インテリジェント・デザインと悪の問題
――自然に内在する悪をどう説明するか――
渡辺 久義
ダーウィンの迷い
デザイン論に対する反対論者が、しばしばその論拠とするものに、自然に内在する悪あるいは不合理の問題がある。悪といっても、明らかに人間が不徳によって自ら招く、あるいは作り出す、戦争とか虐待とかエイズなどは別である。それではなくて、自然そのものに内在すると考えられる多くの悪あるいは不合理があり、そういうものが存在する以上、この世界が知的なものによってデザインされたものとはとうてい考えられない、もしデザインされたとしたら、デザイナーたる神はよほど無能か残酷な神であって、そんなものは神として認めることはできない、という議論であって、これはしばしば無神論へと人々を導いてきたものである。
信仰者の立場からも、信仰抜きのデザイン論者の立場からしても、確かにこれはハタと躓くような問題ではある。しかしこれは、デザイン論そのものを反証する論拠になりうるようなものなのかどうか、しばらくそのことを考えてみたい。
創造論を攻撃する武器としてのこの種の議論は、「自然界の残酷さ」をあげつらうもので、ダーウィンその人も、信仰者であるアメリカの植物学者アサ・グレイに宛てた手紙でこう言っている――
この問題の神学的観点について、次のようなことがいつも私に苦痛を与えます――私は戸惑っているのです――無神論者のように書くつもりはないのです。ただ告白すると、私は他の人たちほど明白に、自分でそうしたいと思いながらも、デザインと善意の証拠を周囲に見ることができないのです。この世界にはあまりにも多くの悲惨があるように私には思えます。私はどうしても、善意と全能の神が計画して(designedly)、ヒメバチが生きた青虫の中味を食べるように、またネコがネズミをもてあそぶように、明白な意図をもって創造したとは考えられないのです。それが信じられないから私はまた、眼が特にデザインされたものと信ずる必然性を認めないのです。しかし一方で私は、ともかくもこのすばらしい宇宙と特に人間の本性を目のあたりにして、すべてが盲目の力の結果だと結論して満足することはできません。…こういったすべての問題はあまりに深すぎて、人知の及ばぬものだという思いを深くするものです。
自然に残酷な一面があるから神の手になったとは信じられず、従って眼もデザインされたとは思えない、というのは飛躍というべきであるが、これはほぼ一世紀半(一八六〇)も前の手紙だということ、そして、ともかくもダーウィンが正直に、迷いと自信のなさを表明していることに留意すべきであろう。現在のダーウィニストが、全く同じような論法に頼りながら、しかしダーウィンとは違って、絶対の自信をもってデザイン論を一蹴することができるというのは、少し異常なことではないだろうか。
欠陥や機能不全
たとえば、有力なダーウィニストと目されるフランシスコ・アヤラ(Francisco
J. Ayala)の文章を紹介してみよう。この本(Dembski & Ruse eds.
Debating Design: From Darwin to DNA, 2004, Cambridge
UP)は、デザイン論に対する賛否両論を公平に載せて読者に判断させるために、両陣営の編集者を立てて編まれたものである。
生物の適応を説明するためのインテリジェント・デザイン説は、(自然)神学の一形態と言えるが、しかしそれが何であれ、科学的仮説ではない。しかもそれは神学としてもよい神学ではないと言いたい。なぜならそれは、創造者の全知、全能、全き善意とはおよそかけ離れた特質を、デザイナーに与えようとするものだからである。生命体やその部分が完全さから程遠いというだけではない、欠陥や機能不全はいたるところにあり、「デザイン」の欠陥を証拠立てている。
アヤラはこのように言って、まず人間の顎の欠陥を例にあげている。人間の歯は顎の大きさの割には多すぎて、いわゆる「親知らず」を抜かなければならないようになっている。こんな欠陥品を神が作ったというのであろうか、人間の技師の方がよほどうまくやるだろう、と彼は言う。さらに、女性の産道が狭すぎて出産が困難なことをあげて、これもデザインだとすれば欠陥デザインであり、こうしたことは自然選択による(産道を通る)頭蓋の進化という観点からうまく説明できるのであって、こうしたものが計画して作られたなどということはありえないと言う。
さらに、我々の腕と脚は違った機能を果しているのに、なぜ同じ材料(同じ骨、筋肉、神経)で作られ同じ構造になっているのかわからない、これは動物の前脚が腕になった(いわゆる進化論の「相同」―筆者注)と考えればよくわかるのだ、と言っている。これなど私には――おそらく読者も同様であろう――全く理解ができない。腕と脚が、同じ材料で同じ構造にできているのが、なぜデザインとして考えられないことなのであろうか。
アヤラはさらに自然界の「残酷さ」に言い及んで、デザイン説の不合理を訴えている。
あらゆる種類の生物における、欠陥と機能不全の例はあげればきりがなく、これらは「インテリジェント・デザイン」ではなく、自然選択の日和見的な(opportunistic)、補修屋的な(tinkererlikeとあるがtinkerlikeの間違いであろう)性格を反映している。生物世界はまた「奇異」とも呼ぶべき特徴に並んで、「残酷さ」にも満ちあふれている。ただ自然界の残酷というのは自然選択の結果としてみれば、道徳的な意味合いはなく比喩的なものにすぎない。「残酷」の例は、獲物を引き裂くよく知られた捕食動物(例えば、泣き叫ぶ小さなサルが、チンパンジーに生きたまま肉片を食い裂かれる)や、宿主の臓器を食い荒らす寄生動物だけではない、交尾をめぐって同じ種の動物の間にも、(カマキリのように)オス・メスの間にさえ、ふんだんに見られるものである。…
生物の欠陥デザインは、お互い同士争ったり、へまをやったり、無駄な努力をしたりするギリシャやローマやエジプトの神々のものなら分からないでもないが、私の考えでは、ユダヤ教やキリスト教やイスラムの全知全能の神による、殊更の作為としては理解できないものである。
神も法則に従う
「全知全能の」創造者が創ったにしては、こんな欠陥のある、また残酷な生物――まだ他に沢山の例があげられている――がいるのはおかしいではないかと、アヤラは繰り返して言うが、そうであろうか。以前にも言ったことがあるが、神は、創造はするが魔術師ではないのである。創造は神秘ではあるが魔術や奇術ではない。神も自分の定めた自然法則には従わねばならず、その意味で全能ではなく制約があると言うべきであろう。もし神が文字通り全能の魔術師なら、人間と地球を創るのに百三十七億年もかける必要はなく、ビッグバンと同時にそれらを創ることができたはずである。神もまず基本的な素粒子や水素から始め、次第に重い元素を作っていき、長時間をかけて人間と、人間の住める宇宙のこの特殊な環境を作らなければならなかった(としか解釈できない)。
物質界には制約がある以上、物質界に住む生物も制約を免れることはできない。創造者の側から見てもそれは同じであろう。「残酷」と言うが、もしすべての動物を草食動物に創ったとしたら、この限りある地球上の草が足りなくなるであろう。生物界は、光合成する植物と草食動物と肉食動物の、まさにデザインされたバランスの上に成り立っている。「神は慈悲ある全能の神なのだから、人間を含めたすべての生物が光合成をするように設計できたはずだ」など考える者がいるだろうか。
不思議なのは、こんなことを私のような者が、(一流の?)生物学者アヤラ教授に言わなければならないということである。
さらに言えば、人間の女性の産道が狭すぎることが欠陥構造であるかのように言うが、もし出産ということだけを考えれば、人間を犬のように設計しておけば問題はなかったであろう。しかし物質界を相手にデザインする以上は、すべての要件を満足させることはできないのであり、妥協点を探りながら最善を目指すよりほかないのである。建築家は重力を無視して頭に描いた勝手な建物を作ることはできない。人体も同じである。まず人間は犬と違って立って歩くように設計された。ただ立って歩くというだけなら、安産型に設計することも容易であろう。しかし人間はその上に美しくなければならない。画家や彫刻家がよく言うように、人体ほど造形的に美しいものはないのである。創造者の最優先条件がそこにあったとも考えられる。そう考えるなら、女性の体は、生理学的必要と美の妥協点で生まれた最高の作品というべきであろう。アヤラの言う通り、出産で死ぬ女性が少なくないことは事実であろう。しかしそういうことを強調して、欠陥を言い立てるのは間違っているだろう。むしろこの例は、人間の体がいかに絶妙にデザインされているかの好例ではないだろうか。
それだけではない。いったい「産みの苦しみ」といわれるものが、人間に必要なものとして創造者によって意図されたものでないと、誰が言うことができるだろう。ダーウィニストに、そんなふうに考えてくれとは我々は言わない。しかし、そのような発想を自分にも他人にも禁じなければならない思考枠というのは、貧しい思考枠だとは言わなければなるまい。
総合的にみて最適
作られたものの最善値というものが、すべての要件を百パーセント満たすことでなく、各要件の歩み寄りによるものであることは、考えてみれば当然である。個別に見て要件が十分に満たされていないからといって欠陥を言い立てるのは愚というものである。これはいわば子供が駄々をこねるのに当たる。
先般、八・九月号に紹介した『特権的宇宙』の著者が、我々の地球は居住可能性だけでなく観測可能性においても、宇宙で最適の場所だと言っていたことは記憶されているだろう。「最適」というのは著者が強調しているように、個別的でなく総合的に見て、ということなのである。著者はパソコンの例をあげて説明している。
居住可能な場所が科学的発見をするにも「最適」だというとき、我々は、競合する諸条件の最適のバランスということを頭においている。技術者で歴史家のヘンリー・ペトロスキーは、この強制された最適化のことを「すべてのデザインはぶつかり合う目標を、従って妥協を、必然的なものにする。だから最上のデザインとは、常に、最上の妥協にたどりつくことである」と説明している。身近な例をとって、ラップトップ(ひざ載せ)型パソコンを考えてみよう。コンピューター製作者は、この型のコンピューターをデザインするのに、さまざまなぶつかり合う要因の間で、全体的な最善の妥協を求める。もしすべてが同じなら、スクリーンやキーボードは小さいよりは大きい方がよい。しかしこの型の場合、すべてが同じではない。製作者は、処理速度、ハードドライブ容量、周辺機器、サイズ、重量、スクリーン解像度、コスト、美観、耐久性、生産性、といったいろんな問題の間で折り合いをつけねばならない。最上のデザインとは最上の妥協ということになるだろう。
すべての点で百パーセント満足できるコンピューターが存在しないように、すべての点で百パーセント申し分のない被造物も存在しない。どちらも物質世界を相手にして作る以上、避けられないのである。我々の体を取ってみても、生物界全体を取ってみても、地球そのものを取ってみても、同じことが言えるであろう。地震や台風やハリケーンは、それだけを見つめれば不合理な悪にみえるが、全体として見れば、それらは人間を生かすために活動している生きた地球に伴う、やむをえぬ生理現象とみるべきであろう。
神の警告のラッパ
そもそも何ゆえに苦痛というものが存在するのであろうか。もし苦痛がなければ、たとえば出血や骨折をしていても気づかず、大事に至るという困ったことになるだろう。しかし創造主は、苦痛という手段を使わないで故障に気づかせる方法を、考えることもできたのではなかろうか。こういう疑問に対して、英国のキリスト教作家C・S・ルイスがかつて言ったことがある――苦痛とは、神を忘れて生きている人間に対して、神が自分の方を向くようにと時折吹き鳴らす警告のラッパなのだ、と。いかにも、自分にはどうすることもできぬ苦痛や病気や不幸を通じて、人は神に目を開かれることが多いのである。
『世界思想』No.350(2004年12月号)
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