The Washington Times
なぜ人間は特別なのか――人は創造者の似姿に創られたという以上の人間の説明はない
Tom Bethell
February 28, 2012
ほとんど毎日のように、遠くの惑星の新しい報告がある。それは我々の銀河系の千億の恒星を超えるかもしれない。もちろん我々が探しているのは、単に軌道を廻る岩石でなく地球外知性である。しかしそれは全く発見されていない。宇宙空間の沈黙は「気が狂うようだ」とCharles Krauthammerは書いている。
我々の時代の大きな思い込みの一つは、人類には何も特別なものはないというものだ。猿とはただ程度の違いがあるだけだ、と我々は聞かされる。自然と人間性は連続体をなしているという信念は、チャールズ・ダーウィンとともに顕著となったが、彼の公然たる狙いは、人間と自然を「一つの視野のもとに」置くことであった。
しかしその連続性の証拠はいまだに見つかっていない――1世紀を超えて続いてきた研究にもかかわらず。
もし人間が例外的でないのなら、人間レベルの知性は広くばらまかれ容易に発見されるはずだ。しかし我々はいまだに探し続けている。子供が3歳までに見せるような知性のいかなる痕跡も、いまだに発見されていない。
ハッブル望遠鏡は宇宙空間を探索する。我々の機械は進歩し、コンピューターの「メモリー」は増加した。もしかしたら、いつか機械は意識をもつようになるかもしれない。動物実験でも我々はチンパンジーを人間に変えようとする。いつかきっと彼らは言葉を話すようになるだろう――。しかしやはり何も起こっていない。
50年前、「ドレーク方程式」という数学問題が、地球外文明は多いはずだと仮定させた。カール・セーガンは、我々の銀河系には百万くらいの進んだ文明があるかもしれないと考えた。しかしドレーク方程式の数値は憶測であり、それはセーガン自身によって歪められたものだった。それは、生命が非生命から偶然によって生ずることのできる確率を意図的に高めるものであった。我々の知る限り、生命はここだけに現れたものであり、それもおそらく偶然によってではない。
人工知能(AI)の真剣な探究は、ほぼそれと同時に始まった。1956年のダートマス・カレッジ会議は、数学者のJohn McCarthyとMarvin Minskyの組織したものだった。人工知能を作り出す問題は、数年以内に解決するだろうと彼らは考えた。それは、はるかにそれ以上の年月がかかった上に、失敗した実験は、人間の知性の世界が数学に還元できないことを示した。
映画『2001年宇宙の旅』(1968年製作)は、宇宙調査使命を妨害しようとするHALと呼ばれる不気味なコンピューターを描いた。2001年になってミンスキー氏は、「HALはどこにある?」と問うた。独立した心をもつコンピューターのようなものは、いまだに何も作られてはいない。
今日AIの先頭に立つ人と言えば、おそらくRay Kurzwellであろう。彼はコンピューター・プログラムが、チェスの世界チャンピオンを破るだろうと予言し、それは当たった。しかしチェス問題はディジタル化することができる。最上の次の一手はコンピューターによって計算することができる。
現実世界の問題に向き合うコンピューターは、予期しない困難に直面する。いわゆる「フレーム問題」である。プログラマーは、課題に関係することだけに注意を払い、関係のないことは無視し、詳細な指令を書き上げねばならない。これは無限後退の問題を作り出す可能性がある。小さな子供にはそもそもそれが問題には見えない。しかし常識をコンピューターに組み込む試みは、行き詰ってしまうようだ。人の心は常に計算できないことをやっている。
カーツウェル氏は、『精神的機械の時代』(1999)の中で、2029年までにコンピューターは意識をもつだろうと予言した。しかし時が経つにつれ、それはますます非現実的に思えるようになった。
チンパンジーに言葉を話させる努力は、失望以外のものを生み出さなかった。論理的に話すということを、小さな子供は突然始めるが、動物はいくら教えてもできない。我々が複雑な言語を習得するのは、人間が例外的なものである最も顕著な証拠かもしれない。
我々が言語において特別であると主張する第一人者は、MITのノアム・チョムスキーである。子供は、人間の言語に共通の基本的な文法構造を生まれながらに知っている、とチョムスキー氏は言う。その能力によって、子供は、誰も今まで話したことのない文章も含め、無限数の文章を作り出すことができる。彼らはそれを非常に速やかに習得するから、生得の能力としか説明できない。
一方、人間を貶めることは流行となり、日常茶飯事となり、学問の世界ではほとんど義務のようになっている。セーガンは、「我々の思い上がり、我々の思い込みの自尊心、自分がこの宇宙で何か特権的立場にあるという妄想」を嘲笑した。進化論者であるスティーヴン・J・グールドも同じようなことを言った。
あたかも我々が、モハメド・アリのように「我々が一番偉いのだ!」と言って歩いているかのように。しかし誰がそんなことを言っているのか? セーガンもチョムスキーもそれが誰だとは言っていない。ほとんどの場合、本当に彼らが目の敵としているのは、人間の思い上がりでなく、神への信仰だと思われる。ダーウィニストが本当に腹立たしいのは、我々が自分を偉いと思うことでなく、依然として神の方が偉いと思っていることなのだ。
人間を貶めているということを、ダーウィニストはいまだに意に介していない。その彼らの探究は行き詰っている。多分それは、我々の理性能力が比類のないものだからである。
(トム・ベセルはAmerican Spectatorのシニア編集者) |