NO.23(2004年11月)


再び問う「我々は霊的機械か」
――私という存在はどこにいるか――

渡辺 久義   

機械が神に近づく?

 前号に紹介した『我々は霊的機械か』(Are We Spiritual Machines? )の編者が、カーツウェイルに新しく論文を依頼し、四人の学者の反論とともに一冊の本にまとめたのは、影響力あるこの唯物論者の予言的著書である『霊的機械の時代―コンピューターが人間の知能を超えるとき』(The Age of Spiritual Machines: When Computers Exceed Human Intelligence、1999)に見過ごせぬ由々しい問題を見て取ったからであった。ここには単なる技術革新の問題を超えて、人間というものをどう解釈するか、ひいては宇宙そのものをどう捉えるか、という根本問題が横たわっているので、私もこれを簡単に片付けるわけにはいかない。
 カーツウェイルは、数十年後には人工知能がはるかに人間の知能を質量ともに超えると予言するだけではない、霊的体験をするだろうと言っているのである。前号にも引用したように彼は神を否定しない。進化の目的は、完全で無限の神に近づくことなのだから、人間よりはるかに進化した機械(人工知能)は、人間よりはるかに神に近づくことができると主張するのである。
 そのように言われると、たいていの人は頭を抱えてしまうであろう。彼は進化というものが、ダーウィン主義者の言うように無目的・偶然だとは言わない、少しずつ神に近づいていくことだと言う。その限りでは、まさにその通りだと言わねばならない。しかし彼の言うのは、神に近づくのは機械であって人間ではない。この機械は、自己増殖の能力をもっていて一つのしゅ種を形成するようであるから、人間の道具とか僕とかいうものではない。人間に代わってこの世界の主人公になるということである。
 これはいったい、どこでどう間違ったのであろうか。それとも全然間違っていないのであろうか。私は前号で、有神論的立場からはものがよく見えるが、無神論的立場からはものが見えず混乱してしまう、と書いた。これはカーツウェイルを無神論者とみなしたからで、混乱を避けるためには、「有神論的立場」でなく「正しい神観」と言わなければならない。「正しい神観」とはそのまま直ちに「正しい人間観」である。本誌の「統一思想」講座でも、神と人間の関係は血のつながった父子の関係だと言われるように、人間を離れて神があるわけではない。この宇宙が人間に合わせて設計されているとする「人間原理」的観点からしても、人間に代わって機械――たとえ人間の頭脳を組み込んだ機械だとしても――が神に近づくとは奇怪な考え方である。しかしそんなことを言っても、無神論者はむろんのこと、カーツウェイルのような神概念をもつ人を納得させることはできないであろうから、もう少し科学者向きに観点を変えてみたい。
 そもそもカーツウェイルの言うように、人間の脳――記憶、知識、技能、人柄、とカーツウェイルは言っている――を読み取って、これを機械(コンピューター)に移すことが可能かどうか疑問である。しかしこれは専門家の言うことなのだから、少なくともある程度は可能の見込みがあるのであろう。(人工ニューロンが自然のニューロンと協働することができると彼は言っている)
 批判者たちはこの段階でカーツウェイルを突き放すのであるが、我々はここで仮に、それが百パーセント可能であると仮定することにしよう。カーツウェイルは我々の脳の中に存在するものとして、「人柄」(personality)をも含めている。これは「人格」と言ってもよく、知識や技能と違って、我々のいわゆるアイデンティティを指す言葉である。身につけた知識や技能は我々の道具であるが、人格は道具ではない、我々自身である。
 ところが、カーツウェイルはその区別を全くしないのである。A氏の脳をスキャンしてそれを移植されたロボットは「私はAだ」名乗り、第三者にも区別がつかないだろうと言う。彼はA氏の脳の内容をそっくり他の場所に移せば、A氏その人がそこへ移ると当然のように仮定するのである。果たしてそういうことが言えるであろうか。

脳が「私」ではない

 我々の脳の中味を、カーツウェイルの仮定に従って完全にコンピューターに移したとしよう。しかし我々はそこにいるのだろうか。我々の居場所は我々の脳であろうか。これは最も根本的な存在論の問題であり、宇宙論の問題であり、神観・人間観の問題である。脳科学者や心理学者の最も難問とする脳と心の関係の問題でもある。そして同時にこれは、唯物論者と非唯物論者の熾烈な決戦の場所でもある。
 少なくとも我々は、自分の頭を指して「私」とは言わない。どこか胸のあたりを指して「私」と言う。これは、私の脳は私の道具であって、私自身ではないことを示しているようである。我々は、知識や技能(言語能力や運動能力)、記憶といった脳の中味をコンピューター情報に変えることはできるかもしれないが、我々自身をコンピューター化することはできない。私という存在は数量化もできず、場所ももたず、目にも見えないものである。しかしそれは幻想でなく確実に存在する。私という一つの心霊として存在する。主体としての私は、私の脳をコンピューターのように使うのであって、私の脳の一部でも全体でもない。
 カーツウェイルのような唯物論者は、脳という物質(の働き)に我々の自我のすべてが含まれていると考えるから、人の脳を移せばその人自身(アイデンティティ)も一緒についてくると考えるのである。唯物論者は「心霊」というようなものは認めないはずである。認めても実体性の希薄な脳の産物として認めるだけであろう。だからカーツウェイルが、人工知能の「霊的」体験とか「霊的」機械などと言うとき、敵の武器を奪って使うように冷笑的にこの言葉を使っているのか、それとも本当に理解できていないのか分からないが、いずれにしても言葉の矛盾であるのは言うまでもない。
 しかし、主体的人格としての心が脳の産物であるとする唯物論者の考えが間違っていることは、科学的にも実証されていると考えてよいのではなかろうか。カナダの脳外科医W・ペンフィールド(一八九一―一九七六)による古典的な、生涯にわたる臨床研究の結果としての結論がある。

 私は心を脳の働きのみに基づいて説明しようと長年にわたって努めた後で、人間は二つの基本的要素から成るという説明を受け入れるほうが、素直ではるかに理解しやすいと考えるにいたった。…脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える。また、私たちの心は、一生を通じて連続した一つの要素であるかのように発達し成熟する。さらに、コンピューター(脳もその一種である)というものは、独自の理解力を有する外部の何者かによってプログラムされ、操作されなければならない。以上の理由から私は、人間は二つの基本要素から成るという説を選択せざるをえないのである。(『脳と心の正体』)

 ノーベル医学・生理学賞受賞者のジョン・エックルス(一九〇三―一九九七)も、我々の心(主体的自我)は脳から独立し、脳を支配し道具として使っているのだと同じ結論を出している。

 二元論的相互作用説に立ってみれば、脳は生涯にわたって私たちの忠実な道連れをつとめる一種の道具であり、コンピューターである。…しかも私たちの心は、脳のコンピューター様の神経機構から、ただ受動的に情報を受け取るのではない。心はその時々の興味や関心に従って、情報を自由に選択するのである。さらに、心は脳の神経活動を支配することができる。私たちが何か随意運動を行ったり、脳の記憶貯蔵庫から何か情報を引き出したりするときには、心が連絡脳を介して脳の然るべき神経機構に働きかけることによって、目的を達しているのである。(『心は脳を超える』)

 エックルス、ロビンソン共著の『心は脳を超える』と訳された翻訳書の副題に「人間存在の不思議」とあるように、我々の習慣となっている唯物論的前提に立つかぎり、我々はここに、実に不思議な一つの事実に直面しなければならない。その事実とは我々自身である。自分自身ほど得体の知れないものはないのである。いったい「私」はどこにいて何者なのか。「私」は私の体ではない。脳でもない。しかしこの脳を私専用のコンピューターとして使っているのだから、ここから離れたところにいるのでもなさそうである。「私」とは形も掴み所もなく、居場所もはっきりせぬシロモノである。しかし「私」は、ペンフィールドやエックルスが主張するように、能動的な、意志をもった者として確実に存在する。

事実を曲げる唯物論者

 この不思議さ、曖昧さを避けて、はっきりシロクロをつけようとして事実を曲げてしまうのが唯物論の理論家たちである。唯物論的に説明すれば、論理的には明快ですっきりするが、事実から離れてしまうのである。脳と心(主体的自我)の問題でもそうであるが、これを宇宙的に拡大して、ダーウィン進化論のような進化の説明についても同じである。
 小宇宙は大宇宙の縮小体だと昔から言われるのは、現代科学の知見に照らしても、その通りだと言えるだろう。小宇宙で「私」と言われるものが、大宇宙の「神」に相当すると考えてよい。「神」も、「私」と同様、得体も知れず形も掴み所もなく、居場所もはっきりせぬシロモノであるが、能動的な、意志をもったものとして、創造者として、「働きかける」ものとして明確に存在する。ペンフィールドは先の引用で、脳から独立した能動的自我のことを、「独自の理解力を有する外部の何者か」と表現しているが、これを宇宙に当てはめてみれば「インテリジェント・デザイナー」のことだと合点がいくであろう。
 しかも、小宇宙と大宇宙のアナロジーはこれにとどまらない。我々が「心」と呼ぶものの全体が能動性や主体性をもつのではない。「心」の一部は受動的であり、いわば脳の奴隷として自動人形のように働くことを認めねばならない。(ペンフィールドやエックルスが「心」と言うとき、それは脳に支配されない心という意味である)
 唯物論者の主張のすべてが間違っているのではない。彼らは、心の受動的・自動人形的な部分を誇張して、それが心のすべてだと言っているのである。同様に、宇宙自然界に働いているのは創造性だけでなく機械的・自動的な要素もあるのだが、唯物論的進化論者は後者だけを誇張して、それが宇宙のすべてだと言っているのである。

心が脳を変える

 この心の二つの要素、すなわち脳から独立して、(脳科学者の作る)脳の機能別マッピングのどこにも場所をもたない主体的自我としての心と、脳のマッピングに明確に対応する要素として心の二つの側面について、最近、私は面白い論考を読んだ――シュワルツ、べグリー共著『心と脳―神経可塑性と心の力の大きさ』(Schwartz & Begley, The Mind and the Brain: Neuroplasticity and the Power of Mental Force, 2002, Regan Books)。
 「強迫-強制障害」(obsessive-compulsive disorder)と呼ばれる心の障害をもつ患者たちの臨床・治療記録が、この本の主たる内容である。この障害の最も典型的なものは、極度に神経質な人たちに見られる、絶えず手を洗わずにはいられないという病的な強迫観念である。この病気の特徴は、まさに「強迫-強制」的なことで、自分で無意味とわかっていてもそうしないではいられないことだという。
 こういった障害者に対してこれまでは、薬物を投与したり、故意に手を汚させて洗わせなかったりという、唯物論的な観点に立つ治療がなされていて、あまり効果がなかったのだという。著者たちはこれに疑問をもち、まず、脳がイコール自分なのではなく、脳をコントロールするのが自分であるという考え方を患者に叩き込んだのだという。それから徐々に段階を踏んで、病んでいるのは自分ではなく、脳の発する間違った発信が原因で迷惑を受けているのだから、極力これを無視し否定し、別のもっと意味のある行動へと脳の発信を切り替える訓練をさせたのだという。
 現実にこの障害をもつ人たちの脳を調べると、その原因となる神経回路ができていて、それが興奮するときに強迫感に襲われるのだという。驚いたことに、この意志力による能動的な治療法を試みて完全に治癒した患者の脳を調べてみると、障害の原因であった古い回路が切れ、新しい関心事に対応する新しい回路ができているのだと著者は報告している。
 これは脳と心に関する唯物論的な見解が半分だけ当たっていて、問題の心の部分は確かに脳の奴隷であるが、脳の主人である「心」は、強力な意志の力で脳を作り変える力を持っていることを証明している。そしてこの事実は先にも言ったように、神の宇宙創造についても当てはまるのではないだろうか。神の創造も、随意運動に当たるもの(創造性)と不随意運動に当たるもの(物理法則性や偶然性)の二面から成ると考えられる。

『世界思想』No.349(2004年11月号)

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