NO.13(2004年1月)


生命に合わせて調整されている自然法則(3)
――「生かされている」という科学的事実――

渡辺 久義   

光の適合性

 創世記冒頭に「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見てよしとされた」とある。聖書のこういう記述を、私などは単に天地創造の荘厳な文学的表現として読んでいた。そうには違いない。しかし「その光を見てよしとされた」となぜ言うのだろうか。この表現は、苦労して作り上げた自分の作品を満足げに見ている芸術家を思わせるではないか。前回取り上げた水という物質が、勝手に生じたものでなく、どこまでも生命に合わせて考案されたと考えざるをえないように、この地上の光も驚嘆すべき知と技によって成ったものだと考えるほかないようである。
  そのことを私は、やはりマイケル・デントンの『予定された自然―生物学の法則は宇宙の目的を開示する』(Nature's Destiny: How the Laws of Biology Reveal Purpose in the Universe, 1998)を通じて知った。少なくとも、水が単にそこにある、というものでないように、光が単にそこにある、というものでないことは確かである。もし光が単にそこにあるものならば、「モナ・リザ」も他のいかなる繊細緻密な芸術作品も、単にそこにある、と言わなければならないだろう。
 光は霊的なものである、とルドルフ・シュタイナー(「シュタイナー教育」で有名な哲学者、霊能者)が言っていたことを思い出す。我々は物理学の一部門としての光学というようなものに慣らされているためにそういう感覚を持てなくなっているが、デントンのなしたような観察はそれをよみがえらせてくれだろう。少なくとも、ベルリンスキーの書評に言うように「驚異の感覚」をよみがえらせてくれる。
 「光の適合性」という章のレジュメの部分をまず引用してみよう。

 地球の表面に届く電磁放射は、炭素をベースにした生命にとって、これしかないという適合性をもっている。太陽の放射は主に視覚範囲、すなわち近紫外線から近赤外線の中に入る。このごく小さな範囲の外にある電磁放射の大部分は、生命にとって有害であるばかりでなく、この視覚的スペクトル内のエネルギー・レベルは、光化学のために正確に合っている。
 驚くべきことに、水蒸気や液体の水を含む大気圏のガスは、視覚範囲の外のほとんどすべての有害な放射を吸収し、このごく小さな範囲の生物学的に有益な放射だけを地表に届けている。これらの不思議な一致は、炭素をベースにした生命に対する自然の適合性の説得力ある証拠を提供している。その光化学上の有用性ということに加えて、視覚光線の波長とエネルギー・レベルは、人間を含めた高等脊椎動物で使われているような、カメラ式の眼による視覚装置に合ったものである。水と同じく、太陽の光も生物学的有用性の最適値をとっているようである。  

 私自身を含めて、素人には少し分かりにくいので説明させていただくと、この宇宙には、最も短い波長のガンマ線から最も長い波長の電波まで、途方もない長さの電磁放射エネルギー(要するに光や熱)のスペクトル(分布の幅)が存在する。地球に届く太陽の放射は、その莫大な波長の幅のごく微小な部分にすぎない。そのごく微小な部分のみが生命にとってぴったり有用で、他の波長の電磁放射のほとんどが、生命にとって「致死的であるか極めて有害」であるということは、いわばダブル奇跡というべきだろう。
 更に、その太陽の放射の地表(や海中)に届く部分が、大気圏のガスや水やオゾン層によって紫外線を吸収されて、生命にとってやさしい、光合成などに都合のいい光だけが得られるようになっているということが、更なる奇跡というべきだろう。
 「客観的」記述をするはずの『ブリタニカ百科事典』(最新十五版)が、デントンの指摘によると、この問題について「畏怖の念に打たれる」(awed)という言葉を使っている。このことは特筆に価する――「太陽の可視光線が地上の生命のあらゆる面に対してもつ重要さを考えるとき、大気圏による吸収や水の吸収によるスペクトルの劇的に狭い窓については、畏怖の念に打たれずにはいられない。」

科学と価値の融合

 ところで二十世紀という時代は、事実の記述と価値や倫理を明確に分けた時代であった。すなわち科学に価値評価が入ってはならなかった。むしろそれを誇りとした。その信念がいま次第に崩れつつあると言ってよいであろう。科学と価値を峻別したくとも、できないような事情が次第に生まれつつあるのである。
 「ありがたい」というのは日本語独特の表現である。「生かされている」という表現と並んで、これを外国語に翻訳することはむつかしい。「有り難い」とは「存在し難い」ということで、「有り難き幸せ(に浴する)」というのが本来の使い方であろう。今まで見てきたように、ほとんどすべての自然的条件がひたすら生命のため、更には人間のために、調整され機能しているという事実を次々と指摘されてみると、「生かされている」「有り難き幸せ」という、これまでもっぱら宗教的・倫理的概念であったものが、科学的記述と切り離せなくなるのである。
 光や水についてのこれまで見てきたような「人間原理」的事実や特性を、ことさら驚異も畏怖も感ずることなく、当たり前のこととして受け止めることもできる。それが科学する者に望ましい態度なのであろうか。価値を切り離さなければ科学が科学として成り立たないのであろうか。自然界には意味もなければデザインもないと、学校教育においても教え込まなければならないのだろうか。私はそれは科学の芽を摘むもの、それこそ「科学離れ」といわれる傾向を助長するものであると思う。
 子供は親の愛を全身に受けながら、それが当たり前と思って幼児時代を過ごす。それでよいのである。けれども少年となり青年となっても、それが当たり前としか感じられないとしたら、それは精神的停滞の証である。人類の成長についても同じではなかろうか。今まではそれでもよかったのかもしれない。しかし今、これまでの偏狭な科学の思考枠を脱皮すべき時であることは明らかなのである。水や光についてのデントンの指摘するようなことを、別に目新しくもない単なる事実だと言い張る人があるかもしれない。しかし同じ事実をどのような角度から見直し、どう解釈し、どのような意味をそこに見出すかということが人間の進歩の証のはずである。それは単純に近代科学以前の神に戻る、などということではないはずである。

光の神秘

 我々は次のような一連の不思議な一致(coincidences)に、畏怖を覚え、たじろぐ(awed and staggered)べきである。すなわち、太陽の電磁放射が全体的電磁波スペクトルのごく小さな領域に限定されていること、その小ささは宇宙のかなたまで並べた10__(10の25乗)枚のカードの中の特定の一枚に相当すること、そして正にその限りなく微小な領域が正確に生命のために要求されているものであること、大気圏のガスがこの同じごく小さな領域を除いたすべてのスペクトルの領域を遮断するということ、水もまたこのごくごく小さい領域を除いたすべてのスペクトルの領域を遮断するということ、等々。それはあたかもカード遊びをする人が、四度の機会に、全く同じカードを10__(10の25乗)枚の中から引き当てたようなものである。(注――『ブリタニカ百科事典』の言う「劇的に狭い窓」が四つ重なっているということ)
 しかもこれらの不思議な一致があったとしても、地表に届く太陽の放射が過去四十億年の間ほとんど不変であったのでなければ、生命は決して今のように生き残って進化することはなかったであろう。太陽が炭素をベースにした生命のためのエネルギー源としてぴったりであるのは、正確に生命に必要なレベルの放射エネルギーを供給することだけにあるのではない。それはまた想像もつかないほどの長い年月にわたって、ほとんど完全に変わらない強さで必要なエネルギーを供給してきたからでもある。太陽からの放射エネルギーが生命の歴史のどの段階ででも、ほんの少しでも変化していたら、悲惨な結果を招いていたであろう。

 私自身が十分に納得するためにも、光の神秘のこの部分だけを反復して引用したが、我々の浴びている光が(神によって細工された)「畏怖すべき」ものであることを悟るには、これだけで十分であろう。

火を作る者

 水や光に並んでもう一つ、あまりにもありふれているために、その対・人間的意味に我々が気付いていないものに、火がある。火は、水や光とは違って動物には扱えないものであるがゆえに、言語能力や数学などと同じく、人間だけに与えられたものである。まずこの「与えられたもの」という観点が重要である。「ホモ・サピエンス、火を作る者」という章のレジュメを引用してみる。

 我々人間は宇宙を探究し理解するために、唯一適合したものである。また自然の法則は、唯一我々の大きさと次元をもった大型の生命体にだけ、適合したものであるように思われる。その証拠は決定的ではないが高度に示唆的である。我々人間は全体的に見て、炭素をベースにした地上の生命体の中で、他にはない一連の適応性を示している。すなわち高い知能、言語能力、手、高性能の視覚、直立性、社会性など。
 その上、人間の体の設計と寸法は、火を扱うのに適しているが、それは決定的に重要な能力である。なぜなら人間は、火を自分のものにすることによってのみ、金属を発見し、技術と科学を発達させ、究極的に自然法則を理解するようになり、宇宙の全機構を把握するに至ったのであるから。多くの不思議な一致が、火を扱うことや宇宙の理解に我々が適していることの根底にあるように思われる。例えば、地球の大きさや大気は、我々の大きさと作りの生物のためにも、火のためにも適している。筋肉の強さは、地球サイズの惑星上の我々のサイズの存在の運動性とつり合ったものである。自然法則は、人間の心が不思議にも把握できるようになっている数学的パタンに順応している。結論として、宇宙は我々の存在と我々の理解力に適合しているようである。

 このようなコンテクストの中で火というものを捉えること、すなわち火と数学を同列においてみるということが卓見というべきである。つまり火も数学も宇宙を解明するために人間だけに与えられた道具であり――なぜなら、火によって金属が加工され自然観察の器具ができ、化学も火によって可能となった――そのために火がうまく使えるように、火自体も我々自身も、物理的・身体的条件が(神によって)ちゃんと配慮されている、ということである。むろん、火は暖を取り料理をするためでもあるが、それとて動物は(神の)考慮の外に置かれていることに深い意味がある。
 この地球上で火を起こすということが偶然可能であり、その偶然存在する火を生存競争に勝ち残った人間がもっぱら自分の才覚でうまく利用してきた――というダーウィン的・自己中心的観点とは正反対の、全く角度の違う観点であることに注意すべきである。

 火それ自体が驚くべき現象であることはすでに述べた。そもそも炭素と酸素の間の化学反応が手に負えるものであるということが、環境温度での炭素と酸素分子が化学的に比較的不活発であることの結果である。…火が、地球のような惑星上の大型の地上生物によって取り扱い可能であるのは、もっぱら木の燃焼が遅いことによる。
 維持することが可能な最小の焚き火は直径およそ五〇センチであるから、ほぼ我々のような大きさと作りの――すなわち、およそ一メートルの長さのよく動かせる腕の先に道具をもち、背丈は一・五から二メートルの――生物のみが火を扱うことができる。蟻のような小さい生物は、火に近寄れば焼かれてしまうから火を扱うことはできない。小型の犬くらいの生物であっても火を操作するのはかなり困難であろう。〔逆に人間以上の大きさの生物には、敏捷性などの理由で火は扱えないだろうと言っている。〕…
 従って火を焚くには、我々の筋肉の強さと体格がともに現にあるものに近くなければならないことは明らかである。半分あるいは三分の一の小型の人間であったとすれば、一キロ以上の目方の薪を運ぶのにかなり困難を覚えるだろう。そのような人間は火を焚くのに小枝しか使えないことになり、そのような火が、熱と持続性において金属の発見と冶金の発達のために十分であったかどうかは極めて疑わしい。

 こういう観点はおそらく我々の盲点となっている。それは我々がこれまでの自然観の習慣によって、自然を征服するというような観点でしか考えていないからである。マイケル・デントンの立場はそうでなく、徹底的に、この宇宙を設計したものの立場に立ってみるのである。いわば摂理的自然観ともいうべきものであるが、そのことによって、これまでの自己中心的・ダーウィン的自然観よりも、はるかによくものが見えてくるのである。

『世界思想』No.339(2004年1月号)

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