Evolution News & Views
デジタル時代が科学を解放する
ENV
January 9, 2012
科学はその一般からの信用を、ピアレビュー(査読)、出版、反復実験などを通
じて保護してきた。デジタル時代はそれを変えつつある。科学は専門雑誌への依存を縮小しつつあり、一方、協働、一般
の鑑定、素人の介入をより多く招きつつある。ある科学社会学者は、これはよいことだと考えている。これはIDに門戸を開くだろうか?
科学において質の高さを維持する問題になると、ピアレビューにも、出版にも、反復実験にも、神聖なものは何もない。要するにそうしたものは、文明のある時期に、科学を空想的な考えから(多少とも)保護するために働いてきたようにみえる人間の取り決めにすぎない。条件が変われば、質を維持する他の方法が取られても当然だろう。実際、条件は変わりつつある。インターネット、クラウド・コンピューティング、即時の無料のオンライン出版といったものをもつデジタル時代は、ピアレビューを考え出した人たちには想像もできなかった。
さらに考えねばならないことは、旧体制が理想的だったわけではないということ。反復実験は、いろんな種類の科学的研究について実行不可能である(例:唯一の、他にはない観察研究、何十年にも及ぶ息の長い研究など)。科学の学会は、コンセンサスによる統治という抜きがたい傾向をもつ。また、最上のアイデアをもつかもしれない一匹オオカミ的科学者を締め出すこともあり、しばしば精査よりも順応を優先させる。ID科学者はこのことをあまりにもよく知っている。加えて、学術誌の定期購読は高くつくから、一般
人の大部分は科学的主張の吟味から締め出され、科学者は、営利的な出版物に発表の場を求めて競争することになる。デジタル時代は費用の壁を打ち壊しつつある。科学者は、彼らの知的財産を保護する新しい方法をもった、アクセスの自由な新しいオンライン雑誌に、自分の考えを発表することができる。これに対し他の科学者は瞬時に、スペース制限の心配なく、その発見にコメントすることができ、一般
人は、昔は考えられなかったやり取りを目撃することができる。
先週のネイチャー誌(リンク)に、オックスフォード大学「科学・革新・社会研究所」のJerome
Ravetzが、デジタル時代の新しい可能性を探究している。彼のエッセイ「科学の社会学:水準を高く保て」は、科学とは社会学的な現象であることを読者に思い出させる。科学は独立した現実として外の世界にあるものではない。それは常に人間によって媒介されている。「水準を高く保て」という言葉は、科学が正直、誠実、勤勉といった道徳的基準を必要とすることを前提にしている。こうしたことは進化するものではない。ラヴェッツは、質の維持を図る方法の実践によってそれが可能だと考えているようだが――
科学は、組織化された活動と生産の諸領域の中で、ピアレビュー、出版、反復実験といった非公式の質保証システムをもつという点で、他に類例のないものだ。このシステムは17世紀に科学専門誌が現れた当初から、うまく機能してきた。しかし技術が科学の社会的実践を変えつつある今、それは挑戦を受けている。それはどのように進化するだろうか?
我々はブログや、デジタル媒体や、社会的ネットワークが、情報管理の方法を変え、お互い同士を接触させていることを知っている。このことが科学に及ぼす効果
は大きい。現今では、科学的知識の生産により多くの人が関わることができる。より多くの科学者が協働でき、しかも即時にそれが可能である(年次学会のために大西洋を飛ぶのと、ウェブ上での会議を比較してみればよい)。科学者は出版に先立って、ブログによって貴重な事前のピアレビューを得ることができる。アマチュアの人々が、銀河系の分類とか、火星上のクレーターの数とか、複雑なタンパク質折りたたみの問題を解くといった、大きな世界規模の努力に参加することができる。「誰でも科学知識の共同創出者になれる」と、ラヴェッツは言っている。
こうした傾向は思いもよらぬ結果を生み出している。例えば、印刷された科学誌の独占形態は、デジタルカメラ導入後のコダックの株式シェアのように、落ちつつある――
こうした発達の結果として、研究の生産はより流動的になりつつある。学術誌は唯一の門番としての地位
――同時的な質の保証者、財産の保証人、話し合いの媒体、文庫としての――を失いつつある。資料の共有、質の鑑定、不適格あるいは偽造の排除の手段がいろいろ現れてきて欠陥を埋めている。しかし究極的には、科学の質保証の専門家による独占は修正されねばならない。
ラヴェッツは、科学を広げることが解放になるとしても、水準を下げる危険を伴うのではないかと、わずかに心配している。「すべての人間が、個人的利益より知的誠実が優先するという理想を共有しているわけではない」と彼は言う。例えば、門番を自任する人間がブログ上でデマゴーグになるかもしれない。
しかし全体的にみて、彼はより希望的な見方をしている――「科学の専門見解が障害になっても、介入する部外者は合法的で有用な役割を演ずる。」彼らは科学の方針の優先順位
を決めるのに一役買うだろう。また警告の笛を鳴らすこともできる。もし社会が、利己的なデマや詐欺に対して防備することができるなら、「この点でブログ世界は、自由な情報共有の明るい未来を持つ」と彼は言う。
ラヴェッツは、テクノロジーが道をつけて科学者が後を追うのは皮肉なことだという――公開ソース、創造の広場、非公式の協働、自由な出版、テクノロジーの共有など。彼は社会学者のRobert
Mertonの理想――「共同所有、一般性、無私の精神、独創性、懐疑の精神」――を実現する「開かれた科学」を夢見ている。これが実現するためには、「学術誌の費用のような、一般
人との科学的情報共有に対する障害が、取り払われねばならない。」
これら科学の新しい方法は、必ずしも水準を下げることにはならないだろうと、ラヴェッツは考えている。ハーヴァードの科学史家Steven
Shapinが言ったように、科学の質は信頼と礼儀に依存している。これらの価値は、デジタル時代の新しい「拡大された仲間の共同体(peer
community)」へ広げていくことができる。科学者は馬の目隠しを取り外して謙虚にならなければならない――
科学者は特別の責任をもつが、特別
の難しさももっている。彼らの専門が、ただ1つの正解をもつ問題に限られている場合には、科学者たちは、正直なエラーを理解するのが難しいかもしれず、間違ったようにみえる信念を抱く者たちを非難するかもしれない。しかし、デジタル時代におけるすべての科学の不確かさの中にあって、質の保証が効果
的であるためには、この礼儀の教訓は、我々すべてが学ばなければならないものだ。
ラヴェッツのこうした提議は、IDにとっていろんな可能性を孕んでいる。あまりにも長きにわたって、科学者の学会は、高い城壁をもつ城のようであり続け、科学の守護者を自任する者たち(そのほとんどすべてがダーウィン支持の簒奪者)によって敵と看做された者たちへ、煮え油を注ぎかけてきた。今この城壁は崩壊しかかっている。ID唱道者はブログを持つこともできれば、安価でダウンロードできるe-ブックを出版したり、論文を批評したり、瞬時に世界の各地と協働もできる。
それはすでに起こっている。IDに好意的な立場のデジタル学術誌Bio-Complexity(リンク)は、そのパイオニアである。あなたは今、ディスカヴァリー研究所のEvolution
News & Viewsというブログを読んでおられる。ID the
Futureというpodcast(リンク)もある。我々のMetamorphosis
e-ブック(リンク)は無料でダウンロードできる。マイケル・ビーヒーはアマゾンのレビュー・ページで、批判的科学者と活発な議論を続けている。しかし困難も立ちはだかっている。ウィキペディアの反ID門番たちが、無数の読者がこのオンライン百科事典を客観的で権威があると考えるのを利用して、ウソと歪曲を消し去るあらゆる試みを、たちどころに元の状態に戻してしまう。
すべての革命は挑戦と機会を提供する。我々はデジタル時代のもたらした地球規模の変革の潮流の只中にいる。反IDの学術誌の砦は、開放アクセス、開放協働、開放科学の世界では、長続きすることはないだろう。ラヴェッツが悪い面
より良い面が大きいと見るのなら、ID唱道者もそう見るべきだろう。科学の誠実さを求めてきた人々は、デジタル時代を自分のものとして先導者になるべきである。
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