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IDは「サイエンス・ストッパー」って本当の話?

Michael Flannery
August 20, 2011

「インテリジェント・デザインはサイエンス・ストッパーだ」――これは盲信的ダーウィン信徒の間でほとんどお題目として繰り返される。ダーウィン教の高位 聖職者Eugenie Scottは、「IDはサイエンス・ストッパーだ。それは物を見ようとしないから、それが通 った後に科学は残らない。これを学生に教えることを、よい教育だと私は思わない。」(PBS Religion and Ethicsのコメントを見よ。)

しかし、それよりもっとよくない教育は、ある主張の哲学的土台などは無視してよいし、歴史に意味などない、と学生に教えることだ。にもかかわらず、これこそ「サイエンス・ストッパー」議論がやっていることで、それは自分自身の取っている哲学的前提を無視し、過去に何の意味もないかのように、現実に歴史的探究にストップをかけるものである。それは実質的に、科学をその論理的な係留綱から解き放ち、すべての歴史的コンテクストを切り離し、科学を独断的な方法論的自然主義のためのイデオロギーの道具にしてしまうものである。

まずこの議論の哲学的側面から検討することにしよう。IDが科学「ストッパー」であるかどうかを決めるためには、いったい「ストップ」させられるのが何であるかをはっきりさせなければならない。ユージェニー・スコットらこの議論をなす者たちが現実に主張しているのは、科学者たる者は、自然法則を通 じて機能している自然的原因だけを、完全に非目的論的なやり方で、取り出さねばならないというものである。だからストップさせられるのは、(科学でなく)方法論的自然主義への彼らの信仰である。もちろん上にあげた方法論的自然主義の機能的定義は、それ自体、科学的言明ではない1つの見方である。

ビル・デムスキーが指摘するように、「方法論的自然主義が、過去において十分、科学の役に立ったと考えられることから支持されている1つの作業仮説にすぎない、というなら何ら問題はない。・・・しかし方法論的自然主義の言っているのは、我々は自然界のデザインの経験的証拠にまだ遭遇していないが、それが現れた場合には受け入れる態度を保持していなければならない、ということではない。むしろ方法論的自然主義が主張しているのは、そのような経験的可能性は論理的にありえないと考えたときに、我々は最も論理的で最も科学的なのだ、ということである。方法論的自然主義を作業仮説として主張する代わりに、これを主張する人々はこれをドグマ(独断的教条)として主張しているのだ。」(The Design Revolution, pp. 170-171)したがって、方法論的自然主義をストップさせても、科学をストップさせたことにはならない。それは科学がいかになされなければならないかについての非常に特殊な考え方に、待ったをかけることなのである。

「IDはサイエンス・ストッパーだ」という主張が、脆弱な哲学的根拠の上に築かれているとするなら、その歴史的土台はもっと怪しいものである。今日我々が科学と言っているものを確立した、16世紀から18世紀へかけての主導的自然哲学者たち――コペルニクス、ガリレオ、ヴェサリウス、ハーヴィー、ニュートンら――はこの方法論的自然主義の独断を馬鹿ばかしいもの、少なくとも非常に特殊なものと考えたであろう。実際、James Hannanは最近この問題を詳しく調べ、宗教は科学に敵対したりその妨げになったりするどころか、西洋世界における科学の発達の、統合的な一部であると言っている。

しかしこれをもっと直接的な、ダーウィン・ロビーでも理解できる言葉で述べてみよう。自然選択の共同発見者とされるアルフレッド・ウォーレスは、1869年にダーウィンと決別 し、ホモサピエンスの特殊な知的属性を説明するにはOverruling Intelligence(全体を支配する知性)が必要だと言った。その一年後に、彼はこのテーマを更に詳しく追及した「人間に適用された自然選択説の限界」という論文を発表した。彼の結論は、「宇宙全体はより高いインテリジェンス、あるいは一つの至高のインテリジェンスの意志に依存しているだけでなく、むしろそれそのものである」というものだった。ウォーレスにとって進化は事実であったが、それは目的論的なもの、デザインを突き止められるものだった。彼は長い人生の残りを、このintelligent evolutionの性質を解き明かすことに費やした。

ところでユージェニー・スコット自身の言葉によれば、ウォーレスは1869/70年以降は自然現象の「説明をやめる」べきであった。実は彼女が言いたいのは、ひとたびIDが受け入れられるなら、自然界に対するすべての興味も好奇心もそれに伴って衰退するということである。しかしこれはウォーレスの場合全く当てはまらない。彼の2巻からなるGeographical Distribution of Animals (1876、『動物の地理的分布』)は、現代の生物地理学の先駆的仕事と考えられている。伝記作者Ross Slottenによれば、この本は続く80年の間、この分野の決定版テキストとして用いられてきた。(The Heretic in Darwin’s Court, p.325)
わずか2年の後に、ウォーレスはTropical Nature and Other Essaysを出版したが、これは壊れ易いエコシステムの維持ということに先見の明を示すもので、スロッテンはこれを「レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の精神的先駆となるもの」と呼んでいる。ウォーレスのIsland Life (1880)は、彼の『動物の地理的分布』の姉妹編だが、その副題「島の動植物相の現象と原因、修正と地理的気象の問題解決の試みを含む」は、その内容の正確な要約となっている。ダーウィンはこれをウォーレスの最上の著と考え、歴史家Martin Fichmanは、「観察された分布パターンの因果的メカニズム[生物地理学のエッセンス]に関する19世紀と初期20世紀の論争へのウォーレスの寄与は、深遠な歴史的意味をもっている」と正確に述べている。(An Elusive Victorian, p.60)とすればウォーレスがIDに近づいたことによって、いったいどんな科学が阻害されたというのか?

IDを、子供の教育にとって危険な「サイエンス・ストッパー」だと見なそうとするダーウィン・ロビイストたちは、実はたいへん悪い薬を処方している。それは悪い哲学を口当たりのよいものにして、それを飲み下すように言われた患者の歴史的無知をよいことにして盛り付けた一服の薬である。結局、「IDはサイエンス・ストッパー」議論を売りつける人々は、科学を擁護するのでなく、科学はどうあるべきかについての彼らの見方を弁護しているだけである。もちろんこれは教育などというものではない。これは洗脳である。

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