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(以下2つの論評は、ダーウィンもIDも拒否して「第3の道」を取ると自称するJames ShapiroとID唱道者たちの、継続中の論戦の一部である。ここではDouglas Axeがシャピーロに応えている。よくあるこうした中間的な曖昧な立場が、どういうものかを考えるのに役立つであろう。)

 

ジェームズ・シャピーロのビル・デムスキーへの反論

James A. Shapiro
January 16, 2012

私はBill Dembskiの1月12日の論評「ジェームズ・シャピーロはデザイン理論家か?」に興味をもった。私の議論についての彼のコメントの中の、4つの点について反論させてほしい。

デムスキーはこう書いている――

ID唱道者にとって、ダーウィンとデザインの間のDMZ(非戦闘地帯)で躍り続けるジェームズ・シャピーロの立場は、いらいらさせるだけだ。一方でシャピーロは、ID唱道者と同じくらいにダーウィニズムを退けるが、他方で一般 読者に対しては、自分はIDに与する者ではないと言い続けている。それにしても彼の抗議は激しすぎるように思える。

私の応答――インテリジェント・デザインとネオダーウィニズムの間の(マイケル・ビーヒーや他の人たちのいう)「非戦闘地帯」で躍ることが間違っているだろうか? これら2つの立場しか選択肢はないのか? 私はそうは思わない。だからこそ私は、進化論争について書いた1997年のBoston Review論文に、「第3の道」という題をつけた。デムスキーが「非戦闘地帯」と言っている場所こそ、本当の進化科学が進行している場所なのだ。私は誇りをもってそこに身を置いている。そして私の見るところ、自然の遺伝子工学、水平DNA移動、種間雑種製造、ゲノム複製、シンバイオジェネシスなどが、旧来の進化の考え方の限界のもとで、扱い不能とされた諸問題の解決を与えることを理解したとき、私に賛同する人々がますます増えている。

デムスキーはこう書く――

そもそも、自然の遺伝子工学を可能にする基本的な生物学的からくりはどこから来たのか? シャピーロはこの問題をそのときも蹴って退けたが、今も退け続けている。

私の応答――私は自著Evolution: A View from the 21st Centuryの128頁にこう書いた――「我々は生命起源については確固とした科学を持たない。それは大きな理由として、物理的記録が実質上ないからだが、もう一つは、何が生命の基本原理かということについて、我々の理解にいまだにgaps(注:埋まらない間隙)があるからだ。」デムスキーも私も同様に、旧来の進化理論のjust-so stories(由来ばなし)には反対している。とすれば、科学がまだそれに対応できる前に、ある問題を扱うことを避けることが、どうして「蹴って退ける」ことになるのか? 生命起源、細胞や、最初の自然の遺伝子工学システムを論ずることは、時期尚早であり、それは現実の経験的基礎なしにねつ造される由来ばなしにしかならない。我々が理解しているような生物について、進化がどのようにして起こったのかを理解するために、なすべき仕事がすでに山ほどある。いつか我々はこれらもっと根源的な問題に取り組むことができるだろう。しかし明らかに科学はまだそこまで行っていない。私は地に足をつけておくことを選ぶ。

デムスキーは書く――

だからシャピーロは、生命に要求される基本的なからくりは、彼の枠組みの中では説明できないことを認める。にもかかわらず、インテリジェント・デザインは全く度外視している。なぜこれを度外視しなければならないのか? 上の引用文で、彼はIDを、絶えず超自然的介入を必要とするものとして理解している。しかしIDをそんなふうに限定することはできない。これは彼が、その一つ前の引用文で無言のうちに認めている見方である――「もしIDが、変化した適応構造ができる度に、超自然的介入を必要とするのなら、IDの根底は大きくぐらつくことになる。」この「もし」に注目せよ。


IDは、変化した適応構造ができる度に超自然的介入を呼び込むことを、必要としない。実はIDは、超自然的介入を呼び込むことを全く必要としていない。IDは単に、インテリジェンスが生物学的システムの形成に働いていなければならないと主張するだけである。そのインテリジェンスがどう働いたか、それが実行されたタイミングや様態については、解答は開かれたままである。

私の応答――こういう言い方は人を混乱させる。デムスキーはIDの構成要素として超自然的なものを放棄すると言っているのだろうか? もしそうなら、我々は、生物学におけるインテリジェンスや目的論やデザインの可能な性質について、また、理論的にも実験的にも、それらをどう研究するかについて、真に科学的な対話を始めることができる。しかしもし彼が、超自然的なものを放棄しようとしないなら(マイケル・ビーヒーは何度も私に放棄しないと言っている)、そして文字通 りのDeus ex Machina(機械仕掛けの神、古代や中世の劇に登場する都合のいい神)を常に頼みにするつもりなら、我々は真剣な科学的討論などできはしない。そうするためには、科学の自然主義的限界を尊重しなければならない。私は、もしID唱道者たちが、すべての神学的なつっかい棒を放棄して、彼らの信ずる目的因が何であろうと無関係に、厳密に自然主義的な探究にかかわろうとするならば、それはIDにとって非常に大きな発展だと思う。ビル・デムスキーにその用意があるのだろうか?

デムスキーはこう書く――

シャピーロの言う自然の遺伝子工学は、デザイン論、すなわち生物は知性をもち、自分で自分をデザインするという理論だ。しかし生物が自分自身を造るのに要求されるからくりは、想像を絶するほどに複雑である。そのからくりはどうやって発生したのか? それらのからくり自体がデザインの産物だと考えることが、どうして無理な考え方なのか? それらが生きたシステムの前提になっていると認める以上は(シャピーロによればすべての細胞は自然の遺伝子工学を行っている)、それらは非生物学的な淵源から発するものでなければならない。

私の応答――私はデムスキーの議論のこの論理は追わない。我々の知っているのはただ、自然の遺伝子工学が今日の生きた細胞に普遍的なものだということである。細胞それ自体と同様、いつどうして自然の遺伝子工学が起こったかは未知の問題だ。デムスキーは「それらが非生物学的淵源から生じたに違いない」と主張する、何か経験的根拠を持っているのか? あるなら何か知りたいものだ。



科学をして調停者たらしめよ―ジェームズ・シャピーロへの応答

Douglas Axe
January 17, 2012

ビル・デムスキーの論評「ジェームズ・シャピーロはデザイン理論家か?」への反論で、シャピーロはこう書いている――

しかし、もし彼[デムスキー]が超自然的なものを放棄しようとしないなら(マイケル・ビーヒーは何度も私に放棄しないと言っている)、そして文字通 りのDeus ex Machinaを常に頼みにするつもりならば、我々は真剣な科学的討論などできはしない。そうするためには、科学の自然主義的限界を尊重しなければならない。私は、もしID唱道者たちが、すべての神学的つっかい棒を放棄して、彼らの信ずる目的論が何であろうと無関係に、厳密に自然主義的な探究にかかわろうとするならば、それはIDにとって非常に大きな発展だと思う。ビル・デムスキーにその用意があるのだろうか?

ジェームズ・シャピーロの自然主義的科学への忠誠がどういうものか、これを明らかにすれば彼の役に立つであろう。もし彼が、生物学の大きな問題への答えがすべて、生命体の物的構成要素とその並べ方にあると考えているのなら、それはもう一つの哲学的立場(前提)にすぎないことを理解しなければならない。間違っているか? もし彼が有効な批判をしているのなら、それはID唱道者たちが科学を追究するときの前提への批判だけでなく、むしろIDの前提が、彼自身の前提より劣るものだという批判でなければならない。

ではどちらが正しいのか? この場合、科学がその調停者になるべきだという点で、我々双方は合意できると私は考える。自然主義もIDも共に、現実世界で物事がどのようにして起こるのかについて、テスト可能な主張をしている。だから、それぞれの主張を評価することによって、この2つの立場を評価することができるはずである。

もし「つっかい棒」が欠陥のある立場を支える道具であるなら、そういうものは倒れるべきだと、私は完全に合意する。しかし、つっかい棒をつっかい棒と呼ぶときは注意しようではないか。私はID唱道者として、タンパク質分子が、その特定の仕事を細胞内部で果 たすことを可能にしている、何千という明瞭なからくりは、ダーウィン方式によっては生じ得ないと考えるべき、科学的証拠を提示してきた。のみならずこの問題の諸事実は、ダーウィン的であろうとなかろうと、いかなる自然主義的解決をも排除するように思える。

ここには何のつっかい棒もない。自然主義的な起源を排除するようにみえるタンパク質のからくりの諸相は、詳細に説明されている。もしシャピーロでも他の誰でもよいが、これらが自然主義的なメカニズムによって打ち負かされることを、詳細に論証してくれるならば、私の主張は無効であり私はそれを棄てる。しかしその逆も真でなければならない。個人的に自然主義に与する科学者たちは、いつでも自然主義を棄てる用意がなければならない。でないと、それを支えるために「つっかい棒」を使うという罪を犯すことになるからである。

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