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非礼なID攻撃を学問的修辞の衣に隠す人々

Casey Luskin
November 29, 2011

2009年のJournal of Scientific Communication に発表されたInna Kouperの論文が言うように(リンク)、IDを批判する人々はしばしば、「自分の正しさを証明しようとするだけでなく、理性ある立派な人間からなる自分たちのグループを、間違った、知的に劣る、全体として下らぬ 人々から区別しようと躍起になっている。」したがって彼らは「感情的で侮辱的な評価」や「嘲笑」に大きく依存する。あるいは2000年のTechnical Communication Quarterlyのある論文が説明したように(リンク)、進化論者はしばしば、「共同体にとって危険となりうる公刊物の権威を貶めるために」「嘲り」や「侮辱を並べ立てて笑い物にする」手段を取る。

ID批判者たちのこうした物の言い方の、沢山の例を示すことができる。もっとも「沢山の」という言葉で、問題の現象の範囲の大きさを言い表せるものではない。しかしこの数カ月、いくつかの例が特に私の注意を引いたのは、彼らがそのような攻撃を学問的な言葉で包み隠そうとするからであり、しかもそれらが権威ある出版元から出版されているからである。

これらの例が我々の注目に値するのは、それらが学問的な装いをしているにもかかわらず、最も基本的なレベルで恐ろしく不正確だからでもある。Josh Rosenauのように(リンク)、彼らはIDの科学的研究を一貫して無視しており、またID主唱者たちの進めている方針について虚偽の主張をしている。

まず最初に、Frank Ravitchの2011年ケンブリッジ大学出版本、Marketing Intelligent Design: Law and the Creationist Agenda(ID販売:法と創造論計画)という本を見てみよう。

ラヴィッチ(ミシガン州立大法学教授)は、IDは単に「宗教弁護を基礎にして戦略を流通 させているだけであり、真に科学的なアプローチではない」(p.x)と宣言している。彼は狙いをID唱道者に定め、「進化の科学的証拠はあまりにも圧倒的であるから、それを無視するのは滑稽だ」(p.3)と言っている。(科学的用語として「滑稽」の尺度とはいかなるものか、彼は述べていない。)彼は、ID唱道者たちは「神への奉仕という目的」のために「不正直な」戦術を用いていると論じている――

このことは、ID唱道者たちによる修辞的・「科学的」な利用とともに、ある者たちをして、この運動を不正直として糾弾させることになった。このことの明らかな意味は、宗教を基礎とする運動、あるいは少なくとも、強力な価値体系のために宗教の支持を公然と認めるような運動は、不正直であることによって、弁解できない偽善に与することになるということだ。すでに見たように、このような主張はその前提が問われねばならない。宗教的弁護者はしばしば、目的(神への奉仕)は修辞的手段を正当化すると考え、より高い価値に対しては、人々にいわゆる真理を納得させるために、ある程度のひねりを加えても許されるものと信ずる。私にはこれこそ、ID運動の狡知に長けた販売計画を説明するもので、これはあからさまな宣伝とは言えないまでも、科学と法の世界に対して、少なくとも知的不正直を推進するものに見える(p.265)。

またしても繰り返しているのがおわかりだろうか――これは例の「イエスのためなら嘘でも」という古い非難が、学問的修辞の衣を着たものだ。ケンブリッジ大学出版で出版してもらうためには、最近は、こんなことを言っていればよいことになったのか? 

ジョッシュ・ローズナウと同様、フランク・ラヴィッチも、ID主導者達が正真正銘の科学研究をやっていることを認めることができないらしい。ラヴィッチ教授のID批評はこんなものである――

・「ID主導者達は、Big Dが存在し、かつBig Dが多くの複雑な生物をデザインしたという彼らの究極の仮説を反証する試みも、また進化が自然界に見られるものの多くを説明できないという彼らの主張を反証する試みも全くしない。あるいはBig Dの存在を、反復可能な実験によって証明する直接の試みもしない。したがってIDが、現代科学のこの言葉の伝統的な定義のもとでは、科学でないのは明らかである。」(p.41)

・「ID主導者たちは、…結果に基づいた、自然選択による進化をサポートする実験にも、反証する実験にもかかわったことはない。」(p.46)

もちろん、これまで論じたように、こういったクレームを反論するかなりの量 の研究結果が存在する(ここ、ここ、ここ(リンク)を見よ。)

そして、ラヴィッチ氏がこの研究のいくつかを知っていることを、私は個人的に知っている。彼の仕事について私が書いた(リンク)最後の折に、ラヴィッチ氏は私にメールを寄こし、そのやりとりの間に私は、IDはいかなる研究結果 も出したことがないという彼の主張を反論する様々な論文を、彼に教えてやった。彼は我々の私的な交換では、IDの研究が存在することを認める気になれず、相変わらず本の中でこの間違った主張を繰り返している。それどころか、不正確な「キッツミラー判決」(リンク)を単純に引用し(上の引用の最初のもの)、IDの研究が存在しないという彼の間違った主張が、正しいかのように振る舞って平然としている。

ラヴィッチの本には、この他にも多くのIDについての間違いがあるが、ここには私の注意を引いた更なる2例をあげることにする――

・彼は、ID理論は「デザイナーが神であることを否定する」理論だと言う(p.229)   が、これは正しくない。科学理論としてのIDは、デザイナーの正体については不可知の立場を取っている(リンク)。

・彼は、ID唱道者たちは「デザイナーが神であると公然と認めることを拒否する」点で一致していると言うが(p.23)、これも不正確で不公平だ。なぜならID唱道者は、デザイナーが何ものかについての個人的見解において、一般 にかなりオープンではっきりしているからである(リンク)。彼らはただ、こういったことは個人的宗教信念の問題であって、IDの科学的結論ではないことを明らかにしているのである。

・『ID販売』の間違いの最後の例は、ID唱道者は「一般 に彼らのアプローチが公    立学校の科学授業で教えられることを主張している」(p.37)というラヴィッチの示唆である。これは間違っている。なぜなら「ディスカヴァリー研究所」のような主導的IDグループは、IDを公立学校のカリキュラムに押し込むことに反対だからである(リンク)。

そう、明らかに最近では、ケンブリッジ大学出版局から本を出すためには、繰り返しIDを「知的に不正直」「滑稽」などと呼び、これをいかにも学者らしい専門用語に包み隠し、IDの研究が存在しないかのような間違った主張を正当化するのにジョーンズ裁判官を引用するような、ブログのわめき散らしに匹敵することを主張する熱意があればいいようだ。

これが、多くのID批判者たちの議論に我々が立ち向かうときの、厳正・正確のレベルである。

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