論争で浮かび上がる学界の体質
―イデオロギーとしてのダーウィニズム―
渡辺 久義
マルクス主義に近い
かつてわが国にもマルクス主義陣営というものがあった。それは学者の世界から発する、従って信頼すべき知的勢力として容易に抗えぬものであった。マルクス主義とは世界解釈の哲学の枠組みであるが、これが二十世紀には哲学の域を超えて政治体制と結びつき、世界を乗っ取るか否かという所までいったがために、全世界を大混乱に陥れたのであった。
ダーウィニズムもこれに似て、ダーウィニズム陣営というものが公認(すなわち一党独裁)の勢力として、現在形で存在する。これはマルクス主義と違って、現実の政治体制と結びついてはいない。だから人はこれを過小評価するかもしれない。しかしダーウィニズムというものが学者の世界から発して、現代世界の唯物論・無神論的風潮を作り出す大きな力になっていることは否定しようがない。
ダーウィン進化論とマルクス主義が、きわめて近い関係にあることは言うまでもないだろう。どちらも唯物論であり闘争の哲学である。たとえば「ジェンダー・フリー」といわれるものが、この二つの思想に足を置いていることは容易に見て取れる。一つは、男女の差などというものは進化の途上で偶然に発生したものにすぎないという思想。もう一つは、男女を支配・被支配の対立関係として捉えようとすること。それに自然の秩序に否を突きつける暗いひそかな快感。
ところで今、インテリジェント・デザイン運動が闘っている相手は、ほとんど政治勢力として体制化したダーウィニズムである。それが今度の大論争を通
じていよいよ明らかになったと言ってよいだろう。ダーウィニズムとは、よく言われるように一つのイデオロギーである。イデオロギーは真理の探究とは関係がない。学説というものはもっと謙虚で柔軟なものであるはずである。
ここで試みに、Discovery Instituteのウェブサイトで見られるテレビ・ラジオ討論をはじめ、インターネットによるダーウィン側の主張、ワシントン・ポストなどのID批判の新聞の論調などを総合して、ダーウィン側の論点をいくつかの項目に整理してみようと思う
自然主義だけが科学
1.そんな問題は存在しない。
これはよくテレビに登場するNational Center for
Science Education 所長のユージェニー・スコット女史を始め、何人かの反ID論者がこういう言い方をする。現に論争があるにもかかわらず、論争は存在しないと言う。図書館へ行って生物学文献を調べても、ダーウィニズムを否定する文献は見当たらないと彼らは言う。そうかもしれない。しかしそれは、今までの学界の一党支配体制がそれを許さなかったからであり、だからこそIDのような運動が始まったのである。しかもここ数年のうちに、科学者による反ダーウィニズム文献が格段に増えている事実を無視している。彼らは「科学者間の完全な合意」(ワシントン・ポスト)があると言うが、これも全く事実に反する。
2.IDはクリエーショにズムである。
これはcreationismという言葉のもつ、アメリカ特有のニュアンスを知らなければ理解できない。単に(機械的)進化論に対する(能動的)創造論ということではない。これはたとえば人類の歴史が6千年であるとか、地球の歴史が1万年であるといった、聖書から出てくる算定などをそのまま信ずる立場を指していう。要するに、科学の発達していなかった古い時代の、宗教対科学論争の蒸し返しだと言いたいわけである。ダーウィニストがIDを軽蔑して切り捨てるのにこの語がほとんど必ず使われ、ID派もこの呼称を必死に退けようとするところを見ると、creationism
という語がほとんどracism(人種差別主義)のような語感をもつのかとさえ思える。もちろんこれは典型的な「言いがかり」である。
3.IDは科学ではない。
これが、反対派がIDを退ける決め手である。科学というものの別のパラダイムがあるかもしれないと、心を開いて考えてみるという余裕は彼らにはない。彼らにとって、科学とは自然主義のことであり、自然主義だけが科学として正当化される。スコット女史などは、「自然界のことを研究するのに超自然を持ち出すなどという馬鹿なことがありますか?」と繰り返し言う。ID理論の初歩的な説明を虚心に聞けば、これが単に分からないことを神のせいにする理論でも、神から始まる理論でもないことが分かるはずなのに、ダーウィン派は、IDとは科学に神を持ち出す非常識な「反科学」だと説明して、自他ともに納得させようとするのである。こういった安易な解釈を一般大衆が聞いて信用しては困るから、ID派の方もこれに対応してインターネット上に、「インテリジェント・デザイン理論に関する最も多い質問とお答え」として、次のような説明をしているのである。
――インテリジェント・デザイン理論とは何ですか?
インテリジェント・デザインという科学理論は、宇宙と生物の特質のあるものは、たとえば自然選択のような目的をもたぬ
過程によってでなく、知的な原因によって最もうまく説明されると主張するものです。注意――インテリジェント・デザイン理論は、科学が知的原因の正体を突き止めることができると主張するものではありません。また、この知的原因が「神的存在」とか「より高い権能」とか「全能の力」でなければならないと主張するものでもありません。それが主張するのは、ただ、自然界の特質のあるものが知性の産物であるかどうかを、科学は確かめることができるということです。(Discovery
Institute News, Sep. 8, 2005 強調原文)
常識となっている自然主義科学との摩擦をなるべく小さくして、IDに対する誤解を解いて受け入れ易くするためには、ことさらこのように書かねばならないのであろう。
科学は哲学と無縁ではない
4.「哲学」のクラスでなら教えてもよい。
科学(生物)の授業にIDを持ち込むことは許されないが、哲学の授業でなら構わないだろう――ID批判者には妥協案としてそう言う者が多い。穏当なようだが、実はこれは知識というものについての根本的な考え違いからきている。科学に基礎を与えるのが哲学である。科学は哲学を超越して成り立つのではない。このような論をなす者は、科学は哲学などとは無縁で、哲学とは単にカントやヘーゲルを勉強することだと思っているのだろう。しかしこれが世の現実であって、人はたいてい科学と哲学を別
々のものと考えて生きている。そこから我々の分裂症的文化が生まれる。ID批判者から出たこの発言をよく考えてみることによって、今回の論争の根本にあるもの(表面
的な感情対立でないもの)が分かってくるであろう。
5.代替案なしに新説を主張するな。
これは、IDはダーウィニズムを否定するだけで代替案が出せないではないか、つまり最初の生命体、最初の生物種が現実にどうやって出来たのかを説明できないではないか、前説を否定するなら代替案を添えて出せ、それが科学というものだ、という反論である。これはある意味で鋭い批判である。これについては、かなり長いテレビ討論を訳したものがwww.dcsociety.orgに「IDをめぐるテレビ討論(ジョナサン・ウエルズ対マッシモ・ピグリウッチ)」として掲載されているのでご覧いただきたい。(この討論では、結局ダーウィニストのマッシモが折れて納得したようである。)
6.誰が神を創ったのか?
これはテレビ討論というよりも無神論者一般の、有神論論駁のための、おはこの質問である。リチャード・ドーキンズにとってもカール・セーガンにとっても、これが有神論の成立しない有力な理由のようである。しかし我々は、この世界の最初に何かがあった(根底に何かがある)と想定しなければならない。創られずに存在する何かがあると想定しなければならない。無神論者は、その何かを物力と物と考えるのであろう。有神論者は、それを心とかいのちといったものとして考えるだろう。ID派の有力な論者の一人スティーヴン・マイヤーは、ある番組で、誰が神を創ったのかとしつこく食い下がる相手に、「最初の(根底の)現実(prime
reality)というものがなければならない」と答えている。それでよいのだと思う。
7.宗教的動機を持つものは相手にできない。
これは主として、カンザス州教育委員会の公聴会をダーウィン側がボイコットしたことに対する弁明である。IDや他の進化論批判側が公開討論をしようと言っているのに、これをボイコットするのは、多くのメディアが言うように、科学者として敗北であるが、これを不当に仕組まれたものだと主張してまくし立てるのは、かつてこの連載でも敵対的反ID論者の一人として取り上げた(二〇〇五年一月号)ケネス・ミラーである。彼はダーウィン側の代弁者として出ているのだから、これはダーウィン側の統一見解と考えてよいのだろう。宗教的動機(すなわち人間の根源は何かを問う姿勢)が背後にあっては議論にならないというなら、すべての議論が成り立たない。
分かりきった誤解のようなものを除けば、ダーウィン派のID批判はほぼこんなふうに集約できる。
パラダイムの問題
ネット上に発表される反ID論の中でも、ユージェニー・スコットのものが、彼女の知名度から考えても重要だと思われるので、この人の「私の好きなニセ科学」(My
Favorite Pseudoscience)という論文を検討してみよう。私はこの論文の、いろんな意味での弱い部分をあげつらうつもりはない。ただ彼女の論点――自然界のすべては自然的原因によって説明できる――ははっきりしているので、そこを問題にしたい。引用してみる――
最初の複製を作る分子がどのようにして出来たのかについて、科学者はまだ合意に達していないという理由で、クリエーショニストたちは、これは手に負えない問題だから神がやったことにすべきだと言う。私は言いたい――もし我々が生命の起源を知ろうとして自然的説明を求めるのをやめてしまったら、我々は絶対にそれを見出すことはないだろう。たとえ我々がまだそれを見出してはいなくても、それでもなお我々は辛抱強くやり抜かねばならない。
自然主義者科学者の信念(むしろ信仰)の強さと辛抱強さを、ここでは褒めるべきなのかもしれない。しかし、この努力を一生続けて何の成果
もないどころか、細胞のあまりにも複雑な構造が一方でますます明らかになるにつれて、徒労感だけがますます大きくなっていったとしたら、どうなのか。科学者がここで、自分の立っている前提に問題があったのかもしれないという疑念を持ちはじめたとしたら、どうなのか。スコット女史はそういう疑念を持ちはじめたことに対して、この科学者を叱りつけるつもりなのか。
それだけではない。スコット女史の厳禁する超自然的原因という仮説を仮に立ててみて、そのことによって――一気に謎が解けることはないとしても――今まで見えなかったものが見えてくるとしたらどうなのか。つまり仮説の有効性(万能性ではない)が証明されたとしたらどうなのか。
あるいはこの科学者が、生命というものは物質現象とは根本的に違うのかもしれない、目に見えない生命というものを仮定すべきかもしれないと思いはじめたとしたら、それでもスコット女史はこの科学者を変節者として破門するのであろうか。なぜなら彼女にとって、目に見えないものを仮定するのは神につながる危険思想であろうから。
Why Is a Fly Not a Horse? (なぜハエはウマでないか)という本を書いたジュゼッペ・セルモンティというイタリアの生物学者の、結びの言葉をここに引用しておきたい――
(生物進化の)突然の変化は、個体発生の場合と同様、モデルやデザインや潜勢力や成長の法則なしには起こりえない。こういった考えがおそらく進化の鍵を握っている。「でもそれは既成のパラダイムに合わないものだ、それは科学的ではない」と還元主義者は反対するだろう。そこで我々は二者択一を迫られる。とうてい出口の見えてこない絶望的な科学のパラダイムにあぐらをかくか、それとも、科学の新しい空間次元の見えてくる、そしてそこから進化の問題を再考することのできるようなパラダイム転換を提唱するか、いずれかである。ネオ・ダーウィニズムの二次元的世界から立ち上がって、三次元の形の領域へと出て行くべき時がきている。
『世界思想』No.361(2005年11月号)
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