる、マクロ進化のある一つの例を発展させて、非常に単純な、ユーザーに使いやすいものにすることである。」私は、その「一つの例」はまだ存在していないと思うが、もし存在するなら、スミスはさぞかし、すべての闘争に勝利できて心安らかになるのだろうと推測する。思うにスミスが「創造論者は総じて、どんなに工夫して論駁の攻撃をしても、奇妙にも何も感じないようだ」と書くとき、問題は「創造論者」にあるのでなく、進化の証拠にあるのである。
そしてスミスの最後の指図はウィルキンズの指図に似ている。つまりここでも、彼らが若いうちに捕まえておけ、ということである――
進化については、これは大学以前の科学授業でやるべき課題だ。この機会こそが、平 均的な人間が科学について考える有意味な時間量
を費やす時であり、従って大衆に訴えかける上で、我々の目的に叶う唯一の戦場である。ところでこの戦略にとって必要なことは、敵側に戦闘場所を持たせないことで、そのためにこそ、創造論をカリキュラムの中に押し込もうとする試みと戦うことが肝要となる。
このような傲慢な言辞を弄した後で、スミスは大まじめに、我々は創造論者にはやさしく接すべきだと言う――「創造論者をある種のエイリアン的他者として眺め、いろんな点で我々の尊敬する人々はそんなふうではあり得ないと、よく間違って考える傾向が確かにある。」スミスはその態度をよく知っているはずだ。彼は「非生産的なわめきによって欲求不満を外に表す」のはよくないことだ、とさえ言う。皮肉なことに、「非生産的なわめき」とはまさにスミスの論文であるように思える。
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