Evolution News & Views
科学における創造の役割:新風をもたらす本当の話
Michael Flannery
July 2, 2011
Classical Conversation というウェブサイトの最近の論文「創造の教義と現代生物学の成り立ち」で、Jonathan
Bartlettは、科学的探究と進歩のための概念となり、触媒となるべき「創造」について、興味ある観点を展開している。目的もなしに、連続した自然法則を通
じて働く自然のプロセスだけが科学とみなされるべきで、それ以外のすべては「サイエンス・ストッパー」だというような、Eugenie
ScottやPaul Hanleなど、いわゆる科学教育の「弁護者」の執拗な主張が横行している現在、私はあらゆる人々にこのバートレットの科学史概観を学ぶことをお勧めしたい。
ジョナサン・バートレットの、科学は、唯物論やランダム性や偶然などより、目的論や創造概念に多くを負うものだという観点はもちろん正しい。これは自然界において、確率論的プロセスが起こらないということでなく、科学的探究を動機付けるものとして、それは科学史上ほとんどなかったという意味である。実際、自然界の複雑な特性について、完全に唯物論的な説明がかつてなされた証拠は全くない。例えばルイ・パスツール(1822-1895)を考えてみればよい。生命だけが生命を生むことをパスツールが証明したとき、彼は生命の「無生物起源」(abiogenesis)に確実に打撃を与えたのだった。にもかかわらず、生命の無生物起源の信奉者たちは、あらゆる証拠に反してその逆を主張している。これはアインシュタインの狂気の定義に近いものを感じさせる―-「同じことを何度も何度も繰り返して異なった結果
を期待すること」。
しかし創造の教義についてはどうか? もちろん創造論には、若い地球、古い地球、進歩地球論などいろんな形がある。キリスト教的なものも、そうでないものもある。自然選択の共同発見者、アルフレッド・ラッセル・ウォーレス(1823-1913)はNew
Thoughts on Evolution(1910)において、彼独自の非キリスト教的な有神論的創造論を唱えた。これよりもっと網を大きくしたのがインテリジェント・デザインであり、これは宇宙と生物の特性のあるものは、自然選択のような導くもののない原因でなく、知的な原因によって最もうまく説明される、という最小限の説明をしている。だから厳密に言うと、IDは創造論よりはるかに遠慮した定式化をもつものであり、創造論者であることなしにID唱道者になることができる。とは言え、バートレットが論証しているように、創造という概念は、無数の過去の科学者が自然を観察するための、きわめて実りあるレンズとして役立ってきたのである――無生物起源や自然発生を否定する生物実験をした最初の人として認められているFrancesco
Redi(1626-1697)から、現代遺伝学の祖であり、面白いことに反ダーウィン論を書いた、アウグスティノ修道会士グレゴール・メンデル(1822-1884)に至るまで。
方法論的自然主義だけが科学として認められるという主張は、Alvin
Plantinga, William Lane Craigといった人々によって見事に反論されてきた。クレイグはこう指摘した――
非自然主義的仮説を、生きた説明の選択肢のプールの中に入れることを拒否するのは、方法論的自然主義を宣言することだ。すると、進化論は自然主義を前提とするという主張[ダーウィニズムやネオダーウィニズムの主張]は、生物の複雑性の最上の説明としての進化論の現在の位
置は方法論的自然主義によって支えられなければならないという主張になる。方法論的自然主義というものの顕著な特徴は、それが哲学の視点であって科学の視点ではないということだ。それは科学的証拠とは無関係の問題である。それは科学についての哲学の話だ。だとすれば、それを正当化することは著しく困難である。
この観点からすると、いわゆる創造論者を十把ひとからげに、そのような哲学に反するとして退けねばならないという主張は、単なる独断主義である。そのような独断主義は間違った科学であるのみならず、バートレットがきちんと論証しているように、間違った科学史でもある。Nancy
PearceyとCharles Thaxtonが20年近くも前に、このことを共著The
Soul of Scienceで示したにもかかわらず、相変わらずこれを指摘し続ける必要がある。科学そのものを超えて、科学についての形而上学的構築物が文化の中に根を張っていて、その文化が歴史的に発言力ある知的権力ブローカーによって支配されていることを、心に留めておかなくてはならない。科学の哲学についての誤った形而上学は、いみじくも根拠の薄弱な誤った科学史の構築によって支えられているのである。正確さがイデオロギーに優先するならば、それは必ず、教育のあらゆる方面
への新鮮な風となり、真の贈り物となるのである。いかなる形であれ、唯物論的還元主義の窒息しそうな汚染した空気に闘いを挑む、ジョナサン・バートレットのようなすべての人々に感謝すべきである。
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