NO.69



科学者の傲慢と謙虚(1)
―無神論者のエセ謙虚に欺かれないために―


間違った平等思想

 ある人が、息子の習っている大学の英語の教科書にインテリジェント・デザインについて書かれたこんな文章が載っている、と私に見せてくれた。それはアメリカのID論争を簡単に紹介する記事で、両陣営の立場を一応公平に解説してある。しかしその最後に、「我々は他の動物と同じであり、この宇宙で特別 の存在ではないと考えるのが謙虚な正しい態度でなかろうか」という意味のコメントがある。
 これは間違った謙虚、間違った平等思想というもので、こういう言い方によってどれだけ人々がミスリードされたか知れない。こう書く人に、おそらくミスリードの意図はないのであろうから、なおさら始末が悪いのである。これは謙虚という美徳に訴えて、ひそかにIDを退け、ダーウィン進化論を支持するものである。「人間は特別 な存在ではない」「思い上がってはいけない」という誤った「コペルニクス原理」に、我々は長いあいだ自縄自縛の状態にあったという不幸な事情については、これまで繰り返し説明してきたが、これが傲慢を諌めるかのように見えるがゆえに、人々は判断を誤ったのである。宗教的立場の人もよく口にする「人間だけがなぜ偉い」「生きとし生けるものは皆平等」というのは反面 の真理でしかなく、これが無神論者・進化論者に利用されるという事実を忘れてはならない。
 人間だけが偉いのではない――人間だけに責任があるのである。このけじめが理解できなければならない。この二つは似ているようで全く違う人間解釈であり宇宙解釈である。人間が神にとって代わる傲慢な人間中心主義(anthropocentrism)と神のデザイン(愛)が人間に集中しているということを自覚する人間原理主義(anthropism)とは、正反対のものである。この二つの人間中心思想の混同が、長い間、我々の思想的混乱の原因となってきた。無神論者が宗教者の「傲慢」を批難する図式の原型が、進化論者ヘッケル(一八三四-一九一九)に見られる。

…我々の母なる地球が、無限の宇宙の中で日光に舞う塵の一点にすぎないように、人間自身も有機的自然の滅び易い機構の中の、ちっぽけな原形質の一粒にすぎない。
この壮大な宇宙的観点ほど、我々を取り巻く広大な謎を解き明かすのに必要な、正しい尺度と幅広い視野を与えるのに適したものはない。それは自然の中での人間の真の位 置をはっきりわからせるだけでなく、広く流布している誤った人間の自尊意識と、人間を無限の宇宙の中の特別 の存在とし、自己をその宇宙の最も貴重な要素にまで高める傲慢に気づかせるものである。この自惚れ人間の無際限の思い上がりが、彼を誤らせて自己を「神の似姿」と錯覚させ、かりそめの人間存在に「永遠の命」を主張させ、人間に無限の「自由意志」があるかのように想像させたのであった。この滑稽なカリグラ[傲慢なローマ皇帝]的な尊大の愚は、人間の神を気取る傲慢な思い上がりの特別 の形にすぎない。この根拠のない錯覚を放棄し、正しい宇宙的観点を取り入れたときにのみ、「宇宙の謎」の解明へと一歩を踏み出すことができるのである。(Ernst Haeckel, The Riddle of the Universe, Ch. 1)

 百年以上も前に書かれたこの文章と同じ立場に立って――その間、科学の進歩が全くなかったかのように――世に悪影響を与えているのが、現在の戦闘的な無神論者集団である。ダーウィンやヘッケルの時代には、細胞は単なる「原形質の一粒」(膜に覆われたゼリーの塊り)のように考えられていた。人間全体も細胞の単なる集合にすぎないと考えて、ヘッケルはこう言ったのだろう。また当然ながらヘッケルは、宇宙の諸条件が人間のために信じられないほどにデザインされているという事実を知る由もなかった(もちろんビッグバン説も知らなかった)。これらを考えただけでも、現代科学はヘッケルの時代とは正反対のデータの上に立っていると言ってもよいだろう。にもかかわらず、ヘッケルの世界観だけは古今無謬のものであるかのように考え、かつ教えようとするのは、そもそも無理な話なのである。
 「人間よ思い上がるな」というのは半面の道理にすぎない。これを全面 的真理のように考えるなら、それは人を謙虚とは逆の傲慢に導くのである。「(塵あくたのくせに)人間よ思い上がるな」というのは、謙虚ではなく人間蔑視である。この人間蔑視(従って神蔑視)の思想から、「このオレが間違った人間と世界を叩きなおしてやろう」という二十世紀の大半を支配した悪魔的権力への意志が生まれる。と同時に「どうせオレたちはゴミくずよ」という自暴自棄が生まれる。戦闘的な無神論においては、ドーキンズの優生学容認思想に現れているように(5月号参照)、我々は塵あくたにすぎない、動物にすぎない、というエセ謙虚(卑下、自暴自棄)が、開き直り一転して、人間操作という悪魔的な意志にかわるのである。

進化論根拠に中絶容認

 アメリカには進化論争のほかに、人工中絶の可否を問う論争があって、中絶容認派(プロチョイス)と中絶否定派(プロライフ)が絶えず争っている。プロチョイス側がその「科学的根拠」を、いかにヘッケルの胚の偽造絵に依存していたかを、ジョン・ウエストは明らかにしている(John G. West, Darwin Day in America: How Our Politics and Culture Have Been Dehumanized in the Name of Science, 2007『アメリカのダーウィン記念日――我々の政策や文化が科学の名においていかに非人間化されたか』)。人間など魚や動物の子孫にすぎない、その証拠に胎児には鰓や尻尾があるではないか、そんなものの命を奪うのに何の躊躇が要るものか、といった「科学者」の証言がいかに説得力をもったことであろう。おそらく過去、数え切れぬ 産婦人科医や女性が、これを良心を黙らせる有り難い福音として利用したことであろう。
 『進化のイコン』によれば、ダーウィンはこの「事実」を、自説を証明する「最も強力な唯一の現象」として歓迎したのだから、これはダーウィンに容認されたダーウィン自身の絵と考えることもできる。ダーウィン進化論は純粋な科学理論だから、その社会的影響とは切り離して考えるべきだという考え方は間違っている。ジョン・ウエストは、ダーウィン理論を根拠にした、アメリカでのナチスを思わせる大規模な強制的断種(不妊)処置について述べながら、「科学的事実」とそれが社会に対してもつ意味の間に、「防火壁」などないと言っている(創造デザイン学会HP最新情報7/13「科学思想警察を敗退させたルイジアナ州」参照)。

「反科学」の烙印を押されるのを怖れて、保守派の中には科学の合意見解に異を唱えることに臆病な者がいる。彼らは、保守主義者は現在受け入れられている科学の「事実」に異を唱えるべきでなく、ただ、科学者がそれらの事実を政治や道徳や宗教に間違って適用していると思われる場合にのみ反対すべきである、と主張する。こういった人々は、「事実」を決定する権限は科学者に譲っても大丈夫で、それらの事実を彼らが文化の他の方面 に適用することに異を唱える権限を確保していればよい、と考えている。
しかしこの考え方は大いに問題である。
第一に、科学的「事実」と、それが社会に対してもつ意味の間に、防火壁が存在するという考えは支持できない。・・・
 第二に、どんな問題でも、現在の科学的合意なるものが、奴隷のように従うに値するものだという考えは、科学の歴史のとんでもない無知からくるものである。これまで繰り返し科学者たちは、普通 の人と全く同じく、狂信、偏見、誤りによって、盲目的になることがあるという事実を示してきた。アメリカ史上おそらく最もひどいその例は、優生学運動、すなわちより優れた人間を、人為的に作ろうという間違った考えに基づく運動であった。
 二十世紀初頭の二、三十年間、ハーヴァード、プリンストン、コロンビア、スタンフォードといった名門大学の主導的な生物学者たち、また米国科学アカデミー、米国自然史博物館、米国科学振興協会といったアメリカの一流の研究機関の科学者たちが、こぞって優生学研究に没頭した。この運動が終りを告げるまでに、約六万人のアメリカ人が彼らの意志に反して断種(不妊)処置を施された。これはプリンストンの生物学者エドウィン・コンクリンが「進化と進歩の偉大な法則」と呼んだダーウィンの自然選択の法則に対する違反の罪を犯さないようにするためであった。

ダーウィンの本音

 ダーウィンは純粋な科学者であって、彼の説から生まれた社会ダーウィニズムや優生学には責任がない、まして「ホロコースト」などには全く関係がない、とダーウィニストは躍起になって主張する。これは映画『追放』に、ナチスの強制収容所の風景が出てくることに対する反発として、ダーウィニスト陣営を刺激したことにもよるだろう。しかしこれは受け入れがたい主張である。もしダーウィンが自説のもつ社会的な意味について全く無知無頓着であったと言うなら、それはダーウィンを阿呆扱いすることになる。また彼が自説のもつ社会的・人間解釈的な意味を気にしていて、それが優生学や人種差別 の方に向かわないように気を使ったと言うなら、それは事実に反する。Paul HumberやJerry Bergmanが指摘するように(4月号参照)、ダーウィンはれっきとした人種差別 主義者であった。ただその発言が我々の目に触れることが少ないというのである。それは人間については触れるのを避けた『種の起源』でなく、あまり読まれない晩年の『人間の由来』(The Descent of Man)に歴然と現れている。
 ジョン・ウエストも『アメリカのダーウィン記念日』の中でこう言っている――

しかしながら、深く掘り下げないでこういったダーウィンの言葉[無神論的と思われないように配慮した言葉]を受け取る人々は、ダーウィンの知的計画が、本当はいかに由々しく過激なものであったかを見落とすことになる。問題は一つには、今日ダーウィンを読む人々の多くが『種の起源』だけに目を向けることにある。ダーウィンがこの本を「わが生涯の主著」と呼んだのは確かだが、それは彼の理論についての彼の円熟した見方をそこから拾うには、おそらく最上のテキストではない。それは確かに、ダーウィン理論の、人間社会への意味合いを引き出すのに最上のテキストではない。この問題について情報を得るためには、『人間の由来』を読まなければならない。

ダーウィンの本音が次のような文章に表れている――

野蛮人(savages)においては、肉体や精神に弱点のある者はすぐに除かれ、生き残るのは通 常、旺盛な健康状態にある者たちである。これに対して我々文明人は、弱者除去の過程に逆らうための万全の努力をする。我々は低能者や不具者や病人のための施設を作り、救貧法を制定し、医療関係者はあらゆる人間の命を最後まで全うさせるように最大限の技術を用いる。ワクチン接種というものが、以前なら虚弱なために天然痘に抵抗できなかったであろう何千もの人間を、持ちこたえさせているのは確実である。そのようにして文明社会の弱者たちは、彼らの同類を繁殖させているのである。家畜やペットの品種改良を観察したことのある者ならだれでも、こうしたやり方は人間という種族にとって高度に有害であることに疑いをもたないだろう。飼育動物の場合、世話を怠ったり間違った世話をしたりすることが、いかにその動物の崩壊を早めるかは驚くほどである。しかし人間自身を例外として、最悪の動物を繁殖させようと思うような無知な者はどこにもいないだろう。(The Descent of Man, 1871, Pt.1, Ch. 5)

無罪放免はできない

 ダーウィンは確かに奴隷制度には反対した。しかしこれを読めば、彼を社会ダーウィニズムや優生学に無関係であったとして、無罪放免するわけにはとうていいかない。しかも、こうした議論が容認されていた当時としても、かなり過激な優生学への意志が見て取れる。むしろ福祉社会への反逆者のように見える。むろんこうした当時の風潮が、ダーウィンを唯一の源泉として生じたとは言えない。しかし結果 的に、ダーウィンがその「科学的根拠」になったのは間違いのない事実である。
 ダーウィン生誕後二百年、『種の起源』出版後一五〇年を記念して、ダーウィン万歳を唱える時代錯誤的なマスメディアの企画が日本にもある。今日の基準で当時の風潮を裁くことはできないとしても、そしてダーウィンをことさら悪者にする必要はないとはいえ、事実は事実として正しく認識しておかなければ、我々は現在の判断を誤ることになる。

『世界思想』No.393(2008年9月号)

人間原理の探求INDES前の論文次の論文


創造デザイン学会