NO.61



今日の諸悪の根源としてのダーウィニズム(1)
 ―1世紀にわたる欺瞞のからくり―

内在する邪悪なもの

 ダーウィニスト体制派による批判派弾圧の実態が描かれる予定のドキュメンタリー映画Expelled: No Intelligence Allowed(追放――インテリジェンスは許さない)が、二〇〇八年二月に封切られる予定であることはすでに周知のことと思うが、この映画の予告キャンペーンのブログに、出演者のベン・スタインのコメントが出ており、その序の部分に、二つの対照的な学問的態度を示す文章が並べて引用されている。一つはアインシュタインのもの、もう一つは有名なダーウィニストP・Z・マイヤーズのものである。

「私の宗教は、限りない、より優れた精神(illimitable superior spirit)が自らを開示して、我々のか弱い貧弱な心によって受け止めることのできるわずかの部分を、垣間見せてくれることに対する、謙虚な感嘆からなっている。理解不能の宇宙の中で開示される一つのより優れた理性の力の存在に対する、この深い感情を伴う確信が、私の神概念を形成している。(アインシュタイン)

 「『追放』の背後にいる狂った野郎ども(crazy rascals)は、また新しいゲームを考え出してふざけようとしている。彼らは投網を打って迫害の犠牲者を呼び集めようとしているが、哀れな訴えだ。しかしきっとたくさんの不平の獲物がかかることだろう――なぜならそれは本当だからだ。確かに我々は大学から、科学から、そして科学教育からインテリジェント・デザインを排斥しているからだ。そしてそれには十分な理由がある――それは占星術、錬金術、創造論、腸卜術、降霊術、鳥占い、魔術を科学コースから排斥するのと同じ理由である。それらは科学ではないからだ。」(P・Z・マイヤーズ)

 前者は迫害されるID派の姿勢そのものであり、対照的な後者の確信犯的な開き直った態度はドーキンズにも共通 する。サタンをもって自ら任ずるドーキンズの次の文章と比較してみるとよい。

 もしこの本(『神は妄想である』)が私の意図通 りの効力を発揮するなら、これを開いた宗教的読者は、読み終えたときには無神論者になっているだろう。…もちろん骨の髄まで信仰に染まった頭には議論は通 用しないだろう。何しろ彼らの抵抗は、熟するのに何百年もかかった方法による、何年にもわたる子供時代の吹込みによって身についたものだから。より効果 的な防衛策としては、このような本を開けさえしないように厳重に忠告するというのがある。これは確かにサタンの著作に違いないからだ。

 昨年十月号に例を示したドーキンズの文章もそうだったが、これらダーウィニストの発言には唖然として批評の言葉を失う。しかし、こういったものを批評に値しないとして一蹴するわけにはいかない。学界やマスメディアはさて措くとしても、我々の教科書そのものが彼らに与する立場で書かれているからである。
 ドーキンズやマイヤーズのような普通以上に知能の高い人々が、なぜこうした視野狭窄的で排他的で、反理性的な言辞を弄するのだろうか? これはダーウィニズムそのものに最初から内在する邪悪なもののせいだとしか考えられない。彼らは自ら選んだ哲学の犠牲者なのだと考えるべきであろう。先月号で論じたように、唯物還元主義はこの世界を虚(ドーキンズのsimulacrum「まがいもの」)の世界に変えてしまう。それはダーウィニスト自身に及ぶから、(特に十月号に示した例に顕著なように)彼らは自らにナンセンスを語らせることになる。すべてを溶かす「万能の酸」(ダニエル・デネット)だなどと言ってこの世界を脅迫するなら、それは彼ら自身をも溶かすことになる。これはダーウィニズムという無神論的世界解釈が初めからもっていた宿命であり、今それが明瞭な形を取って現れるようになったと考えるべきだろう。

生物学の帝国主義

 先日、DNAの二重らせん構造の発見者の一人でダーウィニストのジェームズ・ワトソン博士が、黒人は白人に知能において劣るという差別 発言をして、予定されていたロンドンでの講演が中止になったという報道があった。人種差別 は最初からダーウィニズムとは切っても切れぬものだから、ワトソンはダーウィニストとしてごく当たり前のことを言っただけである。ベン・スタインのコメントの題が「ダーウィニズム――生物学の帝国主義?」であるように、ダーウィニズムは今も帝国主義的であるが、もともと帝国主義的動機から生まれたものである。それはほぼ百年前、植民地争奪戦の中で、人種差別 や優生学を正当化する「科学的」根拠として要請され、定着したものであった。その独善的暴力的体質は、最初からダーウィニズム(少なくともダーウィン=ヘッケリズム)の本質であった。
 ダーウィニズムは「人間」という明確な種は本来、存在しないものだと説く。たまたま「人間」という区別 らしいものができているだけ、あるいは区別があるように錯覚しているだけだと教える。だから人間と動物の区別 に基づく倫理道徳は、成り立たないか、曖昧なものになる。『道徳ダーウィニズム』(Moral Darwinism, 2002)という本の中で著者ベンジャミン・ワイカー(Benjamin Wiker)はこう言っている。

彼ら[ダーウィニスト]は、種というものは常に流動しているのだから種の区別 は単に恣意的なものだとする科学を堅持する一方で、同時に、自然法のように、「人間」という種の区別 に本質的に依存している道徳的立場を取ることはできない。もし人間というものが現実でなければ、人道的であることはできない。そして動物を殺すことと人間を殺すこととの道徳的区別 を可能にするのは、まさにこの「人間」という種の区別 である。

 だから純粋な生物学としてのダーウィニズムと、いわゆる社会ダーウィニズムを区別 することはできない。進化を、環境に最も適したものが生き残ることとして説明する以上は、必然的にこれは人間の生き残りの問題になってくる。帝国主義的人種差別 、排他性、独善性は、ダーウィン進化論という「科学法則」にかなった、生き残りのための正当な手段であった。その本質は今も変わることなく、機会さえあれば表面 にあらわれるのである。
 エルンスト・ヘッケル(一八三四‐一九一九)は最も功労のあったダーウィニズム宣伝家であり、かつおそらく最も影響力のあった偉大な帝国主義イデオローグであった。我々の生物教科書に彼の影響力が歴然としているように(胚の絵、系統樹、ヘッケルからエンゲルスを経由してできたオパーリン仮説)、ヘッケルなしに現在のダーウィニズムはありえなかった。彼の脊椎動物の胚の絵の偽造については何度も述べたので繰り返さないが、偽造の動機が、「人間」という明確な種を否定すること、そしてそれによって帝国主義的人種差別 や優生学、つまり人間による人間操作の「科学的」根拠を確立することであったことは、はっきりしている。「優生学」(eugenics)とは響きは優しいが、要するに劣等人種、劣等人間は、人類の進歩と健全化のために自然法則に従って消えていただきましょう、という構想であった。これは現在の我々には恐ろしく聞こえるが、十九世紀末から二十世紀初めにかけて、世界的に真剣に論じられたものであった。
 人間とサルの間にはケジメがなく、連綿とつながっていると主張するダーウィン進化論がもし真理ならば、どこに区別 の線を引こうと自由であり、最も環境に適応して進歩した民族が、他民族を「亜人種」として支配したり抹殺したりする権限を、「自然」によって与えられることになる。だからダーウィン進化論は、ヘッケルやヘッケル支持者にとって、証拠の有無に関係なく、むしろ証拠を捏造してでも、「真理」であり「科学」でなければならなかったのである。ヘッケルや彼の率いた「一元論者連盟」の人々にとって、自然選択の「自然」は一種の崇拝の対象であり、彼らはいわば、王権神授説ならぬ 王権自然授説を信奉したとも言えるだろう。

ナチズムと一体の科学

 こうした知識を私は主として、ダニエル・ガスマン(Daniel Gasman)のScientific Origins of National Socialism (『国家社会主義(ナチズム)の科学的起源』二〇〇七, 初版は一九七一) から得ているが、この本によって氷解したように思えることがいくつかある。一つは、なぜヘッケルが学者としての生命を失わなかったのかということである。これまで何回かにわたって論じたように、胚の絵を中心とした彼の常習的なデータ偽造は当時から目に余るものがあり、何人もの学者仲間の告発を受けて、イエナの大学法廷で有罪とされ、一九〇九年一月九日付の週刊新聞Müchener Allgemeine Zeitungには偽造の告白をしている。普通 ならこれで学者生命を絶たれるところである。ところが逆に彼の名声は高まる一方であり、熱狂的な彼の支持者・崇拝者はますます増えていくという奇妙なことが起こった。
 彼の最も有名な著書だったWelträsel (『宇宙の謎』一八九九)は、専門家からはひどく批難されたが、一般 大衆には大好評であった。その両極の評価の例をガスマンの本から借用してみる。

「私はこの本を、わが国民の一般 的・哲学的教育水準にかんがみて、燃えるような恥ずかしい思いで読んだ。このような本があり得るということ、それがカントやゲーテやショーペンハウアーのような人物をもつ国民によって、書かれ、編集され、売られ、読まれ、熟考され、信じられるのかと思うと心が痛くなる。」(フリードリッヒ・パウルゼン)

 ガスマンはこれについて、「パウルゼンは一般 の読者が、ヘッケルの本の独断的な強引さによって誤った方向へ導かれることを怖れていたようだ。ヘッケルの書くものの科学的正確さや、彼の考えに潜む本当の意味を判断できない人々は、この本の本当の性質を正しく理解し判断することなど、どうでもよいと思うだろう、と懸念している」と述べている。あの胚の絵を平然と偽造して人をミスリードしようとする強引さが、この本にも現れていることをうかがわせるに十分である。

復活するヘッケル

  次のコメントは、全く逆に、このようなヘッケルの狙い通 りに踊らされ、狂喜乱舞してヘッケルを歓迎する人々の証言である。

 「ヘッケルの名は、何世紀にもわたって燃える光輝あるシンボルとなるだろう。世代は過ぎ去りまた起こるだろう。国家は滅び、王は倒れるだろう。しかしイエナのこの賢明な老天才は、すべてに打ち克ち生き延びるだろう。」
 「私はダーウィンとヘッケルが、私の知性を解放してくれたことに対して、伝統的な奴隷状態のくびきから解き放ってくれたことに対して感謝する。人類の大半が一生涯そこにつながれているのだ。彼らは、自然の偉大な、高められた秘密を理解するための鍵を私に与えてくれた。そして世界の明るい見通 しを妨げていた霧を、私の視界から吹き払ってくれた。」
「(あるヘッケル崇拝者がヘッケルに初めて会い、彼がドイツの異教の神オーディンに見えた)その瞬間、私はわが祖国とわが民族を再発見した。そしてそれとともに、すべての不透明さと怒りから、内なる弱さのしるしであるハインリッヒ・ハイネの皮肉から解放された。そして湧きあがってきたのは、自信のある信念から生まれた快活と幸福の強い感情であった。このようにしてエルンスト・ヘッケルは、わが民族に対する信念を私に取り戻してくれたのだった。」

 ここに現れているのは、当時のドイツの暗雲を吹き払ってくれる救世主を迎える人々の態度である。ドイツ人が後にヒトラーを迎えたときもこのように言ったはずである。この救世主がもたらしたのは「自然」という神――闘争によって自ら運命を切り開く自由を保証してくれる神――である。他民族を征服し抹殺することも、ダーウィン=ヘッケルの発見した科学法則に従うことであり、強い民族に課せられた崇高な義務でさえある。
 ヘッケルがこのようにして迎えられたとすれば、少数の良心的科学者の声など吹き飛んだことであろう。のみならず、ヘッケルの自然科学者としての権威を疑うような者は、「非国民」扱いされたであろう。彼のデータの偽造などは不問に付されるどころか、ほとんど神聖な行為とみなされたであろう。これは国威発揚のための歴史の偽造と本質的に同じである。こうして、一度は告発された彼の胚の偽造絵は、侵すべからざる聖なる画像として復活したと考えられる。
 次号では更にこのおぞましい世紀の謎を追及するが、そうすることで、ダーウィニズムとは本当は何であったかということだけでなく、我々の唯物論文化そのものが何であったかが初めて見えてくるのである。

 

『世界思想』No.385(2008年1月号)

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