NO.27(2005年3月)


自然主義科学と理性の危機
――反デザイン論者の道徳意識――

渡辺 久義   

文系と理系をつなぐ

 四十年以上も前、C・P・スノウ(一九〇五−八〇)という英国人が『二つの文化』(The Two Cultures)という本を書いて話題を呼んだことがある。これは文系の学者と理系の学者の距離が遠くなるばかりで、互いに相手の学問の基礎さえ知らず、話ができなくなっている現今の状況を嘆く内容のものであった。それに対してどうするかというかという方策は特になかったように思う。この状況は今でも変わっていないであろう。科学者の方も、人文学者の方も研究対象が細分化されていき、総合的な人間の知恵としての学問などということをやっていては学者として認めてもらえない、というような傾向があるかぎり、専門家以外には話が通じないという状況が生まれるのは当たり前であろう。
 しかしこういう状況を打ち破る働きをしているのが、インテリジェント・デザイン運動である。確かに文系の人間が理系の学問の基礎さえ知らないというのは、私自身に当てはまることで忸怩たるものがあるが、その私とあまり変わらないはず(?)の法学部教授のフィリップ・ジョンソンが、デザイン運動の先導者となり中心人物となったという事実は注目に値するであろう。これはどういうことを意味するか。それは理系の学問の細部の専門的知識はもちろんないが、その前提となっている哲学については痛いほどにわかるということである。むろんそれは理系の学問だけでない、人文学についても同じである。その哲学となっているものが自然主義(naturalism)というものである。
 ジョンソンの最も有名な著書は『裁きに立つダーウィン』(Darwin on Trial)であろうが、他にReason in the Balanceという本がある。これは『不安定な理性』あるいは『危機にある理性』とでも訳すべきもので、その副題は「科学、法律、教育における自然主義への反論」(The Case Against Naturalism in Science, Law and Education)となっている。また『真理のくさび』(The Wedge of Truth)という著もあり、その副題は「自然主義の根底を粉砕する」(Splitting the Foundations of Naturalism)というものである。
 C・P・スノウは、文系の人間は理系の学問の基礎さえ知らないといって嘆いたが、ある意味でジョンソンは、理系の学問を理系の学者よりよく知っていると言うことができる。
 これは専門的・技術的なことを知っているということではない。その点を誤解する人がいる。私自身の経験で言えば、ジョンソンと全く同じような観点から、科学の前提の問題についてある科学者と話をしていたときに、「あなたの専門は何ですか? 私はプロですよ」と、むっとした顔で言われたことがある。
 インテリジェント・デザインの功績の一つは、例えばジョンソンや私のような者にも、例えばマイケル・ビーヒーの鞭毛の研究のようなものに興味を持たせることである。もし「危機にある理性」というような哲学的関心がなければ、生化学者が生物のタンパク質レベルのどんな研究をしようが、ほとんど興味を持つことはなかったであろう。

科学による道徳的危機

 我々の理性が危機にさらされているというジョンソンの訴えは、道徳的な危機感からくるものである。そしてそれは科学者の研究室からやってくる。――と言えば科学者(人文科学者も含めて)は驚くか、色をなして怒るであろう。科学者は謙虚に地道に、自然界(あるいは人間界)の事実を研究しているにすぎない。それがなぜ道徳的危機をもたらすのか。その理由は、ほとんどあらゆる科学者が自然主義すなわち唯物論を、方法上のかつ哲学上の当然の前提としているからであり、その科学者の方法ないし哲学が、確実に世間一般に浸出し世間一般のものの考え方に影響を与えるからである。
 今のところでは、ほとんどあらゆる科学者が、自然主義という科学界公認の方法に従って仕事をしている。そうすることによって客観性、公平・中立性を保証され、従って真理を保証され、おまけに身分も保証される。ところが彼らにとって自然主義は当然の前提であるから、ちょうど空気に気づかないように、それに気づくということがない。現に「自然主義」という言葉は、美術史や文学史で使われる以外使われない言葉であり、デザイン論のようなものが現れて初めて意味を持つことになる。
 一人の科学者の考え方が、世間一般に影響力をもつということもあるだろう。しかし重要なのは科学者世界(あるいは学問世界)全体の考え方である。また一つ私の体験を語ってみたい。だいぶ前の話だが、大学からタクシーに乗ったとき、私が大学教師だということがわかったので、運転手が気さくに「先生のご専門は何ですか」と聞いてきた。私が「英文学だ」と答えると、彼はやや躊躇して、自分の考えていることの正しさを確認したいというように、「文学というものは高尚なようでも、その元をたずねれば、はやはり下半身の問題になるのでしょうねえ」と、「学者」である私の認定を求めたのである。この運転手が学問とは無縁の人であることは明らかであった。ところが彼は、還元主義という当節の学問の方法を知っていたのである。つまり何であれ、対象を唯物論的に、より下位のレベルへ還元するのが学問というものであろうと考えていたのである。おそらく彼はフロイトの名前など聞いたこともないであろう。にもかかわらず彼はフロイト思想を知っていたと言うべきである。このフロイト思想もやはり、物的要因から高い精神性を説明しうると考える点で自然主義である。
 一九九六年、インテリジェント・デザイン運動の旗揚げとなったMere Creation 会議を司会したリッチ・マッギー(Rich McGee)は、駐米レバノン大使であったチャールズ・マリク(Charles Malik)の「いかなる文明も、我々の今日の文明がそうであるように、心を混乱させられ整理のつかない状態で長く耐えることはできない。我々の悪のほぼすべては、世の中に広く浸透し、今日、大学でも教えられている間違った哲学から発している」という言葉を引用したあとでこう言っている――「実に自然主義こそが、科学と学術世界において既成の宗教となっているのである。」
 デザイン運動の出発の動機になったのは、このような学界から発して人々の意識を変えるに至った自然主義に対する危機意識だったと言ってよい。学界から発する自然主義でも、最も強力で深刻な影響を及ぼしているのがダーウィニズムであろう。その点でデザイン派の学者たちの考えは一致している。よく引用されるのが、ドーキンズと並んで確信犯的無神論者であるダニエル・デネット(Daniel Dennett)の「ダーウィニズムは、それが触れるあらゆるものを溶かしてしまう強力な、容器の存在しえない酸のようなものだ」という言葉である。
 正確な引用はできないが、かつてドーキンズはこう言ったことがある――「堕胎が罪悪であると言う人たちがいるが、胎児の脳の発達程度と鯨の脳を比べてみれば、堕胎と捕鯨のどちらがより大きな罪であるかがわかるはずだ。」この発言はどこが狂っているのであろうか。それとも全然狂っていないのであろうか。その判断を狂わせ、自信をなくさせるのが我々の自然主義的文明である。我々は人間の命と鯨の命のどちらを優先するかと聞かれれば、人間の命だと言うであろう。しかし自然主義はこれを脳の発達程度という物量に還元するのである。宇宙進化の目的論的観点から導かれる最終被造物としての人間存在の意味や価値という観点を抜きにして、もっぱら唯物論的な脳の比較によって判断するならば、ドーキンズが正しいということになるだろう。
 こうした判断の狂い――どちらが狂っているのか判断できないという狂いも含めて――を生じさせるような、「心を混乱させ」理性を狂わせる文明の中に我々は生きているのである。マリクの言うとおり、こういう文明に人間は長く耐えることはできないのである。その卑近な例が「ジェンダー・フリー」思想である。人はこれが非常識だとはわかるが、きちんと反論できるものを自分の中に持っていないのである。

人間と動物は同価値?

 ここで私は、いかに自然主義というものが判断を狂わせ、理性を狂わせるかを示すものとして、前号に引き続いて再び、デムスキー、リュース編の『デザイン論争』(Debating Design)に収録されたロバート・ぺノック(Robert T. Pennock)のインテリジェント・デザイン反対論を引用したいと思う。

 サックストン(Thaxton)とマイヤー(Meyer)(注、どちらもデザイン派科学者)は、現代の考え方では、「人間の物理的な複雑性のみが人間を宇宙の他の生物学的構造物から分ける」ことになっていて、これは人間の権利を根拠づけるものとしては不十分だと主張している。彼らは、道徳的権利が人間以外の動物にも適用されうるかもしれないという可能性には関知しない。実際彼らは、人間を一つの動物として考えようとしない。彼らは、何ものか「明確に人間的な」ものがあることが決定的に重要だと考えている。なぜならもしそうでなければ「人間は動物のレベルに落ちてしまうから」である。

 一読してわかるように、これはドーキンズの、人間の胎児と鯨の比較論議と同じものである。これはひと言でいえば「人間だけがなぜ偉い」という、我々の周囲でもよく聞かれる議論であるが、この議論は間違っている。なぜなら人間だけが特別の存在であるのは、人間だけが偉いからでなく、人間だけに責任があるからである。動物には責任がない。だから動物が人を殺しても罪を問われない。ぺノックが人間以外の動物の「道徳的権利」を言うなら、人間以外の動物の「道徳的責任」も言われなければならない。権利と責任は必ずペアだからである。しかしそういう観点はここには全くない。
 こうした歪んだ議論が、あたかもサックストンとマイヤーが異常であるかのように展開され、これを自信をもって咎める人も少ないとすれば、それはやはり科学者世界を淵源とする自然主義哲学のせいである。すなわち「(人間の)物理的な複雑性のみ」を基準とする唯物論がすべての前提になっているからである。こういう狂った平等思想はいわゆる左翼思想として、我々のまわりにいくらでも例がある。
 ぺノックはまたこんなふうに言う――

 ID理論の目的は「自然主義シナリオ」、すなわちID理論家のいう物的原因の十分性を覆すことにある。しかし我々の一様に体験するのは、自然的作用によるデザインであり、それはほとんど常に人間である。人間は、あらゆる経験が示すかぎり、通常の自然の材料でできているが、それは自然的過程がCSIを生み出すことができることの十分な証拠である。(注―CSIとはComplex Specified Information、複雑かつ特定された情報=デムスキーによって確立されたデザインの要件を満たすデザイン)

 これは、人間が通常の自然の材料でできていながら(つまり超自然の特別の材料など使わないで)これだけのデザイン性を示しているのだから、デザインは物理的自然から生まれることができる証拠になる、ということであろう。これは全くID理論を理解していないだけでなく、自然主義的に一方的にしか頭が働かないことを示すものである。これはちょうど、シェークスピアの作品といえども、特別の文字が使用されているわけでなく、普通のアルファベット二十六文字でできているのだから、その二十六文字にシェークスピアを生み出すパワーがこもっている十分な証拠になる、と言うようなものである。自然主義というものが人の頭を硬直させるよい例である。
 人柄や知能のせいではないであろう。自然主義というアカデミズムの「既成の宗教」に呪縛されているために、人は理性的な判断ができなくなると考えられる。ぺノック教授の次のような、あたかも昔の頑迷な共産主義者のような議論がそのよい例ではないだろうか。

 サックトンとマイヤーは論文の終わりで、人権の観念がアメリカ合衆国と(旧)ソ連で対照的に異なることを述べ、こちらでは譲渡できないものであり、あちらでは自由にできるものだと言っている。この違いは、政治の基礎がキリスト教神学に置かれるか、科学的唯物論に置かれるかによって生ずるものだと主張する。彼らは言う、「人権に対するソ連の無関心は、マルクシズムという人間の間違った捉え方――マルクス自身が科学的と考えていた唯物論的捉え方――から正確に導かれるものである」。他方、アメリカは「尊厳性は創造者によって人間に組み込まれている」という考え方に基づいて建設されたと彼らは信じている。…合衆国と(旧)ソ連との違いについての彼らの漫画的な分析を、たとえ受け入れたとしても、人間性についての科学的な見方(あるいは哲学的唯物論でさえ――それは同じものではないが)が人権と両立しないと考える正当な理由はないと思われる。(強調引用者)

『世界思想』No. 353(2005年3月号)

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