火と数学を同列においてみるということ
――「人間原理」的洞察――
渡辺 久義
人間だけに与えられた
火と数学を同列においてみるという思いがけない視点を、我々は前号に紹介したマイケル・デントンの叙述からはからずも教えられた。火も数学も、意図されて人間のために、人間だけに与えられたものである。しばらくこのことについて敷衍してみたいと思う。
私は以前ある人から、花はすべて人間の目の高さに合わせて咲くようになっている、我々の目よりも低い花は上を向いて咲き、それより高い花はほぼ下を向いて咲く、という話を聞いてはっと目を開かれたことがある。考えてみればまさにその通りではないか。花はネズミの目やキリンの目に合わせて咲きはしない。「人間原理」などという言葉を聞くよりも前のことであったが、これも事例を積み重ねていくことによってますます強固なものになっていく「人間原理」的事実の一つである。デントンが指摘する通り、火が人間の体格に合わせた手ごろなサイズと付き易さ(ほどよい付きにくさ)になっているように、花も我々人間に合わせて咲くようになっていると考えざるをえない。
因みに「火それ自体が驚くべき現象である」だけでない。酸素そのものが極めて危険なものであるのに、我々がそれのおかげで生きているということが奇跡的なのだという。「すべての呼吸する生物は一つの過酷な罠にはまっている。彼らの生命を支える酸素自体が彼らにとっては有毒であり、彼らはただ絶妙な防衛メカニズムのおかげできわどく生き延びているのである」(アーウィン・フリドヴィッチ――デントンの引用による)。
そのような観点に立って考えると不思議なことはいくらでもある。現在我々の周囲にあふれる花そのものがそうである。ダーウィン的観点からその存在を説明することなどできない。植物園や花屋の店に入って、これほどの見事で繊細な芸術作品を自然が見せてくれることに驚かない人はいないだろう。そこにはもちろん野生のままのものもあるが、そのほとんどが品種改良家の手によって創り出されたものに違いない。
そこで不思議なことに気付く。自然は人間の手の介入をきっぱりと拒んでもよかったはずである。ところが現実には、自然は人間の手を喜んで受け入れ、人間のために人間の意を汲んで美しくなってくれたかのようである。もちろんそこには限界がある。バラの木にランの花を咲かせることはできない。しかし、あたかも限界内での最大の努力を自然がしてくれているとさえ思える。自然の背後にあるのが神であるとすれば、神と人間は美意識を共有し、協力して新しい美を創り出そうとしているのだと言ってもよいだろう。これも不思議な「人間原理」的事実の一つである。
宇宙に内在するイデア
美しさの感覚には個人的な違いはあるだろう。また民族による好みの違いもあるだろう。しかしそのような好みの違いを超えて、絶対的な美の基準というもの、実現すべき普遍的な美の方向、つまり「美のイデア」というべきものが、宇宙自然に内在すると想定せざるをえないのである。それは個人や文化によって数学に得手不得手があっても、数理そのものに違いがないのと同じであろう。
そのようなところから一つの教訓が導き出せるであろう。目的論的・デザイン論的観点に立たない限り、バイオテクノロジーとか遺伝子操作とかいわれるものは失敗するであろうということである。遺伝子を操作すること自体が「神の領域に踏み込む」禁じ手なのではない。しかしダーウィン的な競争とか生き残り価値といった原理に基づいてこれを推し進めるなら、必ず失敗するであろう。たとえば身長二・五メートルの強い人間を国策で大量に作り出そうとする国があったと仮定して、それは技術的には可能であるかもしれない。しかしそういうものが生き残ることはできない。デントンが指摘するように、身長一・五から二メートルという人間のサイズが、火のサイズに合わせてデザインされたものだとすれば、そういう調和を破る人間は生き残れないだろう。「人間原理」とは確かに人間を中心に宇宙が作られているという理論であるが、それはあくまで宇宙的調和の中での人間ということである。(その宇宙的調和の中に、男女の差異と和合ということも組み込まれているのであって、これに反旗をひるがえす「ジェンダー・フリー」のような思想は、やはり生き残れない。)
ギリシア神話のプロメテウスは、天上から火を盗んで人間に与えたかどで、神によって罰せられ、岩山に縛り付けられ、生きながら猛禽に肝を食われるはめとなった。これの解釈はいろいろあるであろう。けれども、火というものが最初から、人間だけに与えるべく人間のために作られたものであるという観点を取るならば、火は押し戴き神意を汲んで正しく使うべきものであって、盗んで勝手に使うものではないのである。この話は、そういう考え違いをした人間のヒュブリス(傲慢)、すなわち神なき人間中心主義に対する神罰として解釈することができる。
これは人間のセックスの濫用ときわめてよく似ている。もともと神によって与えられ、むしろ神と共有してこの世界を創造していくべく意図されたものを、あたかも人間の私物であるかのように考え違いをしているのである。「神罰」などと言えば大多数の現代人はニヤリと笑うであろう。しかし今紹介しているマイケル・デントンや、他の多くの目的論・デザイン論者の立場に立つならば、「神罰」ということをほとんど科学的帰結として実感することができるのである。
プロメテウスの受けた罰の教訓は、むろん我々の時代の化石燃料、ウラン燃料、そして将来可能になるかもしれない水素燃料にまで及んでいる。我々の開発する技術や能力はいったいどこから来るものなのか、誰のものなのか、というどこまでも深い問題なのである。
この問題は数学あるいは言語という人間だけのもつ能力を考えてみるときに顕著なものになる。前号に引用したデントンの文章にも「自然法則は、人間の精神が不思議にも把握できるようになっている数学的パタンに順応している。宇宙は我々の存在と我々の理解力に適合しているようである」とあった。この不思議な事実を詳しく論じているのは物理学者ポール・デイヴィスの『神の心』(The
Mind of God)である。
外在する火も、内在する言語能力(言語はさまざまであるが言語能力は人間に共通である)も、人間だけに与えられたもの、それらを駆使して世界を切り開くように与えられたものである。まずこの不思議な事実が認識されなければならない。人間は、火や言語能力を、何かと競争して自力で「勝ち取った」わけではない。その点でも人間と他の動物の間には明確な断絶がある。化石の断絶と同じ断絶である。
なぜ宇宙は数学的なのか
ところで数学とは広義の言語、つまり言語能力の延長であり、どちらも抽象能力である。動物は5個のリンゴと5本のバナナと5本の棒を認識することはできるが、いかに賢くてもそこから5という数値を抽象することはできないだろう。まして5とか7といった数同士をいろいろに組み合わせて数値だけの抽象の世界を構築することはできない。人間だけがそういう能力を与えられている。どういう意味がそこにあるのか。
ポール・デイヴィスは『神の心』、「数学の秘密、なぜ我々が」という章の冒頭で、アインシュタインの「宇宙について唯一理解できないことはそれが理解できることだ」という逆説的な言葉を引用している。どうして我々人間が――とはいっても高等数学を理解できるのは人類の少数者であろうが――頭の中だけで作り上げてきた高度な抽象的体系である数学が、宇宙の秘密を解くのにこれほど有効なのであろうか、というこの疑問は、アインシュタインの他にも何人かの科学者によって「驚異」とか「不気味」とか言われているようである。デイヴィスはこう言っている――
驚くべきことは、人間が現実にこの暗号解読の作業ができるということ、人間の心が「自然の秘密の戸を開ける」のに必要な知的装備を与えられていて、自然の「謎めいたクロスワード」を完成させる試みがかなりうまくいく、ということである。自然界の規則性が誰にでもわかりやすく一目瞭然であるような世界を想像することもできる。それとも規則性というものが全くない世界、あるいは規則性があまりにも見事に隠され玄妙であるために、その暗号を解くには人間の能力をはるかに超える頭脳が必要であるような宇宙を想像することも可能である。ところが現実に我々に与えられているのは、宇宙の暗号の難しさがほとんど人間の能力にちょうど合うように調整されていると思える状況なのである。…
なぜ宇宙の基本的な法則が数学的であるのかを、立ち止まって考えてみる科学者は少ない。彼らはただそれを当然のこととして受け止めている。しかし物理的世界に適用したときに「数学が有効である」という事実、しかもあきれるほどに有効であるという事実は説明を要する。なぜなら、世界が数学によってうまく記述されることを我々が期待してよい権利をもつかどうかは、自明の理ではないからである。
これは深い謎でなければならない。このことを単なる偶然であるとか、人間が数学を自然界に合うように作っているにすぎない、といった説明がなされることもあるが、いくつかの理由から自分はそういう説明を取らない、とデイヴィスは言っている。
第一に、物理理論においてあまりにも見事な有効性をもつ数学の多くは、自然界に適用されるよりはるか以前に、純粋数学者たちによって抽象的訓練として考え出されたものである。その始原における研究は、結果としてそれらが適用されたこととは全く無関係である。この「純粋知性によって作り出された独立した世界」は、後になって、自然を記述するのに役に立つことがわかったのである。イギリスの数学者G・H・ハーディは、自分は美のために数学をやっている、実用的価値のためではない、と書いたことがある。彼はほとんど誇らしげに、自分の仕事が将来なにかの役に立つなどということはありえない、と述べたものである。ところが我々は、しばしば何年もたってから、こういった純粋数学者たちがすでに定式化した全く同じ数学ルールの遊びを、自然がやっていることを発見するのである(皮肉なことに、その中にはハーディ自身の仕事の多くも含まれる)。
宇宙学者としてスティーヴン・ホーキングとともに名高いロジャー・ペンローズの次のような言葉も、デイヴィスによって引用されている――
そのような説を試みる人もあるが、私には、このような飛びぬけてすぐれた理論[一般相対性理論]が、すぐれたものだけを生き残らせるランダムな思考の自然選択としてのみ生じたとは考えられない。すぐれた思考というものは、そんなやりかたで生き残るにしてはあまりにもすぐれている。そうではなく、数学と物理学の間、すなわちプラトンの世界と地上有形世界の間の一致ということに対する、何か深い隠れた理由があるのに違いない。
意図された贈り物
数学的(かつ物理学的)真理は発明されるものなのか啓示されるものなのか、というこの問題は、それ自体が一つの啓示を含んだ問題というべきである。人は一般に、人間は賢いから(あるいは自分は賢いから)そういうことができるのだ、と考えている。しかしそれなら、自分のその賢さはいったいどこからきたのか、と考えてみなければならない。ダーウィンの原理で賢いものが生き残ったのにすぎないのか、と言えば、そうではない、とどうしても結論しなければならない。
端的に言えば、人間と神は美意識を共有すると私が言ったように、同じ数学を共有するということである。神は人間創造にあたって、自分が宇宙創造に用いたのと同じ数理を人間に与えた、と考えるよりほかに考えようがない。一歩譲ってそれが仮説にすぎないとしても、我々にとってそれ以上に有効な仮説はないことを、人は認めなければならない。
ここで我々は恐るべき結論に到達せざるをえない。火も数学も、それを使って人間が自分の住む宇宙の秘密の一端に触れるべく、意図された贈り物であるということである。もちろん火がなければ自然観測機器をはじめ、今我々のもつ文明の利器の一切はなかったはずである。偶然存在する火を人間が自分の才覚で利用した、という学校で教えられる考え方は捨てなければならないのである。数学の能力をはじめとする人間の知能も、宇宙創造の秘密に参与すべく与えられたものである。その秘密を我々は少しずつ発見していくのである。真理の発見と創造は一つのものであり、人間の栄光と神の栄光は一致するのである。
『世界思想』No. 340(2004年2月号)
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