NO.22(2004年10月)


我々は霊的機械か
――未来の人工知能は我々を不要にするか――

渡辺 久義   

機械が人間になれる?
 このタイトルは今から紹介する本 (Are We Spiritual Machines?―Ray Kurzweil vs. the Critics of Strong AI, Discovery Institute Press, 2002 ) のタイトルである。AIとは人工知能(Artificial Intelligence)のことであり、Strong AIとは、自己を改善し自己増殖し意識をもつことのできる、人間と同等かそれ以上の仮説的人工知能のことだという。
 まず出版元のDiscovery Instituteについて説明しておくと、これは「インテリジェント・デザイン」運動を世に広めようとするアメリカの非営利組織の一つであり、インターネット・サイトでもある。特にその科学部門がCenter for the Renewal of Science and Cultureと名づけられているように、科学革命がすなわち文化革命であるというこの団体の世直し意識がうかがえる。
 この本の内容は、「才能ある発明家、企業家、未来学者」であるカーツウェイルという人の「強い人工知能」の近い将来における実現を予言する論文と、それに対する数名の反論、さらにそのそれぞれに対するカーツウェイルの応酬という形を取っている。
 編集者は、機械が人間をしのぎ人間に取って代わると主張する唯物論者のカーツウェイルには、当然、反対の立場であり、数人の批判者をこれに対決させたのだが、この問題があまりにも我々にとって切実で、避けることのできない論点を含んでいるということで、カーツウェイルに一々応酬させ、あえてそのままにしておいたのだという。だからカーツウェイル一人の文章がこの本の三分の二を占める格好になっている。
 私は、編集者J・W・リチャーズ(二回にわたって紹介した『特権的惑星』の著者の一人)とG・ギルダーの手になる序文に敬意を表する。この序文は、明確な自分の立場をもちながら的確公平な解説であり、この本の読み方を教える案内文でもある。これがなければ、それぞれの論者の言うことのどれを信じていいのか、読者は途方にくれるはずである。
 今我々は、人工知能にせよ何にせよ、我々にお構いなく恐ろしい勢いで進むナノテクノロジーと呼ばれる技術革新の波に巻き込まれて、それをどう考えたらよいのか、我々にとってそれがどういう意味を持つのか、よく分からないでいるのである。いったい今後どうなるのか不安でもある。我々のほとんどが素人であり、その道の専門家がこうだと言えば、そういうものだろうかと考えざるをえない。そういう時代に、こういった本の企画は時宜を得たというより、むしろ砂漠の道しるべと言ったほうがよいであろう。
 カーツウェイルという人はこの道の権威者であり、コンピューターがチェス名人を負かす年を言い当てた人だという。コンピューターがチェスや計算においては人間の頭脳をはるかに超えることは誰でも知っている。だが彼が予言しているのは、人工知能がここ数十年の間に、人間の能力を質量ともに超える知力と意識のレベルに達し、その結果、自我意識をもち自己を増殖する、機械と人間をドッキングさせたコンピューター人種ができるだろうということである。彼はこんなふうに言っている。

 [意識には客観と主観の側面があるが]客観的には、誰かの脳をスキャンし(読み取り)、その人の心の内容のファイルを適当なコンピュート媒体に移し変える(reinstantiate)なら、新たにそこに現れてきた「人物」は、他の観察者には、最初にスキャンされた人物と全く同じ人格、経歴、記憶をもっているように見えるだろう。もちろん、この技術が洗練され完成した暁には、ということである。新しい技術は何でもそうだが、最初から完全を期することはできない。しかし究極的には、スキャンと再創造は非常に正確で現実的なものになるだろう。
 この新しく実現された人物と応対するときには、元の人物と応対しているように感ずるだろう。新しい人物は自分がその元の人間だと主張するであろうし、その人間であった記憶をもつだろう。その新しい人物は元の人間のすべての知識、技能、人柄のパタンをもつことになるだろう。我々はすでに機能的に同等なニューロンやニューロン集合の人工物を作り始めているが、それらは生物のニューロンがその非生物の同等物を、あたかも本物であるかのように受け入れ、共同作業するほどに正確なものである。人間の脳と我々が呼んでいる何千億のニューロン集合についても、同じことをすることを妨げる自然の限界は何もないのである。

哲学の問題

 これは純粋に技術の問題ではない。技術の問題に哲学が不可分に絡まってくるがゆえに、相手が実績ある権威者だといっても、我々はこれを全面的に信用することはできないと感ずる。生命とは何か、心(意識)とは何か、人間とは何かといった問題は、唯物論的に片のつく問題ではないのに、そういった考慮が全くなされないまま、単なる技術の問題としてここでは議論が進んでいる。ただ、何かが根本的におかしいとは感ずるが、どこがおかしいと言われると答えられない、というのが大方の反応ではないだろうか。
しかしカーツウェイルは、さらに予測を極端なところにまでもっていくことによって、さらに我々を戸惑わせる。

 これらの未来の機械に霊的体験をすることが可能であろうか? それは可能だと確実に彼らは言うだろう。彼らは自分が人間だと主張し、人々が経験したと主張するような感情的・霊的体験の全域が自分のものだと主張するだろう。

 将来ロボットが、我々に代わって相当なことまでやってくれるだろうという予測はつく。しかしロボットが瞑想して悟りを開いたり、霊交したり、予知能力をもったりするであろうか。我々は唖然とするのであるが、この論者はその可能性を大真面目で主張しているようである。従って彼は、唯物論者でありながら「神」を否定しないという不思議なことになっている。

 進化するとはどういうことか? 進化はより大きい複雑性、より大きい優美、より大きい知識、より大きい知能、美、創造性、愛へと向かうものである。そして神とはすべてこれらの属性をもつもの、ただし無制限にもつものである。無限の知識、無限の知能、無限の…。進化は無限のレベルに達することはない。しかしそれは対数関数的に爆発していくものだから、確実にその方向へ向かっていく。だから進化は、この理想に達することはなくとも、否応なく神の概念の方へと進んでいく。

 この部分だけ読めば正統的な信仰者の文章と変わらない。その点でカーツウェイルはドーキンズのようなドライ極まる無神論者とは一線を画している。ただ、ここでいう進化の概念の背後には超越者がいるのではない。ここで言っている進化とは、あくまで物質の自己発展として考えられた進化である。彼にとって宇宙の本質はあくまで物質であり、その物質が人間を作り出し、さらに将来、不可避的に、人間を超えて人間以上の神に近いロボットを作り出すと言っているのである。ちょうどこれは、物質に内在する力によって歴史が発展し、最後にプロレタリア革命という物的力によって「神の国」が出現するというマルクス主義理論に似ているともいえる。
 要するにこの論者によれば、物質自体に、生命を作り出し意識を作り出し、さらにその作り出した生命や意識を神に向けて高めていく力が備わっているということであろう。(これは宇宙の「自己組織化」論を極限にまで押し詰めたものと言ってよい。)そのように考えるならば、人間は(ドーキンズの「遺伝子の乗り物」のように)物質の自己発展運動の途上の一つの乗り物にすぎず、人間以上に発達した機械によって乗り捨てられ、置き去りにされる運命にあることになる。それは神には近づくが、近づくものはロボットであって人間ではない。彼の所説からはそういう結論が出る。

四人の学者の反論

 このような未来予測に対して、四人の学者の反論が載せられている。哲学者のジョン・サール、動物学者のトム・レイ、それに我々がすでに名を知っている数学者にして哲学者のウィリアム・デムスキーと生物学者のマイケル・デントンである。それぞれ立場はすこしずつ違うが(例えばジョン・サールは唯物論者)、共通するのは、機械と生命を同一原理で扱うことはできないということである。この本は先にも述べたように、カーツウェイルに批判者の一人ひとりに対する再反論をさせて終わっているが、彼はあくまで機械と生命は原理的に同じものだと主張し、批判者たちを難じてひるむ様子もない。
 共産主義が正しいか否かの最終決着は、ソ連邦が崩壊するまで待つよりほかなかったのかもしれないが、ソ連邦が成立した時点ですでにその崩壊を予言したベルジャーエフという哲学者がいる。それはこの政権が、間違った宇宙解釈の上に建てられたものだったからである。カーツウェイルも共産主義者のように、我々の未来が「歴史的必然」として不可避的に彼の予測するようなコースをたどると言っているのである。それが正しいか否かはあと数十年たたないとわからないのであろうか。私はそうではないと思う。それは前提となる彼の宇宙解釈が根本的に誤っているからである。
 かりに専門技術者でもあるらしい彼の予測が半ば当たって、人体への人工物の接続や人間と機械の合成ロボットのようなものがある程度可能であったとしても、それが彼の言うように無限に可能でないことは素人にも断言できる。いわんや、その方向へ突き進むのが歴史的必然などではないのである。
哲学者のジョン・サールが警告していることは傾聴に値する。

 専門家が今日の技術について一般大衆に説明するときに、犯しやすい最悪のことが二つある。一つは、彼らが一般大衆の理解できないことを理解しているような印象を与えること。もう一つは、そういう事実はないのに、ある理論が真理として確立されているかのような印象を与えること。

頭の混乱を整理する

 先にも述べたように、我々の頭の混乱を整理してくれるのがこの本の序文である。この序文を読んであらためて感ずるのは、有神論的立場からは、ものをよく見抜き見分けることができるが、無神論的立場からは、ものが見えずあるいは混乱して、論理が破綻してしまうということである。我々は一般に、この反対のことを今まで教えられてきた。「神などという怪しげなものを考えず、現実をありのままに見なければ真理をつかむことはできない」というように。今これが全く逆であること、超越者(超越的次元)を想定しなければ何一つ本当に分かったとは言えないことを我々は悟り始めている。インテリジェント・デザインのような現代科学の動向がそれを示している。
 カーツウェイルの考え方を要領よく要約した序文の部分を、以下に引用してみよう。

@人間の知能は究極のところ、我々を考慮することのなかったある過程の産物である。
  (従って、カーツウェイルのような人たちの考える唯一のデザインされた――そして超越的な――知能とは、我々自身の知能から進化した、より高い技術的知能であり、我々の知能自体は、非知能的な過程によって進化したものである。)
A究極のところ我々は、コンピューターのソフトウエアとハードウエアの、ある物質的結合である。
(結局、それ以外の何でありうるのか?)
B我々の技術が十分なコンピューター組立てと複雑性に達したとき、それは我々と同じように意識をもつ。
(でなかったら人間の意識は、唯物論的範疇において説明のつかないものになる。)
Cもし我々が、炭素をベースにした、複雑でコンピューターのような原子の集まりで、しかも意識をもつというのであれば、なぜ同じことがシリコンをベースにした、十分に複雑なコンピューターについても言えないのか?

 これに対して編集者は言っている――「自然主義的な前提に立つならば、これらの結論はもっともなものに思える。しかしその前提を取らないとしたらどうなのだ?」
さらに、カーツウェイルのこうした予言を聞いて慌てふためき、技術革新の行末がこういうことにならないように、強権によって規制するか、自主的に研究を放棄すべきだと論ずるビル・ジョイなる人物の愚かさを指摘し、「人間の創造的自由は上から下への法と超越的秩序の中で、すなわち科学から気まぐれを排除し、宇宙での究極的な悪の勝利を否定する一神教のもとで栄えるものである」と述べている。

『世界思想』No.348(2004年10月号)

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