NO.43(2006年07月)



生物教科書といかに付き合うか(2)
―よらしむべし、知らしむべからず―

一種の愚民政策 

 進化を扱う章に関するかぎり、生物教科書の記述はまさにダーウィニズム体制の愚民政策というべきであろう。進化の問題は、唯一正統的な方法による研究が着々と進んでいるのだから、君たちは疑問をもったり質問したりしてはならない、黙って従っていればいいのだ――すべての生物教科書にこういったメッセージが聞き取れる。
 前回にも引用した「一五〇年以上の長い期間にわたる研究のすえ、進化の証拠やしくみについては、多くのことがわかってきた」(東京書籍)、あるいは「進化の中間段階を示す化石生物の存在は、進化が連続的に起こったことを示すものと考えられる」(第一学習社)といった言い方がその典型である。これはいわば(今ではほとんど誰でも知っている)「体制」に不利な事実をあえて隠して、進化論に対する若い学生の疑問を封じ込めようとするものだと言ってよい。北朝鮮の公的報道を聞いているようなもので、「我々の体制に反対する連中はヘンな宗教に毒されているのだ」といった反IDダーウィニストの宣伝も北朝鮮によく似ている。
 ダーウィニズムに疑念をもつのに、宗教をもつこともIDに賛同することも必要ではない。たとえば、シカゴ自然史博物館長の地質学者デイヴィド・ラウプ(David Raup)は、一九七九年にこう言っている。

ダーウィンから一二〇年たった今、化石記録についての知識は格段に増えた。…皮肉なことに、我々の手にしている進化の推移を示す例は、ダーウィンの時代より減ったのである。なぜそう言えるかというと、化石記録によるダーウィン的変化の古典的な例のあるものは、たとえば北米のウマの進化の場合のように、より豊富で詳細な情報が得られた結果 、放棄あるいは修正されなければならなくなったからである。

 また、大御所的ダーウィニストであるハーヴァードの古生物学者(故)スティーヴン・J・グールドはこう言っている。

 化石記録における移行形態が極度にまれである事実は、古生物学の企業秘密(trade secret)になっている。我々の教科書を飾っている進化の樹(系統樹)は、その枝の先端と節においてのみデータが存在する。残りは、いかにもっともらしくても、推測であって化石の証拠によるものではない。

 この「企業秘密」、すなわちダーウィニズムの予想する移行化石が存在しないという事実は、今や周知の事実になっていると思われる。とすれば、教科書だけが堂々とウソをつくこの勇気(!)を我々はどう考えるべきなのか。あるいは、教科書だけはこの「公認理論」のスポークスマンなのだから、「企業秘密」を守る守秘義務があるということであろうか。いずれにしても被害者は次代を背負う我々の学生である。
 ID理論家も性急にダーウィニズムを追放せよとは言っていない。我々の思考様式を支配しているこの大思想を、長所短所ともども、ごまかさないできちんと学ぶ(教える)べきなのである。そのためには、生命や生命の歴史を解釈する仕方は一つではないということを、まず認識させねばならないのである。こうした提案にさえ反対するとしたら、それは学問の進歩の足を引っ張るものでしかない。
 ダーウィン進化論の核となるあの系統樹は、少なくとも化石研究によって支持されるものではないようである。そう考える人々が、伝統的系統樹と対比させて描いた図形を前号に載せておいた。これをもう少し詳しく説明した図があるのでここに補足しておきたい。どちらが正しいかということよりも、こういうものとの対比によって、どれだけ学生の頭と勉学意欲が活性化されるかを考えなければならない。

欺瞞と開き直り

  ところがこの「カンブリア爆発」といわれる事実について、たとえばNHK高校講座では、「その後生物は複雑化し、多細胞生物へと進化しています。五億三千万年前ごろには、海の中には多様な生物がすむ世界になっていました」と説明するだけで、「カンブリア爆発」などなかったかのようである。いわんや、現存する動物門(互いに分離独立した最も基本的な形態上の分類)のほとんどすべてが、そこで出揃ったという(ダーウィニズムから見れば)信じがたい、「トップダウン」と言われる重大な事実は、完全に伏せられている。教科書はこの事実を記載したがらず、記載している教科書(例、第一学習社)でも、その記述はなだらかに進化が進んだかのような印象を与える。
 教科書が必ず載せることになっている「オオシモフリエダシャクの工業暗化」といわれるものが作り話であり、それが判明した後も載せつづけられているという事実を、前号で述べた。一九九九年、これを咎められたカナダのある教科書執筆者は、この慣行をこう言って正当化したという――「これを使うのが誰かを見なければならないのだ。初めて勉強する者に対して、あまり問題をややこしくすることはできないだろう。(高校生は)まだ学習の仕方が非常に具体的な段階にある。我々は選択的適応という考え方を分からせたいと考えている。その後で、彼らはこの仕事を批判的に見ればよいのだ。」(ジョナサン・ウエルズ「不適者生存」参照、www.dcsociety.org)
 ウエルズは、専門の生物学教授ですらこれに長い間だまされていたというエピソードを付け加えている。このあきれるような欺瞞と愚弄と開き直りをどう考えるか。歴史教科書の問題では、(日本軍の)「侵略」を「進出」と書き換えた不埒な教科書があるというだけで――結局これは誤報であったが――大騒ぎになる。ではいったい、生物教科書はそれに比べてどうなのか。ウエルズや私の言うようなことは、些細なことで問題とするにも価しないのか。そうではなかろう。
 私の考えるところでは、これはあまりに大きな問題であるので、特定の人々の責任を問うて済むような問題ではないのである。問題の根は唯物論という我々の文化の体質にある。生命や生命の歴史を唯物論的に解明しよう、解明できるはずだというダーウィニズムの出発点と、それを受け継いだ二十世紀のネオ・ダーウィニズムがそもそも間違っていたために、ウソにウソを重ねなければならなくなったのである。ネオ・ダーウィニズム自体が、唯物論科学という現代思想風土の上に咲いた花(あだ花)であった。そのため、王様が裸であることを勇気をもって言える者がいなかったのである。

放置し続ける偽造

 「よらしむべし、知らしむべからず」という生物教科書の方針が典型的に現れているもう一つの例は、誰にも覚えのあるあのヘッケルの胚の比較絵である。比較されている数種類の生物の初期の胚が、決してあのようには見えないことは、とうの昔から分かっていた(「不適者生存」参照)。それは「生物学上の最も有名なニセモノの一つ」とさえ言われたものであった。これがヘッケル(ダーウィンより二十五歳下)の時代からほとんど修正もなく(手元の教科書で確かめていただきたい)今日まで教科書に掲載されてきたとしたら驚くべきことだが、それは事実である。なぜだろうか。それはヘッケルの意図が、「個体発生は系統発生を繰り返す」という、もっともらしいが根拠のない「法則」によってダーウィン進化論を権威付けることにあり、そのためには動物の初期の胚はすべて形が似ていなければならなかった。従って、ヘッケルと同じダーウィン支持者である後世の教科書作者にとって、絵はこのままが好都合だったのだと考えられる。目的は手段を正当化する。あるいは信仰は偽造を正当化する。
 指導的ダーウィニストであるグールドがこれについて釈明を求められたとき、彼は「大多数ではないにしても、数多くの現代の教科書で、このような絵が存続することになった一世紀間の無神経な反復使用に対して、我々は驚くとともに恥じ入るべきである」と語った。しかし、これをニューヨーク・タイムズで指摘した生化学者のマイケル・ビーヒーに対して、グールドは、自分はそんなことは何十年も前から知っていたが、それを指摘するビーヒーは「クリーショニスト」(聖書の言葉をそのまま信ずる創造論者)だ、と言って非難したのである。
 ダーウィニズムには、偽造を放置しておかなければならない理由がある。それはこの仮説が非常に単純なシナリオであるために、どこか一箇所が崩れれば次々に障りが生じ、ついに全体が崩れるからである。ヘッケルの意図は、人間もブタもニワトリもサンショウウオも共通 の先祖から出ているのだから、それらがすべて魚(のようなもの)であった時代があり、それが胚発生でも確認されると言いたいわけだから(根拠のない二重の想定)、もしこれに根拠がないとなれば、教科書のもう一つの進化説明図である「相同」(homology)も根拠がなくなってくる。「相同」とは、魚の胸びれ、トカゲの手、鳥の翼、ウマの前脚、人間の手などが形態上似ている(?)以上は、発生的にもこれらが共通 先祖から出て分かれたことの証拠だというものである。
 この「相同」の絵も、ヘッケルの絵と同様、生物教科書に載せるのが長年の義務のようであり、こんなことを本当に納得して書く執筆者はまずいないだろうから、おしなべて書き方には自信がなく、読んでいて気の毒になるほどである。これは当然、「系統樹」の信憑性にもかかわってくる。一つが崩れればすべてが崩れる。どれか一つでも確実に立証されればこの説は真理だろう。これは高校生向けの昔のダーウィニズムで、今は分子レベルのネオ・ダーウィニズムが主流なのだから、それを抜きにして何も語れない、と言う人があるかもしれない。そういう人のために前記ホームページに、「生化学的相似」という論文を、日本の教科書のそれにあたる部分と併せて掲載しておいたので、ご覧いただきたい(これはOf Pandas and People というIDの立場から編まれた高校生用生物副読本の一部である)。

旧説を墨守する教科書

 ジョナサン・ウエルズは「相同」についてこう言っている(「不適者生存」)。

  生物学者たちは百年来、相同的構造物はしばしば相似的な発達経路によっては作り出されないことを知っている。そして彼らは三十年前から、そういったものがしばしば相似的な遺伝子によっても作り出されないことを知っている。従って、相同は共通 のデザインでなく共通の先祖によるものだということを確定する、いかなる経験的に証明されたメカニズムも存在しないことになる。
 メカニズムもなしに、現代のダーウィニストたちは、ただ単に相同を共通 先祖による相似性であると定義してきたのである。現代のネオ・ダーウィニズムを構築した一人であるエルンスト・マイヤー(Ernst Mayr)によれば、「一八五九年以来、生物学的に意味をなす相同の定義は一つしかない――すなわち、二つの生物の属性が相同的であるのは、それらが共通 先祖の等価の特徴から伝わったからである。」
 これはまさに循環論法の典型である。ダーウィンは進化を一つの理論と考え、相同をその証拠とした。ダーウィン支持者たちは、進化を独立にすでに確立されたものと捉え、相同をその結果 だと考える。しかしそれでは循環論法――共通先祖による相似は共通 先祖を証明する(!)――によることなしに相同を進化の証拠に用いることはできない。

 前記『パンダと人間』から引用すると――「一八六六年に、エルンスト・ヘッケルは今や有名となった生物発生法則『個体発生は系統発生の短い急速な反復である』を発表した。この概念は今日、全く捨て去られてはいないものの、ダーウィニストからもかつてのような注目を受けていない。…この反復説が今日かつてのような信用を受けていないにもかかわらず、教科書の中には歩調を合わすことなく、いまだにこれを教えているものがある。」
 つまり先に述べたように、旧説を墨守しなければならない理由があるのである。

『世界思想』No.369(2006年7月号)

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