NO.26(2005年2月)


続・インテリジェント・デザインへの反論
――反論から発展する新しい考察――

渡辺 久義   

歪曲する反デザイン論

 デムスキーとマイケル・リュース共編になる『デザイン論争―ダーウィニズムからDNAへ』に載せられている反デザイン論のうち、すでにフランシスコ・アヤラとケネス・ミラーの論点については、過去二回にわたって紹介した。今回はロバート・ぺノック(Robert T. Pennock)の反論を検証してみようと思う。
 前号の締めくくりに、私はほぼこういうふうに書いた――デザイン論は自然界に何らかの形でデザイン(意志、目的、計画)が働いていると主張するだけであって、どこでどう働いているかということは言っていない。つまり目的をもたない機械的な原因だけでは説明しつくせないものが残る、それを認めよというだけなのである。それを反対論者は理解できなくて、あるいは故意に曲げて解釈して、あたかも神という異物が天から降りてきて魔術師のように自然界に介入することがインテリジェント・デザイン説であるかのように、思い込みまた人にも思い込ませようとしている。
 こういうふうな解釈に基づいて嘲笑的な反デザイン論を繰り広げるのが、ロバート・ぺノックである。ぺノックの論文の題は「デザインによるDNA?―スティーヴン・マイヤーと神仮説の回帰」(“DNA by Design?: Stephen Meyer and the Return of the God Hypothesis”)というもので、矛先が特に、デザイン論の主導者の一人スティーヴン・マイヤーに向けられている。
 ぺノックはこんなふうに言っている――

 マイヤーは、[フィリップ]ジョンソンが後にそうしたのと同じように、形而上学的[哲学としての、という意味]自然主義と方法論的自然主義をごっちゃにするという正確さを欠く過ちを犯している。前者は、世界は物理的原因の閉鎖系で他には何も存在しないと考える。これはマイヤーが新聞の論説文で投げかけていたもう一つの[自然主義への]非難を退けるものである。なぜなら進化論生物学は、そのような形而上学的な意味で、「厳密に心を持たぬ物的な力」しかないなどとは言っていないからである。科学はただもっと謙虚な方法論的な意味で自然主義を固守するだけなのである。

 我々をはじめデザイン論者の誰もが、これを読んでおやおやと思い目を疑うであろう。もしここで言われていることが本当のことなら、そもそもインテリジェント・デザイン論などというものが起こる必要などなかったのである。自然界に働いているのは「厳密に心を持たぬ物的な力」しかなく、それ以外の力は認めない、それを認めるような者は科学者として認めない、という科学界の掟があったからこそ、それに反旗をひるがえしてこの運動が起こったのである。今までに何度も念を押してきたように、科学が方法論的に――すなわち仮に――「心を持たぬ」自然的要因だけにおのれを限定して、それでどこまで解き明かせるかやれるところまでやってみよう、という姿勢で自然界(特に生命界)に取り組むなら、何ら問題はないのである。ところが現実には、ダーウィニズムに代表される唯物論的科学は、ぺノックの言とは裏腹に、そんな「謙虚な」ものではなく偏狭で独断的・排他的なものになっているのである。

相容れない唯物論的科学

 これについては私のような者にさえ、その独断的偏狭ぶりを見せ付けられた経験がある。数年前、まだ私が国立大学に在職中のころ、いわゆる公開講座で数人の教官が講義した内容を一冊の本にまとめようという話が持ち上がり、私もその一人として論文を提出した。私の論文は進化論批判の部分を含んでいて、ある詩人が明らかにダーウィニズムを指して言った「進化についての浅はかな考え方」という言葉を引用した。これに対して審査委員会の誰かが怒って言ったそうである(もちろん私はそこに出席していない)――「ダーウィニズムに対して〈浅はか〉とは何ごとだ。こういう論文は許されない。ここは国立大学で国費を使って出版するのだから、こういう科学を否定するようなものは認められない。」結果的には私の論文はわずかに妥協しただけで通ったけれども、ことほどさように、科学的「帝国主義」がこのエピソードからもうかがえるであろう。
 ぺノックのこの弁明は、唯物論的科学者の側の見せるいわば見せ掛けの度量である。かりに彼らがこんなに「謙虚」でかつ柔軟なところを見せつけることがあったとしても、肝心のところでは彼らは結局、デザイン論を非科学として退けるのである。彼らにとって科学イコール唯物論的科学という等式は変わることはない。唯物論的科学とデザイン論科学はまったく相容れないのである。つまり前提(アサンプション)が違うのである。
 果してぺノックは、「科学はただもっと謙虚な方法論的な意味で自然主義を固守するだけなのだ」と言ったその意味をこう説明している――「すなわち奇跡とか、他の自然の因果律の規則性を破るような超自然的な介入に訴えることを、自らに許さないということである。」
これはインテリジェント・デザインをそういうものと見ているということであり、いわばデザイン論の戯画化である。つまり、この物理的原因だけによって成り立っている自然界に、神が天から「介入」してきて物理法則を破って奇跡を起こさせてまた帰っていく、というふうにデザイン論を解釈しようとしているのである。デザイン論は決してそういうものではない。
 つまりデザイン論は、基本的にモノと物理力の先行する世界にデザインが介入するのでなくて、むしろデザイン(意志、計画、目的)が根底をなすこの世界に「心を持たぬ」物理的要因が働いている、と言っているのである。これは何を基本と見るかという基本的なパラダイムの違いである。この誤解はマイケル・ビーヒーBeheをべーエとドイツ語読みしていたが、ビーヒーであることがわかった。翻訳書の表記に合わせるという意味もあったのだが、以後この呼び方に変えることにする。の「還元不能の複雑性」の概念が鞭毛の仕組みの研究からきているために、あたかもそこだけ自然界に穴があいたように思われるところからくる「デザイン」の意味の誤解が原因ではないかと思われる。
 しかしこれは反対者の側から出た「よい質問」というべきであろう。ぺノックは次のように挑戦している――

 ID理論によれば、遺伝情報のほんの少しの増加でも「デザインの挿入」の結果でなければならないことになっている。彼らの考え方からすると、無数のこうした挿入が必要なことになりそうだが、彼らはこれがどこで、いつ、どうやって起こるかについては答えようとしない。生物学者のケネス・ミラーがアメリカ自然史博物館で行われた討論の席で、デムスキーとビーヒーに対して単刀直入にこの質問をぶっつけたが、どちらも立ち上がって、こういうことが起こったと考えられる時間上の特定のただ一点でも示そうとはしなかった。…もしIDが本物の科学的代替物であろうとするなら、人は何らかの正確な、テスト可能な(そして結果として実証される)、次の明らかな質問に答える仮説を示されることを期待するであろう――すなわち、何がデザインされ何がデザインされなかったのか、そしていつ、どこで、どうやって、誰によってデザイン情報が挿入されたと考えられるのか?

 確かにこれは実りある質問であった。デムスキーもビーヒーも確かに即答はできなかったものとみえる。しかしこれはつい先頃刊行されたデムスキーの著『デザイン革命―インテリジェント・デザインについての最も手ごわい質問に答える』(The Design Revolution: Answering the Toughest Questions About Intelligent Design, InterVarsity Press, 2004)によって、詳細に理路整然と答えられている。この本は副題にある通り、デムスキーがこれまでに尋ねられ挑戦を受けたあらゆる質問・反論に丁寧に答えようとしたものである。

根底にあるデザイン

 まず、ぺノックの突きつけたこの問題については「介入主義」(Interventionism)という一節を設け、見出しに「インテリジェント・デザインは、デザインという出来事が、もしそれがなければ十分に自然的な因果の歴史に区切りを入れる介入主義の理論であるか?」とあって問題点が明確になっている。少し長くなるが引用してみる。

 …しかしながら、何かある生命体が出現するときに、デザイン主体(designing intelligence)の作り出すそれと見分けられる相違が現れるためには、デザイン主体がある特定の時期、特定の場所に介入してその生命体を作り出すのでなければならず、それはまた何らかの特別の創造の形態を要求するもののように思われる。そこから更に次の問題が出てくる――どれくらいの頻度で、どんな場所に、デザイン主体が自然の歴史の過程に介入し、物的メカニズムによっては作り出すことのできないこれらの生物学的構造物を作り出すのか? インテリジェント・デザイン批判の一つは、それが物的メカニズムとデザイン主体の間に不当な区別の線を引くということ、物的メカニズムはたいていの場合うまくいくが、デザイン主体は、まれに(あるいは、まれではないかもしれないが)、物的メカニズムには全く不可能なある障害物を乗り越えることを要求されることになる、というものである。
 この批判は思い違いをしている。正しい質問は、デザイン主体がどれくらいの頻度で、どんな場所に介入するかということではなくて、どの時点でデザイン主体の兆候が初めて明らかになるかということである。この違いを理解するには、アルファベット文字がコンピューターのスクリーン上にあふれ出すコンピューター・プログラムを想像してみればよい。このプログラムは長い時間がかかり、やがて徐々にランダムな文字らしいものが識別されるようになる。それから突如として様子が変わり、このプログラムは崇高な詩を作り出す。ところでいったい、どの時点で、デザイン主体はプログラムの出力に介入したのだろうか? 明らかにこの質問は的外れである。なぜならこのプログラムは決定論的で、単にプログラムが指令するものを作り出したにすぎないからである。
 プログラムの出力をランダムな文字から崇高な詩に変えた介入というようなものは、ここには全くない。にもかかわらず、このプログラムが崇高な詩を作り出し始める時点がすなわち、我々が、この産物(出力)がデザインされたものであってランダムなものではないことを理解する時点である。のみならず、プログラム自体がデザインされたものであったことを、我々が理解するのがこの時点である。しかし、いつ、どこで、デザインがプログラムの中に導入されたのであろうか? これらは興味ある問題であるが、それはそもそもプログラムと産物(出力)にデザインがあったのかという、より基本的な問題にとっては究極的に無関係である。同様に、生物学においても、デザインが初めて明らかになったと我々が言える明確な時と場所があるだろう。しかしこれらの時点におけるデザイン主体の正確な活動については、もっと研究が必要であろうし、答えられないかもしれない。コンピューターとの類比が示す通り、デザインが最初に明らかになる所と時は、デザインが現実に導入された所や時と関連する必要がないのである。

 明らかにぺノックの挑戦によって触発され、ぺノックへの返答としてのこの考察は、このあと長々と展開される。これは要するに一言でいえば、この自然界の根底にデザイン(意図、計画、目的)がある、すなわち先立つ、ということであって、ぺノックが前提とするように、自然界にまず機械作用があり、そこへデザインが上から付加される、あるいは「介入する」といったものではないのだということである。このデザイン概念を拡大していけば、個々の生命体創造から生命界全体のデザイン、更には宇宙創造のデザインということになっていくであろう。唯物論的科学の世界は完全に閉ざされた世界である。これに対してデザイン論の世界は、実証可能な小さな観察から始まるが、大きな形而上学的世界に向かって開かれているのである。

論敵に感謝する

 紹介するスペースはなくなったが、ぺノックの反論は意地悪くかつ唯物論者特有の偏狭な歪んだ考え方、特に道徳をめぐってのそれに満ちあふれている。しかし、生命創造についてのデムスキーの、このような綿密な発展的な考察を促した挑戦の部分だけは、デザイン論のために役立ったと言えるであろう。
 デムスキーはこの本『デザイン革命』の序文で、誰よりもまず論敵に心から深く感謝したいと述べている。これはすばらしいことではあるまいか。学者および学問の世界はすべてかくあるべきであろう。

『世界思想』No.352(2005年2月号)

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